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大島紬とサンゴと島(シマ)の文化とーSELF合宿2023@奄美

みなさん、うがみんしょーらん!
2023年は、お正月明けから、奄美大島へ行ってきました。

朝のサトウキビ畑

縁あって、ご招待頂いたので、2023年1月7日~9日の3日間で「SELF合宿」という場に初めて参加してきました。

集合写真

SELFについてはこちらから↓↓↓


「SELF合宿」のはじまり

この場で大切にしたい5つのこと

総勢60名を超える人が奄美に集まった。その中で面識のある方は10人ほど。ほとんどの方とは”初めまして”でした。

でも、みんなの前で一人一人自己紹介とか、順番に名刺交換するとか、そういう時間は一切なくて、人と人としてまずは出会ってみる…そんな場になっていました。

それもそのはず、この場で大切にしたいことの5つがこんな内容だったからです。

・「個」と「個」のつながり
・正直であること
・未知を探求する
・いまここに没入する
・全員でつくる

2022年を一言でいうと…「邂逅」

続いて、6人組のホームグループが言い渡され、チェックインからはじまりました。今回の3日間は、未知を探求する旅でもあったので、自分の中でどこか拠り所のなさがありました。ただ、この帰れる場というか、このホームグループがあるおかげで、心の支えになっていたなって終わってから凄く実感しています。

そこからさらに2人組のペアを作り「未知のあなたに出逢うインタビュー」をリゾート気分満載のプールサイドではじめたのです。

年が明けたばかりというのもあり、2022年の体験や感情を振り返りながら、今自分がどこにいるのか、そしてどこに向かおうとしているのか、そんな問いをお互いにインタビューし合ったのでした。

僕の2022年を一言でいうと…「邂逅」(=Serendipity.)でした。

このインタビューのお相手が、あっこさんで良かった。
このスタートが、3日間のジャーニーのベクトルを示してくれました。

個人的に、年末に2022年の振り返りをしていたのですが、インタビューだからこそ、あっこさんだからこそ、引き出された言葉があったと思います。

特に、人生最高の瞬間の話をした時、旅を創り、旅人とともに過ごす時間の中で”屋久島の森に委ねられた”と感じられる瞬間があって、個人としても、ガイドという仕事においても自分の中で響いた。って自分は話していたようですが(メモに書かれていた)、これは一人では出てこなかったフレーズだったと思います。

最高の瞬間は、昨年ちゃんと文章に残していました。

そして、いよいよ総勢60名を超える方々と、未知に満ちた3日間の合宿がはじまったのでした。未知を未知のまま受け入れることで、そこからまた新たな未知の世界が広がっていく、その先に希望があるのだなと感じさせてくれることとなった3日間のはじまりでした。

SELF合宿という場は、屋久島にとって、どんな存在になり得るのか?

異なる文化を持つ、他者に触れること

勝さんと憲吾さん、ヤマシタケンタさんの基調セッション

今回、奄美へ行って、奄美出身の勝さんや憲吾さんの話を聞いて、奄美も屋久島同様に、シマ・集落を大切にする文化なんだとあらためて感じました。

屋久島の人同士で話をしていると、屋久島(私も含めた)は…という主語で語る機会はあまり多くなく、〇〇集落は…という集落という主語で語ることが多いと感じています。

屋久島は…と語るとき、そこには必ず屋久島にとっての他者(外の存在)が必要になるんだと思う。

これまで当たり前で通してきたことを、あらためてそれってどういう意味があるんだっけ?と問える機会というのが、他者の存在に触れた時、もっと言うと、我々とは異なる文化を持つ他者に触れた時なのかもしれない。

その繰り返しの中で、文化は洗練されていくんだと思うのです。

今回、合宿でもお話をさせてもらった憲吾さんのインタビュー記事にも、こんなことが書かれています。

「音楽で島興しを!」と、1998年にライブハウス兼レストランバー「ROAD HOUSE ASIVI(アシビ)」をオープンした麓憲吾さん。
当初は、地元ミュージシャンのイベントを開催していましたが、その後は、島外のミュージシャンも数多く訪れるようになります。
そんな中、島外のミュージシャンから、「奄美の島唄はすごい!」と言われるにつれ、島唄の存在を再認識した麓さん。
「島唄や島の文化に対して、無知だったことに気付かされた」と言います。

