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儒学と僕7 口先だけでは…

今回は、『論語』学而編の第3章について紹介いたします。

今回の言葉

子曰わく、巧言令色、鮮(すくな)きかな仁、と。

『論語』学而編第3章

これは、『論語』の中でも有名な章なので、知っている方も多いかもしれません。内容としては、
「言葉を巧みにし、顔色をつくろってうわべを飾り立てる人には仁の心は少ない」と孔子が話したというものです。
朱子の注には、「一生懸命人の歓心を買おうとすれば、欲望は勝手放題に出まくり、本心の徳は亡んでしまう」とありますが、私もそのように思います。実際は、徳が完全に亡んだというわけではないでしょうが、他人に気に入ってもらいたいとするあまり、そうした気持ちが本来の自分の心を隠してしまうのは事実でしょう。
実際、人間がもつ「承認欲」とは大きなもので、ここの「欲望」もまさにそれを指しているのではないでしょうか。承認欲は程度の差こそあれ、皆が持っているはずです。承認欲は、自己の成長を促すという側面もありますが、ここにとらわれてしまうと、自分を実際よりも大きく見せることに繋がってしまうと思います。例えば、相手からよい評価を得ようとするあまり、自分が本来できないことを「できる」と言ってみたり、自分に嘘をつくことになりかねません。
そして、そうやって噓をついて、一時的に相手を騙すことはできても、必ず限界が来ます。まず、本人にとって噓をつきつづけるストレスは大きいですし、相手にも、言動と行動が伴っていないことは見破られてしまうはずです。そうなれば、最終的に人の信頼を失ってしまいます。
「言動と行動のずれ」これは、誰しも経験することだと思います。例えばなにか目標を宣言し、それを最初から完璧に成功できる人などいません。けれど、「自分が本当に実行できそうなことか」考えたうえで発言することはできます。
最近の教育では、「自分の意見を言う」ことが大事にされているように思います。それは結構だと思いますが、多弁であったり、相手を論破することが大事なわけではないと思います。それよりも大事なことは、「その場で本当に必要なことを言い、それによって相手を動かせること」だと思います。

ここで歴史の一例をあげます。
日露戦争における日本海海戦において、日本海軍を率いていた東郷平八郎(1847〜1934)は平素いたって寡黙であったといいます。味方の軍艦二隻が機雷で沈められたときも、「そうか」と言っただけで顔色一つ変えなかったようです。
ただ、日本海海戦(1905年5月27・28日)という大一番が近づいたとき、彼の寡黙さが活きることになります。
日本海海戦は日本が圧勝したという印象が目立ちますが、実は一歩間違えれば日本の作戦自体が失敗していた可能性があります。
どういうことかと言いますと、ロシアのバルチック艦隊は、沿海州のウラジオストクを目指していました。このとき、バルチック艦隊が通る道筋として、

1.対馬海峡をぬける
2.津軽海峡をぬける
3北海道の北、宗谷海峡をぬける

の3パターンが考えられました。実は、日本の連合艦隊は決戦の直前になっても、バルチック艦隊の位置がつかめないでいました。現在のような正確なレーダーもないので、仕方ないといえばそれまでなのですが、これは大変なことです。「艦船を複数に分散させればよいのでは」と思うかもしれませんが、そもそも日本は連合艦隊を1セットしか持っておらず、作戦も連合艦隊全体が戦う想定で練ってあるので、艦船を分散させれば作戦計画自体が崩壊してしまいます。なので、上に挙げた3つのルートどこかでバルチック艦隊を待ち構える必要があります。
日本の連合艦隊はこの時、朝鮮半島の南岸の鎮海湾という場所にいました。ここは対馬海峡ルートを想定しての待機場所でしたが、ここから移動すべきかどうか、日本海軍の中でも相当議論が紛糾したようです。
そして、ここで東郷が決断します。
「5月26日正午までにバルチック艦隊の位置に関する情報が手に入らないなら、我々は鎮海湾を離れて北上する」と。

これによって日本海軍の意思は統一されました。そして案の定、5月26日の午前0時過ぎ、バルチック艦隊の輸送船が、25日夕方に上海に入港したとの情報が日本側に入ります。これは何を意味するかというと、バルチック艦隊に石炭を輸送する船が艦隊から離れて上海に入ったということなので、バルチック艦隊が燃料の補給をやめたということを意味します。ということは、津軽や宗谷海峡ルートは、燃料が足りず通ることができません。ここで日本側は、バルチック艦隊が対馬海峡ルートで来ることがわかり、当初の計画通り作戦を進めることができました。

さて、本題に戻ります。東郷平八郎は、寡黙であったからこそ、その発言には大変重みがあったと思います。彼は、子どものころは薩摩藩士の子として教育を受けていました。当時の武士にとって『論語』は基礎教養のうちですから、彼もこの「巧言令色、鮮きかな仁」という言葉を知っていたに違いありません。
彼自身、普段から余計な発言をしないよう気を付けていたと思います。そして、部下たちも東郷にそうしたイメージを持っていたからこそ、彼の発言・命令には重みを感じ、それに従おうという気持ちも自然と生まれたはずです。
もし、普段から失言を繰り返したり、朝令暮改をするような者が上司だったら、そうした者がする決断に従う気になれないでしょうし、まして命がかかった決断ならなおさら無理でしょう。

私たちは、『論語』の内容や歴史の実例から、どうすれば他人を動かせるような人になれるのか学ぶべきです。うわべを飾らずに、そして自分をよく見せるための発言・態度ではなく心から他人を思う発言や態度を『論語』が求めているのも、そうした心がけがいざというときに他人と自分を両方救うことになるからではないか、と僕は考えています。


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