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【短編小説】今夜は月が綺麗だと、君は言った

 二〇二一年、冬。
 なにも纏っていない上半身が寒い。女の脚を抱えたままの両腕はじんわりと痺れている。酔いのせいか、心臓は鼓動を早めて熱を放ち、鉛を飲んだみたいに体が重かった。張りつめた冷たい空気に紛れて、汗を吸った埃のにおいが濃くなっていく。
 セックスをしている最中、なにを考えることが一番正しいのか、ということを考える午前一時。エロいとかグロいとか、愛おしいだとか。世の中のカップルは、ほんとうにそんなことを考えながらセックスをしているのだろうか。女の体はだいたいどれも似たようなもので、下着を脱がせた女性器にほとんど何の感動も持たないまま、自然と立ち上がったペニスの先はじんと赤黒く腫れている。
 カーテンをすり抜ける光だけが差し込んだ六畳半で、色落ちした髪の張り付いた女の顔が、腰を動かすたびに歪むのを見ていた。部屋の暗さに溶けて鈍く光る双眼。えらの張った頬。唇の下に滲んだほくろ。
 贅肉。意識しないようにしようとすればするほど、影を落とした女の腹の肉が目の端にちらつく。体を折り曲げて抱きしめると、汗で濡れた女の腹が生ぬるかった。散らばった髪をかき分け、黒く潤んだ瞳を捉える。乾いて粉を吹いたファンデーションが指先で潰れた。
「むり……。もう、むり」
 耳元に吐息がかかり、背中を締め付ける力が強くなった。徐々に荒くなる息遣いと、時折漏れ出す嬌声が鬱陶しくて舌をねじ込む。微かにアルコールの混ざる唾液が絡みつき、息苦しさを求めるように体重をかけた。シーツから引き剥がされていく女の背中を押さえつけて歯を立てた舌先、女の体の奥に沈み込む震えを捉えた瞬間、思い切り噛みついた。呼吸を止める。臍の下を静かに湿らせていく感覚が鮮明だった。

「そこのマンションあるやんか」
 セックスを終えて、煙草を吸うためにベランダに出た。十二月になったばかりの冬の夜は、下着だけでは唇が震えるほどに寒かった。吐息と煙の混ざった白い空気が、目の前のマンションの常夜灯に照らされながら遠くへ流されていく。
「この前夜に煙草吸ってたらな、八階か九階か忘れたけど、人が飛び降りよってん」
「え? マジ?」
 背中から女の声が聞こえた。振り返ると、網戸越しにスマホの光に照らされて青白くなった女の顔が浮かんでいた。
「パーンってすごい音してさ、多分頭蓋が破裂した音。深夜やったから、見てたやつ俺以外には誰もおらんの」
「死んだってこと?」
「死んだんちゃう? その後寝たから知らんけど。朝方パトカーとか救急車とかがめちゃめちゃ集まっててうるさかったわぁ」
「自殺ってほんとうに実在するんだ」
 膝をついて窓に近寄ってきた女の、今日一番に興奮した様子のその言い方が気に入らなかった。首筋に付けたキスマークが、首吊りに失敗した痣みたいに黒くくすんでいる。
「そんな珍しいことちゃうやろ。俺やって何回も自殺しようとして、そのたびに失敗してるし」
「マジで?」
「うそ」
「え?」
「うそ」
「なにが?」
「やから、うそやって。自殺なんかしたってなんも変わらんよ」
「……どこまでがほんとうの話?」
「さぁ。どこまでやろな」
 口を薄く開いたまま、女は俺をじっと見ていた。乱れた長い髪が夜風に靡いて、あらわになっていく陥没した黒い乳首を俺は見ていた。女は結局なにも言うことはなく、やがて諦めたようにスマホに向き直った。俺も女に背を向け、錆びた金属の手すりに肘をついて煙を吐き出す。コンクリートで固められたアパートの六階から見下ろす先、マンションの階層をひとつひとつ数えていった。

