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【長編小説】血族 第2章

 第2章 記憶にないあいまいな記憶

  

「もう死にたい・・・・」
 長い間、電話の向こうで、上司から受けたセクハラの被害を訴えていた女が、最後に消え入りそうな声でそう言った。
 上司からセクハラを受けて、そのまた上の上司に相談しても一向に取り上げてもらえず、やがて上司のセクハラが過激な嫌がらせにエスカレートしていって辞職を余儀なくされる。みんなそうだ。君が誘惑したんじゃないのか、みたいなことまで言われる。
 まったく理不尽でバカみたいな話だが、この四ヵ月でこんな電話相談をもう何本受けたことだろう。
 みんな普通ヽヽに働いて、普通ヽヽに仕事して、普通ヽヽに生活したいだけなのに、なぜ、そんなありきたりな願いも叶えられないのだろうか・・・・。
 すべては頭のイカれた男どものせいだ、と小野アリアは心の底から腹を立てていた。
 あいつらは、いたるところからイヤらしい情報をしこたまヽヽヽヽつめ込んできては、自分勝手な妄想にふけるバケモノだ。そして今度は、その妄想を現実にするための妄想に耽るのだ。それも四六時中――。
 そんな連中が、会社の中でまっとうな人間扱いされていることがまず許せなかった。仕事は部下に丸投げで、ろくな働きをしていないのを誰もがわかっているはずなのに、〝男〟というだけで大きな顔をしていられる。そんな現実が許せなかった。
 小野アリアは手が真っ白になるぐらいボールペンをきつく握りしめていた自分に気づき、あわててペンを放りだして手をマッサージした。
 女は電話の向こうでまだ泣いていた。
「大丈夫よ」アリアはやさしく声を掛けた。「あなたの力になれる仲間が、ここにはたくさんいるから」
 そういうと、女がよけいに泣いた。そしてなんども礼をいった。電話で相談したのも、もう五件目らしかった。
「予約も必要ないですから、気分がいい時に、一度こちらへいらっしゃって、それからまたゆっくりと、お話を聞かせてください。――はい。ええ、――はい。――そうですね。――はい。――はい。――では、お待ちしております」
 アリアは通話ボタンを消し、ヘッドセットを外した。
「いつものことだけど、やりきれないわねぇ」と隣でヘッドセットを外して待機していた安井アサミが声をかけてきた。
 彼女は旦那から受けたDVのせいで、右手の人差し指が満足に曲がらなくなっていた。
 アリアはちょっと肩をすくめただけで、なにも応えなかった。いまなにかを言うと、ひどい暴言を吐いてしまいそうな気がして言葉をのみ込んだのだ。
「ゴメン。ちょっと休憩してくる」
 アリアはオペレータ室をでて、休憩スペースに向かった。同じフロアーにある複数の会社が共有するスペースだ。
 そこでは若い男が一人、背のないソファに腰かけて、窓から見える街並みを見下ろしながらぼんやりしていた。喫煙スペースは別の場所なので、彼は飲み物でも飲んだ後に、ほんとにぼんやりしているだけなのだろう。
 外を見ると、いつの間にかもうすっかり夜になっていた。
 いつものことだが、窓のないオペレーター室にいると時間を忘れてしまう。休憩スペースの壁にかけられた時計は、六時半過ぎを差していた。
 アリアはその男に背を向けるようにして坐った。
 目の前には紙コップの自販機があったが、彼女は持ってきた携帯ポットから、フタのカップに冷たい緑茶を注ぎ、ゆっくりと味わうように一口飲んだ。
 この〈パワー・ウィメンズ・クラブ〉がなかったら、私はどうなっていただろう、とアリアは思う。
 おそらく、いまでも、暗くて、じめじめした地面に這いつくばっているような生活を送っていたのではないだろうか。それも、その這いつくばっている自分のぶざまな姿に気づくこともなく――。
 そう思うと、彼女は身震いした。そして、そういう生活に私をおとしいれた阿島コウイチを許さない、と改めて思った。
 そう、絶対に――。