あまみっけ。より引用


異なる文化を持つ他者の存在価値

また、喜界島でサンゴ研究をされているなべさん(敬意を込めて敢えてこう呼ばせてください!)のお話。

サンゴの研究者と喜界島の人とで演劇をやる中で、島の人同士が言葉にせず暗黙知で意思疎通しているところ、島の外から来た人は暗黙知が分からないので、それどういうことですか?という質問から、実は島の人同士が認識していることが違っていたというお話は、異なる文化を持つ他者にも存在価値があることをあらためて気付かせてもらいました。

そして、演劇をする一つのきっかけとなったのが、屋久島高校の演劇部の活躍だったとは…(この話はまた別の機会に)。

”内は深く、外は広い”

外の広さを知り、内を深めていく。

島という存在は、常に他者の存在を意識してきたのではないかと思うのです。海というはっきりとした、物理的な境界線があるから。もしくは、シマ・集落を内とするなら、そこにも外との境界線に、山があり、川がある。

そして、その他者の存在を拒むのではなく、受け入れる。異なる文化との「邂逅」を、常に自らの文化へと融合していく。それが島で生きるということなのではないでしょうか?

今回、奄美での時間を過ごして、強くそう思うのです。

多様な他者の存在が、多様な屋久島を想像させてくれる

合宿の中では、”みんなで作る”を大切にしていたので、参加者自らがテーマ設定して、セッションして、対話するが繰り返されました。

自分も「地域に根差したリーダーシップとは?」「屋久島世界自然遺産登録30周年で、SELFと何をする?」(30周年は、奄美はもちろん、屋久島以外の方が注目してくれていることを再確認した!)などセッションを立ち上げさせてもらいました。ほかにも40近いセッションが立ち上がっていました。

そうしたセッションでは、鹿児島の人であり、県外の人と対話していくことになるので、僕は必然的に、屋久島(自分の存在をも内包した)は…という主語で語ることになるのです。

セッションには、北は北海道から南は沖縄から集まった多くの他者の存在がありました。だからこそ、その時感じたのは、様々なバックボーンを持つ他者の数だけ屋久島のことを想像したな、そんな感覚が残っているのです。

多様な他者の存在が、こんなにも多様な屋久島を想像する機会を与えてくれるとは…ここで想像したことを屋久島の仲間と分かち合いたい、そんな気持ちが湧いてきました。

新たな出会い、そして屋久島の仲間とも絆を深めた

150年後の世界に、私たちは何を遺すのか?

奄美の伝統工芸「大島紬」から感じたこと

今回のSELF合宿の立派なしおりの表紙を開くと、こう書かれていた。

”150年後の世界に、私たちは何を遺すのか”

150年前。それは、ちょうど明治維新が繰り広げられた時代。
明治維新に尽力した志士たちの人生を振り返ると、ドラマティックな人生を歩んでいて、人ひとりの一生において、さも大きなことが成し遂げられるように感じてしまうことがあります。

でも、奄美に前入りして、大島紬の製造を見学して感じたことがあります。

大島紬村で製造見学

・ひとりのカリスマやスターを生まない、頼らない。
徹底的な分業制(40もの製造工程がある)。
だから大島紬の職人に人間国宝はいない…と告げられました。

・助け合う、分かち合う文化。
みんなで一つの大島紬という織物作り、日常着として分かち合う。
これは、憲吾さんが話をしてくれた奄美の島唄のみんなで唄う”アマチュアリズム”にも通じると感じています。分かち合う様の豊かさであり、美しさ。

・奄美の自然とともにある手仕事。
素手で泥や水分、糸の感覚を確かめながら、テーチ木(シャリンバイ)染め、泥染めを行い、湿気で伸び縮みする絹糸の感覚を確かめながら、緻密に織っていく。そこに自然との共生が感じられる。

・人から人への継承と信頼
1300年もの間、多くの人に分かち合われ、続いてきたという事実の重さ。

日頃、屋久島のガイドとして、1000年以上生きる屋久杉を案内していると、
せいぜい100年の人間と、1000年以上生きる屋久杉を比べて、いかに人がちっぽけな存在かを思い知らされています。

ただ、というか、だからこそ、そのちっぽけな存在である人が、過去の時代の知恵を受け取り、次の時代の人々を信じ、紡ぎ続ければ、1000年という時間軸とも対峙してゆけるのだなと。大島紬を見て、過去へ、未来へ想いを馳せたのです。人間まだまだ捨てたもんじゃないなと。

自分の人生とは?存在とは何なのか?

