好かれる教師になれ: No need to be friends but be friendly
“俺は生徒たちに好かれなくていい、嫌われても構わない”
何年か前、同僚の歴史教師がこんなことをランチの席で話した(*アメリカの私立高校で教師をしています)。
彼は12年生の現代史を担当していて、何度か授業見学に行ったが知識も豊富で話しも面白い先生だった。でも口調や態度から冷たい印象があり、きどってる様な、高慢な物言いをする人だな、と心配だった。
生徒たちが彼の授業に不満があることを私は生徒から聞いて知っていた。
話を聞いていると、体も大きく口も達者な大人の様な生徒たちに舐められない様、虚勢をはりわざと厳しくしているのかな、とも感じた。
大きな身振りで あの生徒がこんなことを言うので、こう言い返した、
この生徒はこんな簡単なレポートも書けない、教える時間の無駄だ と繰り返す彼は、自分が嫌われているのはわかっていたが、その理由がわかっているのかどうか微妙だった。
そのランチの席で、私よりも10ほど年下の彼にこう助言した
人気がある先生にならなくても良いけど、生徒に嫌われてはいけない
生徒は嫌いな先生の授業には来たくなくなるし、頑張ろうと努力もしない
生徒のためを思うなら、生徒に歴史って楽しい面白いと思ってもらうために、あなたは教師として好かれる努力をせねばならない
彼はそんなアドバイスをした私に
I don’t need to be friends with my students (生徒と友達になる必要はない)
と吐き捨てる様に言った。
それはもっともだ。私は生徒を友達扱いしろと言っているわけではない。
教師と生徒は同等ではない。どちらが上でも下でもないが、同じ立ち位置にはいない。生徒の機嫌をとる必要はないし、教師が権力を誇示する必要もない。だからと言ってナイスにしなくて良いわけでもない。
You don’t need to be friends with them, but you should be friendly to them. 友達になる必要はないが friendly (優しく接する・友好的に振る舞う)になるべきだ。
そう答えた私の顔を見て彼は “なんだよ、キャンディでも配ればいいのか?” と笑った。
“Be friendly” というのは生徒を一人の人間として認識して彼らの意見や考えに(それがいくら未熟だとはいえ)敬意を示すために教師ができる最低限のことだ。
行動や、言葉や、気持ちや、態度で彼らの学びを大切に想い、彼ら個人を大切に思っていることを伝えなくてはならない。
読むのが苦手な子、書くのが遅い子、考えがまとまらない子、計算が苦手な子、人前で話すのが怖い子、アクセントが強い子、集中できない子、勉強が嫌いな子
どんな生徒も先生に認められたい、優しくされたい、好かれたい欲求を持っている。
どの生徒も私たちが送るポジティブな言葉や態度にポジティブに答える可能性がある。
そしてどの生徒も好きな先生の宿題は頑張るし、好きな先生のテストはいい点とりたいし、好きな先生に褒められるためには努力もする。
小学1年生でも大学生でも同じだ。
教師は生徒たちの学習意欲や、興味や、好奇心や、可能性をもっと大きく広げてあげるために彼らに好かれる努力をしないといけない。厳しくても好かれる先生にならねばいけない。それには生徒を理解し、どんな先生が好きなのかをよく理解するという努力が必要だ。
好き、という単純だけど力強い感情で誰かの将来が変わるかもしれない、そう考えると好かれる努力をするというのは私たちの重大な責任の一つではないか
あの同僚教師はその年の夏に学校を去った。彼自身の意思での退職だった。
本当は彼も好かれたかったのかもしれない。
でもどうやったら好かれるのかわからなかったのかもしれない。
キャンディが答えでないことは彼もわかっていただろう。
授業の準備をするときに積極的に取り入れている新しい試みも、放課後の1対1の補習も、授業中の歴史の中の面白い話も、時間をかけて探すそれぞれの知識・言語レベルにあった資料も、映像や画像のサポート資料も、生徒一人一人に送っている誕生日や記念日のカードも、一緒に撮るセルフィーも、授業外での恋愛や友人関係のアドバイスも、なにもかも、私の仕事の原点は ”生徒に好かれたい” だ。
大好きな先生がいる、だから頑張れる、だから学ぶのが楽しい、そう言ってもらいたいために毎日努力している。
シマフィー
私には好きな先生はいませんでした。いたら違った道に進んだのかな。
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