 ◇

 阿島コウイチは、ミヤマ薬局で管理薬剤師をしていた。隣接した市ノ瀬レディスクリニックからの処方箋を調合して販売するのがおもな仕事だ。
 昨春にさかき薬科大学の薬学部を卒業したアリアのはじめての勤務先であり、ほかに女性の薬剤師リーダーがひとりと事務担当がふたりで、薬局の人員はアリアを入れても五人という構成だった。
 阿島は四十前後で、すでに頭は禿げあがり、両サイドからうしろにかけて残った髪は、いつも濡れているように頭にへばりついていた。背はアリアよりも低くて一六〇前後、それに不健康そうに肥っていて、いつも雑巾にしょうゆをかけたようなにおいがした。
「チーズのにおいも感じない?」と三年先輩で事務の木村さんが、顔をおおげさにしかめて非難した。「でもアイツに関わり合うと、ヒドい目にあうよ。それで辞めた子が五人もいるんだから」
「そんなに?」
「そう。私の先輩二人と、後輩三人。事務でも薬剤師でも関係ないの。なんでも、アイツには相当強力なコネがあって、絶対にクビにはできないらしいの。オーナーだって気を使ってんのよ。だからみんなアイツの機嫌をそこねたら辞めるしかないの。あなたも気をつけなさいよ」
 アリアは最初にそんな阿島の下につけられた。市ノ瀬レディスクリニックから発行された処方箋をみて、薬を調合する担当だった。
「あなたはまずここからよ。いい?」
 顔立ちがきれいな女性だが、きつい感じのする佐伯リーダーが言った。
 いつも、どんな時でも、ちゃんとした返事を要求する。小学三年と五年の男の子がいるバツイチなので、生活にも性格にも余裕がないのよ、と木村さんがそっと耳打ちしてくれた。
「三ヶ月経ったら、私とローテーションで、あなたも接客と服薬指導の方にまわってもらいますからね。いい?」
「はい。よろしくお願いします」とアリアが頭を下げると、佐伯リーダーは満足したように肯き、元の業務に戻っていった。
 中央のテーブルに坐って新薬のカタログに目を通していた阿島にあいさつすると、阿島はアリアを品定めするようにじっくりと見まわしたあと、アゴをしゃくるように小さく動かしただけで、とくになにも言わないままカタログに目を戻した。

 いまとなっては意外なことだったと思えるが、それからの数ヵ月間はなにごともなかった。思いのほか阿島は親切で、まだなにもわからないアリアに教えることはていねいに教え、やらせるところは任せるという、先輩としての行動にはすこしも問題がなかった。
 しかし、その年の八月のある夜、アリアの携帯が鳴った。見たこともない携帯番号からだった。
「仕事のことでぇ、ちょっと聞きたいことがあるんだけどぉ」
 阿島だった。驚いて時計をみると、夜の十一時を過ぎていた。
 話してみると、それほど急な要件でもない。話は二、三分で終わり、電話を切る。そいうことが三日おきぐらいに一ヶ月ほど続いた。
 アリアはしだいに携帯に出なくなった。すると阿島は携帯に伝言を入れるようになった。
 ――ピーッ。「阿島ですぅー。・・・・連絡くださーい」
 そのメッセージが一日に何件も入る。それも一回一回言い方を変えるので、よけいに耳ざわりだった。
 ――ピーッ。「阿島ですぅー。・・・・連絡、くだ、さい」
 ――ピーッ。「阿島ですぅー。・・・・連絡ー、くだ、さーい」
 ――ピーッ。「阿島でーす。・・・・えー、れ、ん、ら、く、くださーい」
 頭がおかしくなりそうだった。
 たまらずに連絡すると、大した用事じゃないことをのらりくらりと話す。
 翌日、アリアは思い切って阿島に訴えた。
「すみませんが、あのー、業務の話は、職場だけにしていただけないでしょうか?」
「え? どうして?」
 阿島は大げさに驚いていた。
「だって仕事の話なんだよ。いつもキミには申し訳ないと思ってるけど・・・・」
「はい――」
「それに、キミも最近なんだか元気なかったし、大丈夫かなーって」
「はあ」
「上司が部下のことを気遣っちゃいけないっていうのかなぁ」
 小野アリアはなにも応えずに、ただうつむくしかなかった。
「わかった!」阿島は憮然として言った。「もうしない! わかったよ! もういいよ!」
「あ、そういうわけじゃ」
「いいよ、いいよ、もう! 早く仕事に戻って!」
 それからは何をいっても阿島はアリアを無視した。
 阿島からの仕事はすべて木村か、もう一人の事務担当者へいき、すれ違う時には必ず一重の眼でにらみつけてきた。だが、アリア以外の薬局員と接するときは以前よりも愛想よくしていたので、だれも阿島の変化に気づかなかった。かえって最近機嫌がいいと薬局内が明るくなったぐらいだ。