そして、その1000年という時の中において、自分の存在は何なのか?

そんな問いが浮かんできました。

自分の人生は、大島紬に例えるなら、”絣(かすり)”のようだなということ。
絣ひとつでは何物でもないけれども、その”絣”がないとあの素晴らしい絵柄は描けない…。

絣とは、大島紬にはなくてはならない存在で、経(たて)と緯(よこ)の糸が重なった十の字になっているところのこと。先染めをする大島紬では、たての綿糸がよこの絹糸と重なったところが、色が染まらず、白い絣として残るのです。そして、綿糸はほどかれて、絹糸のみを使います。この絣が絵柄を作っていくのです。

長くても100年という自分の人生において、どんな絣を残すのか。

絣は1本の糸ではできない…。

たて糸とよこ糸の交わりがあるからこそ生まれる。

自分は、1本のたての綿糸かもしれない。
夢という絵柄が完成するとき、途中でほどかれてしまい、もうその絵柄には存在しないけれども、確実に、”絣”という表現を通して、そこに”ある””あった”と言われる存在。そうであれたらいいなと。

綿のたて糸はほどかれてしまう

綿と絹。どちらも自然にある素材からできるものですが、自然とともにある、そして、自然の多様性があるからこそ為せるわざなのかなとも思います。

おそらく、大島紬を知識として得ても、自分の中で言葉にできる「知」にはならなかったなと思う。大島紬を実際に目で見て、その場の空気とともに感じて、身体知として自分の中に残せたからこそ、こうして言葉にできているのだなと。

その土地を身体で感じる。奄美に行って良かったなと今心から思います。

伸びた絹糸を絣の位置に合わせて絵柄になるよう調整していく

文化における多様性が、自然における多様性に通じているというお話は、屋久島とも縁の深い霊長類学者・人類学者の山極壽一先生もおっしゃっています。

この例で僕が思い出すのは、2001年にユネスコのパリ総会で行われた「文化的多様性に関する世界宣言」です。その第1条1項目には「自然にとって多様性は重要であると同時に文化にとって多様性は重要である」と書いてあります。これはすごいことだと思う。文化の多様性が自然の多様性にも結びついているのですから。
このことは屋久島にいるとよく分かります。屋久島の気候は東西南北で違いますし、海の流れも雲の動きもまるで違います。島の多様性に準じてそれぞれの集落に多様な文化があり、そこに住民が誇りを持っているのです。
加えてこの宣言の第7条には「創造性というものは複数の文化が接触することによって生まれる」とも書かれています。つまり、地域共同体が持つ固有の文化はひとつで孤立していてはいけない。「シマ兄弟」や「シマいとこ」のように、それぞれの文化が接触し合うことによって新たな未来が開き、人間の新しい発想が生まれ、生活の改善が進むのです。

離島経済新聞社『人類学者の山極壽一さんに聞いたゴリラと屋久島に学ぶシマと島の可能性(前編)【特集|つよく やさしく たのしい 地域共同体に学ぶ 島のシマ』


まあ、発想がぶっ飛んでるって言われると思いますが、もうひとつインスピレーションが湧いてきて…大島紬の絣の図案を見ていたら、まるでこれは生命の遺伝子のようであり、DNAのようだなと…。

生命というのも、大島紬のように、計算し尽くされた美しい設計図から始まり、緻密で寸分狂わぬ細かな工程を通して、生まれているんじゃないかと。
だからこそ、大島紬のように、ひとつとして同じ作品=生命はない。

そう思うと、ひとつひとつの生命が心の底から尊いなと感じるわけです。

美しい設計図


「時空を超える価値」としてサンゴと出会い直す

あやまる岬より

人と人として出会うことで、「邂逅」が生まれる

2日目の朝。朝食でたまたま同じテーブルでご一緒したのが、喜界島サンゴ礁科学研究所を立ち上げたなべさんでした。

ところが、朝食の席では、話の中にサンゴが登場することはなく、草船の話ばかりをしていたんです。今度、草船にした草を家の屋根にするんだよと教えてもらったり、僕も屋久島にたくさん生えてるダンチク(イネ科)を使ったら面白いんじゃないか?など楽しく話をしていたので、失礼ながら、喜界島で草船作りに関わっている人だと思い込んでいたのです。笑