※※※

 たとえば、この世界に愛なんてものが実在するとして、我々はなにを信じ、どこへ向かうべきだったのか。
 出会いと別れすらままならない現代を偽るために、右スワイプを繰り返す指先が青白い光に濡れている。
『夜だけは味方だといいね。お互い』
 画面上にルナからのショートメッセージが流れた。午前三時。カーテンを閉め切った部屋はスマホのスクリーンの光だけでは頼りない。体の末端が冷たくて、潰れた薄い毛布を引き寄せる。
 真夜中は孤独と憂鬱と、小さな絶望が散りばめられた時間だ。抱きしめてほしい誰かはどこにもいなくて、手を伸ばす先さえ闇に呑まれて見当たらない。文学だけが縋ることのできる唯一の拠りどころだ、って。とある痛々しい大学生の自己陶酔を、同じような痛々しさを抱えたあなたが全肯定してくれた瞬間から、この物語は始まった。
 消えかけの線香花火を垂らした黒髪ロングの横顔と、近代文学者で埋められた本棚の、二枚のプロフィール画像。マッチングアプリ上のハンドルネームと、気が向いた時に交わされるメッセージ。俺たちがお互いを知るすべと、繋がるものはたったそれだけだった。
「いつかあなたは私を忘れてしまうでしょう」自己紹介欄に添えられた一文は、マッチングアプリへの皮肉か、あるいは覚えていてほしかった誰かへの諦めなのか、分からない。
『夜は安定剤になりうるけれど、依存しすぎると陽の光に耐えられなくなる』
 ウイスキーはストレートでいただきなさい、と誰かが言っていた。コンビニでアイスと一緒に買った一八〇ミリのブラックニッカはもう既に空になった。
『それは悪いこと?』
『善悪というより、上手に生きていくための指標みたいなものじゃない? 処世術的な』
『私は夜が生きづらいなんて思ったことない』
『いつか手放さなければならない時が来るよ。俺たちはどう足掻いても孤独には勝てないから』
『残酷ね』
『残酷だよ』
 夜はどこまでも沈みこんでしまう。オナニーをした後の陰毛がちりぢりに乾いて、ペニスの皮に絡まって痛かった。
 今、この瞬間だと思った。この瞬間にルナが隣にいて欲しかった。裸のままふたりで冬の夜のベランダに立ってセックスがしたかった。長く冷たい無音の夜を超えるために。俺たちは孤独ではないのだと自分に言い聞かせるために。
 そしてその願いは、きっといつまで経っても叶うことはないのだということも分かっていた。俺が欲しいものは、こんなふうにして、世界のどこかで少しずつ消えていっているのかもしれない。
『どうせ最後にはみんなひとりで死んじゃうんだから意味ないのにね』
 終わり損ねた夜。死と引き換えに永遠の命をちょうだい。少なくとも俺たちは、こんな憂鬱な夜のアダムとイブにはなれない。

 部屋を片付け終わらないうちに恋人が来た。呼び鈴が鳴って、俺は両手に持った空のチューハイ缶を一旦キッチンに置いて玄関の鍵を開けた。扉の前には首元を紺のマフラーで隠した恋人が立っていた。ベージュのタートルネックにジャケットを羽織り、きちんとアイロンのかけられたオフホワイトのパンツがゆったりと足元を隠している。マスクはくたびれているのに、泣き腫らしたようなアイシャドウが目元を濃く彩っていた。駅ナカの公衆トイレでアイラインを引き直す恋人の姿が脳裏にちらつく。
「もしかして、今日まずかった?」
 部屋に目線を向けた恋人が囁いた。気遣いから出た言葉じゃない、俺と夜を過ごさなくて済むための理由を探しているような気がした。
「ちょい散らかってたからさっき片づけててん」
 言い切って、「今日も可愛いな」と付け足す。
 少し間を置いて、恋人はわざとらしい作り笑いを見せた。じっと俺を見つめる不安げな瞳にはなにが映っているのだろう。玄関に靴下のままで足を付いて恋人を抱きしめる。冷たい冬の外気にさらされたジャケットからは微かに煙の臭いがした。
 ねぇ、そのメイクはほんとうに俺に会うためだけに直してきたものなの? って、そんなことを聞く資格など俺にはないのに、頬に触れるマフラーの毛糸がちくちくと張り付いて痛かった。
 上手くやっていた、はずだった。そう思っていたのは俺だけだったのだろうか。いつしか俺たちは、恋人とは名ばかりの、週末の夜に体を重ねるだけの関係になってしまった。夏の終わりと一緒に、俺たちの関係はもうとっくに終わっていたのかもしれない。
「ずっと会いたかった」
「俺も会いたかった」
 みずみずしく潤んだ唇に触れる。冷たく突き刺すメンソールの燻ぶりが、罰のように舌先を痺れさせていく。
「愛してる」
 耳元で震える恋人の声。
「愛してるよ」
 無意識に言葉を繰り返す低い声。