 一週間経っても改善することはなく、かえってますます悪化する一方だったので、アリアは出勤前の佐伯リーダーをつかまえて相談することにした。
 いままであった深夜の電話のこと、それが一ヶ月ぐらい続いていること、それをやめるように阿島にお願いしてからずっと無視されていることをアリアは訴えた。
 意外なことに、佐伯はアリアに批判的だった。
「そりゃ阿島さんだって怒るわよ」
 佐伯はいつもよりもきつい調子で言った。
「だって仕事の話でしょう? 緊急の場合だってあるんだから、それをするなって言われたら、誰でもカチンとくるんじゃない? 毎日でもなかったんでしょう?」
「・・・・はい」
「だったらいいんじゃない? 彼も気を使っているのよ。あなたがあまり言うことを聞いてくれないって。それに、いつもなんか思い悩んでるみたいだから、翌日ちゃんと仕事ができるように、明るく元気づけてあげたいんだって――」
 アリアは声もでなかった。

 言うことを聞かない?
 思い悩んでいるみたい?
 元気づけてあげたい?

 すでに阿島は先回りして、私がわがままな部下丶丶丶丶丶丶丶であることを佐伯リーダーに訴えていることを知った。それではまるで〈陰気で協調性のない部下に思い悩む、まじめな上司〉のような構図ではないか。
「聞いてるの?」
「あ、はい」
「ちゃんと返事してくれないとわかんないでしょう?」
「はい、すみません」
「いい? あなたはまだ社会人として経験が浅いからあれだけど、人を育てるのって大変なんだから。――いい? はい、もっとしっかりして! あなたはもう立派な社会人ヽヽヽヽヽヽなんだから――。わかった? 返事は?」
「・・・・はい」
 まるで社会人としての経験が浅いアリアに非があるような言い分だった。
 アリアはここでも肯くしかなかった。

 薬局に行くと、アリアは阿島に謝った。
 すると、最初は以前のように無視していた阿島も、そのうち業務をアリアに言いつけるようになり、しだいに元の阿島に戻っていった。
 そして当然のように、その日の夜から阿島からの深夜の電話が再開した。
「阿島ですぅー。・・・・連絡、くださーい」
 そのメッセージが夜中の四時までつづいた。合計十六件だった。アリアは一度もでなかった。十七件目で携帯を壁に投げつけた。

 翌日薬局へ行くと、すぐに阿島が話しかけてきた。
「昨日はどうしたの? 心配したよー」
「・・・・携帯をトイレに落としてしまって。すみません」
「そう。じゃ、すぐに買わなきゃ。一緒に行こうか?」
「いえ。ちょっと携帯は控えようかと・・・・」
「控えるって? 持たないってこと?」
 アリアが小さく肯くと、阿島はすぐに否定した。
「そりゃダメだよー。いまどき携帯持ってないなんて、社会人として失格だよー。なあ、木村さん――」
 近くで薬を袋に詰めていた木村があわてて肯いた。
「そうですねぇ。携帯は必要ですよねぇ」
 彼女はすでにアリアがおかれた立場を察知していたようで、最近はまったく話しかけてこなくなった。
 だれも面倒なことに関わりを持ちたくはないのだ。接触をもった瞬間、自分も一緒に退職を余儀なくされることを、木村さんは誰よりもよく知っているのだ。
 アリアはうつむいたまま唇を噛みしめた。
「それに、それだと僕も困るし。緊急の時に連絡できなくなるだろ?」
「・・・・はい」
「じゃ、買ってきて」
 アリアは顔をあげた。
「いま、すぐに、ですか?」
「そう。いま、すぐに」
 木村さんはもちろん、佐伯リーダーも止めなかった。みんなひとことも言葉を発せずに、朝の業務に没頭していた。
 だがアリアは、その場を支配しつつある空気を、敏感に感じとっていた。
 携帯のことですら自分ひとりで解決できない未熟な子。
 わがままで協調性のない自分勝手な子。
 上司もうまく扱えない頭の回転がにぶい子。
 だからあれほど忠告したのに――。
 ま、仕方ないか。
 だって彼女はまだまだ社会人としては未熟者丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶なんだから・・・・。
 アリアは、すでに薬局内で孤立してしまっていることを自覚した。