でも、午後のセッションがはじまったら、「時空を超える価値」というテーマでセッションを開いていて、そこで初めて、ああ、サンゴ研究の先生だったのか!と笑

セッション風景

もしこれがサンゴの生態の〇〇とか、サンゴと地球環境の〇〇などだったら、サンゴとの出会い直しはなかったかもしれない。「時空を超える価値」という僕にとっては到底サンゴとは結び付かないテーマに魅かれてセッションに参加できたのが大きかったと思う。全く展開が想像できず、未知の探求だなと思ったので。

そして、何より肩書きを通して出会っていたら、この「邂逅」はなかったなと思うのです。人と人として出会えた。個と個のつながりから始まったからこそ、何か”ある!”そう感じられたというのが間違いなくあると思います。

喜界島と、屋久島と、僕の人生の交差点

喜界島と言われて思い浮かぶことが2つある。

一つは、以前屋久島に在住してた友人が今まで行った島で一番良かったと言っていたこと。

そして、その友人に、久しぶりに連絡をとって、喜界島のどこが良かったの?って聞いたら、人だと。

この”人”ってメッセージをもらって、僕の中でさらに喜界島への期待が増していったのです。

屋久島もそうですが、この島の自然と対峙してきたからこそ育まれる何かがあるなと思っていて、喜界島にもきっと喜界島の自然と対峙してきたからこそ育まれてきた何かがあるんだろうなと予感しています。

奄美に大島紬があるのも、おそらく奄美の人々が、長い年月かけて、奄美の自然と対峙してきたからこそだと感じています。

ベタベタし過ぎず、かといってほっとかれるわけではない、ほどよい距離感が喜界島の人には感じられる。そう友人からのメッセージには続きが書かれていて、なんかちょっと屋久島に似ている気がするなと思いました。

僕も屋久島でガイドをしている時に、一番といってもいいほど大切にしていることが、旅人との距離感で、この部分だけは誰よりもこだわっていると思っています。笑

まずは人と人ととして出会う。ガイドと観光客という出会い方はなるべく消し去りたいと思っています。そして、何でもかんでもやってあげてしまうのは、その旅人の旅の楽しみを奪ってしまうこともあるので、ときに旅人に委ね、余白を作り、でも旅人が左右をキョロキョロし始めたら、”どうしたの?”って横で言える存在でありたいなと思っています。

大切な友だちを案内するように。

もう一つの話ですが、これももう「邂逅」としか言えないのですが、今から20年前のことになります。大学時代のバイト先でとてもお世話になったファミレスの店長が、喜界島出身だったのです。東京に住んでいて、喜界島出身の方と出会ったのは、後にも先にもこの時だけです。

当時は、「え、その島どこにあるんですか?」って感じだったんですが、20年の時を超えて、ようやく喜界島とのご縁が生まれることに少し興奮しています。

大学卒業して、しばらくは連絡取っていたんですが、今は音信不通。
もしかしたら東京から喜界島へ戻っているかもしれないし、そうでないかもしれない。どちらにせよ、お世話になった方が生まれ育った島を感じに行けることが豊かだなと思っています。

※獅子内という苗字だったのですが、調べたら、岩手県二戸市、青森県八戸市に集中しているそうで、喜界島に関しては、1軒のみとなっていた。

そして、喜界島との縁はまだ続く…
今読み進めている屋久島でも話題の『南洋のソングラインー幻の屋久島古謡を追って(※)』を読んでいたところ、ちょうど”喜界島のまつばんちゃ”の文章に出逢い、どうやら幻の唄・まつばんだを通して、僕の住む屋久島と喜界島とも繋がりがあるようです。
※海の民が伝えた屋久島古謡“まつばんだ”の謎を追うノンフィクション大作です。

・「南洋のソングライン」(著者:大石始)

・【動画】屋久島古謡まつばんだノンフィクション書籍「南洋のソングライン」著者・大石始トークイベント@屋久島(2022年12月5日)

