私はキジムナー

彼が浮気した。確実に。合鍵で彼のアパートに入ると私は発見した。つけまつ毛を。彼の部屋の床にぴったりとくっついている、つけまつ毛を。私が普段使っているものとは明らかに別物の、毛虫みたいな、埃にまみれまくった、つけまつ毛を。

私は佇んでいた。彼が大好きなアサヒの瓶ビールが何本も入った重いスーパーマーケットのビニール袋を両手にぶら下げたまま。ビニール袋が手に食い込んで痛かった。でも、それよりも痛いところがあった。何処だなんて言わねえよ。だいたいわかるだろ。心だよ。結局言っちゃったよ。私は誰に向かって言っているんだろう。何なの。まじで。何なんだよ。一旦落ち着こう。慌てたっていいことなんてないんだから。深呼吸、深呼吸。やだっ。何か鼻に入ってきたんだけど。ふんっ。って勢いよく鼻から息を出したら、小虫がゆらゆら私の小鼻から飛び立っていって、ガジュマルの木に身を潜めた。彼の部屋にはガジュマルの木があった。彼はガジュマルの木を大切に育てていた。私に与える何倍もの愛情を注いで毎日愛でていた。そんなガジュマルの木には幸福を招くキジムナーという精霊が宿るといわれていた。

何が幸福だ。私に許可なく勝手に幸福を届けるな。私の方が彼に幸福を届けているはずでしょ。なんで彼は私にお金を使わないでガジュマルの成長のためにお金を使ってるの?その間に私は成長というか熟していくばかりなんだけど?何故ガジュマルを愛して、私を愛さないの?もういいよ。わかったよ。私がキジムナーになるよ。私がガジュマルに宿る精霊キジムナーになって、あなたを純度100パーセントの幸せで漬け込んで、漬物にしてあげるよ。カリカリにしてあげるよ。そして、あなたを天国で天使に売るの。「いかがでしょうか?こちらビールに合う幸せの漬物でございます」って。私はアサヒビールを天使にお酌しちゃうの。ああ、もう意味がわからない。私の両目から涙が溢れて止まらなかった。でも、決めたの。私はキジムナーになるの。私は重たいビニール袋をぶん投げて、服を脱いでぶん投げて、下着を脱いでぶん投げて、ガジュマルの幹を両手で掴んで引っこ抜いて、天に向かって持ち上げた。全裸で。

ごきげんよう。ガジュマル。私は軽い笑みを浮かべて、ガジュマルに挨拶をした。そして、青々と生い茂ったガジュマルの葉っぱを一枚引きちぎって身体に貼った。極度の混乱と怒りで身体が汗ばんでいるのか、葉っぱは永遠に皮膚から剥がれないかのように付着した。私は無心で葉っぱを一枚引きちぎっては身体に貼り付け、また一枚引きちぎっては貼り付け、最終的にガジュマルの葉っぱ全てを引きちぎって身体に貼り付けた。そう。私はその瞬間、キジムナーになったのだった。

気がつくと私は駅に全速力で走っていた。高校生以来の全力疾走だった。彼はこの時間帯に退社して駅に着くことがだいたいだった。私はキジムナーになって彼を迎えにいくのだ。彼があんなに会いたがっていたキジムナー。もうすぐそのキジムナーに会えるよ、彼っ。風が駅に向かう私の背中を押して応援してくれた。風、超親切。

「ちょっと其処の緑の人止まってください」

嫌味なぐらい滑舌のいい良く通った大声が聞こえると、私の全力疾走に合わせて、両サイドに自転車に乗った警察官たちが併走していた。

「止まりなさい!」

だけど、キジムナーはもう止まらなかった。風は私の味方だった。風に乗った私はどんどんスピードを上げて警官たちを振り切っていった。待ってて。彼。彼にキジムナーを見て欲しかった。彼があんなに見たがっていたキジムナーを見て欲しかった。私を見て欲しかった。

いやん。

私は確かにそう言った。
何故か私は猛スピードで落下していた。
私は底のない闇に吸い込まれていた。私は地獄から地獄へ向かうのだろうか。違う。たぶん、私はゆるゆるのマンホールを踏み抜いて落下しているのだ。だって、私は今マンホールと一緒に落ちているんだもの。闇の底から吹いてくる冷風が、私の身体から永遠に剥がれることはないと思っていたガジュマルの葉っぱを、一枚ずつ剥がしていった。闇の中でガジュマルは舞い踊った。ふふふっ。何処からか笑い声が聞こえた。私もつられて落下しながら笑った。私は幸福の精霊キジムナーなんかじゃないって。私は彼が大好きなただの馬鹿女なんだって。全裸で笑った。


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