『愛なんてどこにも存在しないんだよ』
 それはルナの口癖で、愛を語ろうとするときに決まって枕に置く台詞だった。
『誰も愛が何なのか分からないし、分かろうともしていない。この世界に愛なんてものは存在しないの。愛ってこういうものだって定義付ける方がおかしい。それって、宇宙にいくつ惑星があるかを考えるくらい面倒くさいし、無意味なことじゃない?』
 このメッセージを受信したとき、俺はベランダに立っていた。煙を吐き出しながら、やはり目の前のマンションの階層をひとつひとつ数えていた。屋上まで数え切った後に仰いだ夜空は、マンションの明かりのせいで星ひとつ見えない。
 ルナとやり取りを始めて二週間が過ぎていた。その間に俺たちは、茫漠とした概念について、長い時間をかけて答えを探そうとした。たとえばそれは愛とセックスについてであったり、夜と孤独についてであったり、あるいは生と死についてであったりした。猫についての話もした。ルナは『この世界で一番正しい動物は猫だと思う』と言った。『人間が二足歩行なことだけは愛おしいけれど、それ以外はだいたいキモい』とも言っていた。床に散らばった大量のチューハイ缶を週末に片づけ、ワンカートンの煙を夜に溶かした。
『タイミングとか受け取り方とか、そういうもの? 無数の可能性の中で、偶然行き着いた感情を便宜的に愛って名付けるんじゃないかな。たとえそれが当人間だけにしか理解できないものだったとしても。だからやっぱり、愛は存在すると思う』
 指先で燻ぶる赤が潰えた。
 ルナとのトーク画面には入力中の表示が点滅している。ベランダから部屋に戻り、淀んだ空気を吸い込むと喉が擦り切れていくみたいで痛かった。
 スマホの液晶の光だけが照らす青白い部屋の中、酒とか煙草とか総菜食品とかの、生活のために用意された消耗品が散らばっていた。消費期限があって、使い終えたら簡単に捨ててしまえるものたち。
 ふと甘い香りがしてローテーブルの上に放り出されたビニール袋を覗くと、昨晩冷蔵庫にしまい忘れていたアイスが溶けていた。袋の中で糸を引いて固まり、テーブルにまで広がった水あめに舌打ちをする。無意識に呟いた「シネ」はどこに向けた言葉だったのだろうか。
 結局その夜、ルナからの返信はなかった。
 俺は布団を引き寄せて、うずくまるようにして眠りについた。