このYakushimaFilm撮影の動画には、1965年(昭和40年) 酒匂シゲさんと泊サトさんが当時唄われた「まつばんだ」が 19:40頃に流れます。僕もこのテープを聴くのは、この動画がはじめてだったんですが、どこか懐かしい雰囲気を感じました。東京出身なのに。

昔どこかで身体の中に響かせたことがあるような音。

ふと思うのは、幼少期、法事が多く、よくお寺に行って、住職に読経してもらっていました。足はしびれるのですが、意外とあの時間が好きで、身体に音が入って、響いてくる感じが、無になれるというか、ここにいていいんだという安心感のようなものを幼いながらに感じていました。

まつばんだのこのテープ音源を聴くと、どこかその時の感覚と近いなと感じるのです。「声明(しょうみょう)・梵唄(ぼんばい)」と呼ばれるものとも通じるところがあるのではないか、そんな想像をしたくなっちゃいます。

SELF合宿からのネクストアクション

3月5日、サンゴの日に、サンゴまつりへ行く

サンゴ研究のなべさん、ざきさんと出会って、喜界島、この島にも何かがある!そう感じたのです。SELF合宿のネクストアクションとして、3月に喜界島へ行くことに決めました!!

3月5日=サンゴの日ということで、サンゴのお祭りをするそうなのですが、100年続く祭りをやろう!ということで、100年のはじまりにその場に居られるって凄いな!って。あとは未知!笑

喜界島から学べることが、屋久島にもあるのではないか?という自分への問いを持って…

なべさんやざきさんのお話やなべさんのインタビュー記事を読んでいて、
喜界島サンゴ礁科学研究所のあり方に関心を抱いたのもあります。

「研究」×「教育」×「普及」を軸に、100年続く研究所を運営しているというのがとても興味深かったのです。

研究所を立ち上げるということは、フィールドワークから分析から、それを一緒に議論する人も必要だから、一人でできることには限りがあるな、ということは思っていました。何をどのくらいまで残せるのかということを考えた時に、まず、喜界島は既に自然と歴史が「残されている場所」だと思ったんですね。だから、それらをサンゴ研究の成果を含めて、100年後に残すということを考えました。10年後だと「そんな近況の話は関係ない」という反応になりがちだけど、「100年後」というと、直接の利益や利害がないので俯瞰的に見てくれるし、酒を飲みながら「100年後って夢があるじゃないか」という感じで乗ってきてくれたりする。

esse-sense(エッセンス)
『サンゴの島の研究所が若者を魅了する理由と私たちがサンゴから学べること』より

また、この記事のインタビュワー西村さんの最後の文章にも心押されました。屋久島に住む一人の人として…。

昨年末、喜界島サンゴ礁科学研究所が開催した「礼文島と喜界島」をテーマにした講演会に参加し、地球規模の気候変動が数千年前の人々に与えた影響について知ることができました。中でも印象に残ったのは、サンゴに地球規模の気候変動が刻まれたまさにその時期に、外部と接触し文化を融合させることでその危機を乗り越えていくような人々の行動が見えるということ。つまり、海流に浮かぶ小さな島に暮らした人々は、決して閉ざされることなく逆に海流を利用し、長距離を移動しながら情報とモノの交換を行なっていたのです。
そのような過去の人類の経験は、地球温暖化による気候変動に直面し、また感染症という危機が目の前にある私たちに、生きる勇気を与えてくれるように感じました。
今回のインタビューでは研究者でありながら積極的に人と関わり合うことで道を切り拓く渡邊先生の姿勢にも共感しました。今後も小さなサンゴの島から始まる取り組みに注目していきたいと思います。

esse-sense(エッセンス)
『サンゴの島の研究所が若者を魅了する理由と私たちがサンゴから学べること』より

最後に、敬意と感謝を…

こんな場を作ってくれて、招待してくれた、SELFの皆さん、特に、3日間に渡り、猛獣相手(笑)に場をホールドし続けてくれた恭平さんには多大なる感謝と敬意を表したいと思います。

あの場は、自分にとって間違いなく、オットー・シャーマーのいう「共に学びまたは感じる旅」になっていたと…今振り返ってもそう思います。

本当にありがとうございました<(_ _)>


***奄美で見た風景たち***

笠利崎灯台にて。
大島紬も伝統を進化させていた。

世界遺産の島で奮闘中!!よろしければ、応援よろしくお願いしますm(_ _)m