見出し画像

未来教育ナイト(工藤先生&木村先生スペシャルトーク)

2020.6.13にConfeitoさん主催の未来教育ナイトというイベントで前麹町中校長で現横浜創英中・高校長の工藤勇一先生と、大空小学校初代校長の木村泰子先生という大物お二方のスペシャルトークがありました。

パソコンの音声が飛びまくり、開始直後のブレイクアウトセッションを辞退するという大アクシデントに見舞われましたが、お二人のトークセッションには何とか間に合い、素敵な学びを共有することができました。

工藤先生、木村先生ともに何度かセミナーに参加させていただいたこともあり、それぞれの学校内改革については過去にも学ばせていただいておりました。今回は、お二人の学生時代や若手教員時代のお話にも触れ、そこから麹町中・大空中での改革につながるエピソードをうかがうことができました。

ホンネが語り合える世の中とは?

ホンネが語り合える世の中とは、本音が語り合える学校ということなのか?
義務教育のスタートである小学校時代の6年間、現場はどのようになっているのか。

6年間の学びはこういうものである。
子どもと大人の関係性はこういう感じ。
可もなく不可もなく生きる。

「教師」の肩書を持った人間が子どもたちにこのようなことを与えてしまっているのではないか、これをいかに子どもたちに与えるかが「教師」の評価につながっているのではないか、という問いがありました。

学校のリアル

今は残念ながら「普通」と「普通でない」というくくりになってしまっているところがあります(もちろん、うまくいっているところもあります)。

「普通」という集団に入っているとなぜか優位に立っているような感覚になり、「普通」ではないという集団に入ることを排除的に感じてしまいます。
ひとたび「普通ではない」場にいくと、周りの大人の評価が厳しいものにかわり、「あの子と遊ぶの、やめときなさい」とかいう心ない言葉を「普通」の子になげかけてしまいます。
結果、子どもたちに「普通ではない」場に行くことに対する恐怖心をうえつけてしまいます。

主語は子ども

木村先生、工藤先生ともに主語は子供であると発言されていました。

木村先生は自身の若かりし教師時代、自分のクラスの子どもたちを一生懸命育てていた過程で、隣のクラスの子の問題児を排除していしまったという失敗談を経験したことが、その後のクラス担任制の廃止などにつながっていったと回想していました。

工藤先生は子どもたちから子どもを主体的にさせたいと思った直接的なきっかけはなかったものの、ご自身の学生時代の性格に触れられていました。
中学の時から「団結」という言葉が大嫌い、協力を強制されるのが嫌いだった学生時代。
時を経て教師という職についたとき、公立の学校には多様な子どもたちがいるので、それを傍観的にみるわけにもいかず積極的に入ろうとする自分がいたのだそうです。
自分が染めてやろうという考えを、みんなが主体になるという考えに改めた時に転機が訪れます。
子どもたちはお互いに少しずつ折り合いをつけ、その中から気づきをみつけていくのです。
その姿をみて自分が教わった、と感じたのだそうです。

わずか数週間でオンライン環境を構築

工藤先生はこの4月から横浜創英中学・高校に赴任されています。
着任後、わずか数週間でオンライン環境を構築し、さすがだなと思っていたのですが、先生のトップダウンで行われていたものではなかったようです。
先生方、生徒たち、みんなのアイディアがつまってできたものだそうです。
何人かの教師が集まってブレストをやる。
課題の洗い出しをする。
それぞれでできることをやって学校を巻き込む。
その力に長けていると改めて感じました。

子どもの事実に向き合う

子どもに寄り添う学校にしようとするには、他の先生にどう接していくかがカギとなります。
子どもが先生に向き合ってくれない(面倒くさい、イヤだ)という関係性を持っていた先生方は寄り添うという言葉が苦手です。
「子どもを好き放題にさせるのか、甘やかせるのか、言いたいことも言えないのか」というマニュアルから入っていく先生方も大空小赴任当初は何人もいたのだそうです。

寄り添うとはどういうことなのか。
それは事実に向き合うということではないのでしょうか。
見えないところを見ようとしない大人のところに、子供は寄ってきません。

保護者ではなく、サポーター

大空小学校では学校に一歩入ると「保護者」ではなく、「サポーター」と言われます。ここにも木村先生の思いを感じます。

家庭という場で保護者はどんなことがあっても自分の子を守ります。
その保護者が学校という場に入ったとき、保護者という立場上、自分の子どもしか見えなくなってしまいます。

学校という場はそうではない。一歩入れば様々な個性を持った子どもたちが一緒にいるのだから、一人のサポーターとして校内に入り、一緒に学んでいる全ての子どもたちのサポートにまわって欲しい、という強い思いが込められています。

全員を取り残さないようにするには

言葉ではみんな違っていると簡単に言ってしまいますが、実は、すごく難しいことなのです、と工藤先生は言います。

教員一人一人価値観が全員違う中、トップであるである自分のところにやってきて、その価値観を言ってもらおうとします。
ある保護者がスマホやパソコンを子どもたちが見ないように指導してほしいと言わせようとします。
またある保護者はスマホやパソコンを学校に持たせましょうと言わせようとします。

みんな違った考え方なのでそれを統一した答えで完結しようとしても難しい話です。
では、全員をとり残さないようにするには、どうするか。
さきほどのスマホの話でいえば、持ちたくない人は持たなければ、持ちたい人には持たせてあげればいい、という環境を作ってあげることが大切ではないかと思います。
みんな違っているということをどうやって生かしていくのかを言葉を選んで見つけていく、そこが学校という場です。

対話には2種類

対話には2種類あると工藤先生は言います。

対話を通して全員がOKになるようにする。
対話の最上位の目標が決まったら、手段を求めていく。

最上位の目標が団結になってしまうと、協力しない子を悪者にしてしまい、排除につながります。
そうなると「みんなちがっていい」ではなくなってしまいます。
子どものころから対話をさせて、みんながOKになるような対話のやり取りを続けなければなりません。
麹町中の生徒は、中一から続けていくことで、徐々に最上位目標を導き出すことができるようになりました。

まとめ

今回のお二人の話を通して、改めて、子どもが主語であること、主語である子どもたちと対話を重ねていくことの重要性を感じました。
また、対話を重ねていく過程でみんながOKになるような言葉を導き出すことで、みんなの違っている部分をどのように生かしていくかを考えていく必要もあります。
多様性のある集団で、得手、不得手を含めそれを受け入れ合うことができる集団になってほしい。
価値観がおかしいとしたら、それは対話を重ねていないことの証。
これは学校という場だけではなく、社会全般にいえることだと思います。

画像1
画像2


この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?