「所詮恋人なんて長期契約を結んだだけのセフレだと思ってる」
 ラブホテルのシャワールームで、ボディソープをぶちまけただけの泡風呂に浸かりながら女は言った。
「私は自由人でありたいからね。共依存とか信頼関係とか、そういうのは面倒なだけだって悟っちゃったもんで」
 後ろから抱きしめた女の体は滑らかに吸い付いて、その柔らかく膨らんだ胸に指を沈めた。固くなった乳首を摘まんだり引っ張ったりすると、女の体が反応して吐息が漏れ出すのが楽しかった。俺は女がなにか喋るたびにうんうんと頷いてやりながら、狭い浴槽の中で足を絡めて乳首に夢中になっていた。その考え方めっちゃええなぁって、爪の先で乳輪をなぞり、白く浮き出た細いうなじに歯形をつける。熱烈と語られる女の恋愛指南はまるで聞いていなかった。
 シャワールームで何度目かのセックスを終えて部屋に戻ると、ルナからの新着メッセージが連なっていた。
『愛について、あれから少し考えてみたの。……』
 通知欄のショートメッセージに見切れた書き出しを見た時、俺は思わず声に出して笑ってしまいそうになった。
「どうしたの? 恋人?」
 下着を身に着けた女がベッドの縁に腰を下ろして俺を見て言った。俺も下着を身に付けながら曖昧に頷くと、女は不愉快そうに目を細め、「また別の女か」と続けた。
「目の前に私がいるのに」
「別に恋人でもなんでもないやん」
「そういうことじゃなくて」
「俺は自由人やから」
 そこまで言うと、女は不貞腐れた様子で鞄の中からアイコスを取り出して吸い始めた。俺も煙草に火をつけてベッドに倒れ込み、ルナとのトーク画面を開いた。
『愛について、あれから少し考えてみたの。
 もし愛が存在するのだとしたら、それは絶対的な感情でなければならないと思う。感情の揺れ動きの中の頂点でなければならないと思う。これが愛なんだって実感してしまった瞬間に、それは愛ではないなにかに変わってしまうような気がする。その一瞬以外は愛じゃない他の感情が渦巻いていて、愛に変わるその一瞬を目指して私たちは相手のことを大切にしたり、傷つけ合ったりしなければならないんだよ。だから、愛してる、っていうのは間違いで、愛してた、っていうのが正しい。
 でも、それもちょっと違うような気がする。だって愛を向ける相手が存在している限り、愛してたっていう感情が何度も更新され続けてしまうってことでしょう。それってすごく生ぬるいことじゃない? だから私思ったの。かつてちゃんと愛していたはずの存在が、自分の手の届かない場所まで消えてしまった時、人は初めて愛を知れるんじゃないかって。
 私たちは今、愛を育てている最中にいるだけ。愛を分かったような気になっているだけ。ずっと先の未来、眠れない夜に何度も思い出してしまう誰かが、愛なんだと思う。
 ほんとうに愛を知っているのだとしたら、それはなによりも残酷な悲劇だよ』
 ルナからのメッセージを読み終えたのと同時に、灰になった煙草が折れた。思わず手を伸ばしたけれど間に合わなくて、指先を掠めて中空でばらばらに弾けた。息を吹きかけて灰を床に落とし、残った灰の残骸を手で拭った。白いシーツには薄い黒ずみが引き伸ばされて、そこに四つん這いになって顔を押し付けて舐めたら、逆立った毛糸が口の中に入って不快だった。
「さっきからなにしてんの?」
 ベッドの縁に腰掛けた女が怪訝そうな顔をこちらに向けて煙を吐いた。
「灰が、煙草の灰が、落ちたから」
「そんなの放っときなよ」
 目の前には唾液に濡れてべっとりと染みついた黒ずみがあった。ふと、取り返しのつかない過ちを犯してしまった気分になって、どうしてもその罪を隠してしまいたくなって、でも今の俺には何の手立てもなくて。もう手遅れだと知りながら、みっともなく足掻く振りさえしていれば、どこかで報われて最後には丸く収まるような気がして。
 ほんとうに俺は一体、なにをやっているのだろう。
「なんでこんなことになってしもうたんやろうな」
「じゃあ禁煙でもしてみたら?」
 吸い終えた煙草を取り外して灰皿に捨てながら呆れたように言うから、苦笑して俺も煙草の火を消した。
「そういえば、さっき言うてたの、俺とはもう会わんのやっけ?」
「さぁ、どうだろう……。でも、気が向いたら、呼ぶかも」
「そう」
 結局その後、女から連絡が来ることは一度もなかった。交換した連絡先も、マッチングアプリでのやり取りの履歴も、あの夜の一切が嘘だったみたいに、いつの間にか消えてなくなっていた。
 そして多分、眠れない夜に彼女のことを思い出すことも、きっとないのだ。

※※※

 クリスマスには自殺率が増えるなんていう神話があるらしい。孤独を実感し、愛を渇き、夜を呪ってしまうからだ。そんなものはタイミングと割り切り方次第でどうにでもなるじゃないか。二十三時過ぎの京阪線の中で擦り切れるほどに繰り返した自殺夢想は、流れゆく景色に置き去りにされて、光の中へ散り散りに消えていった。

 あなたは結局、私のどこが好きなの。
 恋人とのディナーを終えて立ち寄ったバーで、二杯目にオーダーしたカーディナルを飲み終える頃だった。
 そう聞かれて上手く答えられないのは俺が悪いのか。顔が良くて、性格も嫌いじゃなくて、セックスができるから。咄嗟に頭に浮かんだ答えを呑み込んで、「考え方が似てるところ」と答えた。
「他には?」
 すかさず付け足された質問に、「大人っぽいところ」と返すと、恋人は目を伏せた。
「じゃあ嫌いなところは?」
 諦めに似た落胆が、恋人の目の前に置かれたデニッシュメアリーのグラスの縁を滑り落ちていく。
「嫌いなところは、ないよ。ちゃんと、全部好き」
 カウンターテーブルの上に投げ出された恋人の手を見る。祈りのように指を編んで、薄くネイルの施された丸い親指の爪を忙しなく撫でている。白く透き通った、ささくれのひとつもないしなやかな手。そのまま握ろうと手を伸ばしたら、煩わしそうに俺の手を払いのけて睨まれた。
「そういうところだよ。私が嫌いなの。いつもあなたは真剣な話をしようとするとそうやってはぐらかすよね。私はあなたと会話がしたいの。耳障りのいい台詞を並べてほしいわけじゃない。私が今日一日なにを考えていたのかくらい、ほんとうは分かってるんでしょう」
 俺は黙って、恋人の話を聞いていた。藍色のインクが溶けて広がるように、恋人がひとつひとつの言葉を吐き出すたびに、ふたりの間に横たわっていた分厚い透明の膜が急速に深い暗がりに染まっていくようだった。
「あなたと付き合い始めてもうすぐ一年になるけど、私は一度だってあなたに愛された実感がなかった。ネイルとか髪の色とか、そういう小さな変化にはすぐ気づくくせに、私がほんとうに欲しいものはなにひとつ与えてくれなかった。結局あなたは私を好きだったんじゃなくて、恋人っていう関係性に酔いしれていたかっただけでしょう。相手が私である必要なんて、」
「それはちゃうよ」
「なにも違わない」
 思わず口に出た呟きを恋人は聞き逃してはくれず、財布から取り出した一万円札をカウンターにそっと置いてゆっくりと立ち上がった。恋人の一連の動作を目で追いながら、動き出すべきタイミングを窺っていた。
 やがて恋人は唇を噛み、たっぷりと時間をかけて力を緩めていった。薄暗い照明にさらされて歯形に影を落とした唇と、薄紅色のリップのついた前歯が微かに震えていた。
「会う頻度が減ったことも、あんたに他に女がいることも、私は頑張って耐えてきた。だから、せめて、私をずっと一番に愛していてほしかった」
 さようなら。恋人が言って、そのまま店の出口に向かって歩いていく背中を追いかけて。
「待って。俺はほんとうに君を、」
「愛してるって? いい加減にして」
 冷ややかな声が地面に落ちた。恋人は静かに振り返り、足元に視線を落とした。
「そういう演出にはもう飽きたの。そうやってあなたは一生、誰かを愛している振りをし続けていればいい」
 やがて扉は閉まり、恋人は冷たい夜の街に消えていった。どこかの国の陽気なクリスマスソングが細々と流れていた。

 捨てるべきものも、忘れるべきものも、俺の部屋にはなにひとつなかった。存在したはずの恋人の形跡は、バスルームにも、机の引き出しにも、洗濯機の中にも見当たらなかった。
 愛していた、そう思っていた過去のすべてが幻のように霞んで、みぞおちのずっと奥深くを満たしていく実感があった。そしてこの痛みは後悔でも贖罪でもない。ただの虚無だ。
『愛ってなに?』
 思わず送信してしまったメッセージ。そのままトーク画面を眺めていたら、間もなく入力中の文字が画面下に点滅した。
『今日は彼女さんと過ごすんじゃなかったの?』
『色々あったんだ』
『色々あったのか』
 クリスマスが終わるまであと数分だった。
 世の中のカップルは、ちゃんと愛を伝えられただろうか。ラブホテルの安い一室で束の間の永遠を誓いながら、愛を信じていられただろうか。だから、愛ってなに?
『でも、私も最後に君と話せてよかった』
『最後って?』
 毛布を引き寄せて体に巻き付けた後、煙草に火を灯した。紫煙がゆらりと闇に舞い、目に染みて涙が出た。
『私、あと少しで二十歳になるの。だから今日が最後の夜』
 どこまでも冷たい夜だった。孤独に酔いしれることさえ許されないような、寂しい夜だった。
『今夜は月が綺麗だよ』
 ベランダに出ると、目の前のマンションは月明かりを受けて静かに佇んでいた。東の空には少し欠けた銀の月が浮かんでいた。

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