 彼女は携帯を買い換えた。そして阿島から連絡がくると、取るようになった。どこにいても、たとえそれが何時であっても・・・・。
 そして予想していたとおり、電話の内容もしだいに仕事に関係することがなくなっていき、プライベートな話題へと移っていった。
「もう寝てたぁ?」
「ところでぇ、君って彼氏いるのぉ?」
「まさかぁ、君が未経験なわけないよねぇ」
「君ならぁ、いままでいっぱい男とぉ、付き合ってきたんじゃないのぉ?」
 その語尾を伸ばすしゃべり方がまた気にさわる。そして、体調不良になって薬局を休むと、朝から電話がかかってきた。
「どおしたのぉ? だいじょうぶぅ?」
「朝ごはん食べたのぉ? なんか持って行こうかぁ?」
「お昼食べたのぉ? 晩御飯はぁ? なんか持ってお見舞いに行こうかぁ?」
「よく寝れてるのぉ? ゆっくり休めよぉ。こっちは気にしなくていいからなぁ」
 爆発しそうになる自分を何度抑えたことか・・・・。
 ほとんどの質問はただ受け流すだけでまともに答えることはなかったが、それでも電話がかかってくるたびに、無理やり口をこじ開けてられて、汚物をつめ込まれているような気分だった。
 この時期、小野アリアは〈心を堅く閉ざす〉ということが可能丶丶だということをはじめて知った。
 なにも見ない。
 なにも聞かない。
 なにも考えない。
 そして、なにも感じない。
 そういうことが可能なのだ。
 じっさいそうしないと、どうにかなってしまいそうだった。
 驚くべきことに、そんな生活が五ヶ月もつづいた。
 去年の九月から本格的にはじまって、今年の一月までの五ヶ月間。
 たいした期間じゃないと、とくに頭のイカれた男どもなら笑うかもしれないが、じっさいセクハラ被害にあった女性ならば、そんな終りが見えない五ヶ月なんて、死ぬまで受けつづける拷問の苦しみに等しいと非難するだろう。それに、自分に非があるのならまだしも、私は何もしていないのだヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ。その思いが彼女をよけいに苦しめた。

 いまならあの時の自分を非難できる。
 なしくずし的に阿島の電話を受けてしまった自分を叱りつけるだろう。阿島を拒否することもできるし、戦うことさえ辞さない。
 しかし、あの時の自分はあまりにも非力だった。
 『社会』とか『常識』とかのことばに反論できなかったし、なかでも女性の先輩が味方についてくれなかったことが、あまりにもショックだったのだ。
 みんな羊みたいに柵の端にかたまって、お尻をこちらに向けたまま沈黙してしまう。ずっとそうだ。誰も相手にしてくれなくなる。
 小野アリアは、普通に生活していた人間でさえ、どん底まで落ちるのに一週間もかからないことを、今回のことで思い知らされていた。

 阿島からの電話が、一月半ばからプッツリとなくなってしまった理由はいまだにわからない。気が変わっただけなのかもしれないし、興味がなくなっただけなのかもしれない。もしかすると、私が成長して未熟さがなくなってしまったので、彼なりの基準による卒業の証し、なのかもしれない。
 いずれにしろ、阿島からの電話がなくなる生活を、どれほど夢見たか知れない。情けないことだが、もうそれだけが、当時の彼女にとっての夢の生活ヽヽヽヽだったのだ。
 しかし、じっさいにそれを手に入れてみると、以前よりも不安が増した。
 電話がかかってきた頃は、〈心を堅く閉ざしつづける〉ことでなんとか生活できていたものが、電話がこなくなると、今度はいつかかってくるのかが不安でたまらなくなった。やっとの思いで乗り切れたと思っていても、いつまたどん底に落とされるかわからない、という不安に怯えるようになっていたのだ。それも四六時中――。
 じっさい、アリアはまた地獄に落とされた。それも、以前よりもずっと深い闇の地獄に・・・・。
 彼女が健常な状態であったならば、再びなんとか這い上がることが可能だったかもしれないが、当時の、心底怯えていて、ひどく不安定な状態だった彼女からすれば、その穴はあまりにも暗く、深いものだった。底なしだと、本気で思ったほどだった。
 それは今年の二月末の金曜日にとつぜん起こった。

 ◇

 その日は年四回おこなわれる中規模な棚卸しの日で、アリアはすでにミヤマ薬局に入ってから三回経験していたので、その手順はよくわかっていた。
 開封前の薬品は瓶を数えるだけですむが、開封済みの場合は0.1ミリグラムまできっちりと測らなければならない。それと販売した量とを照合するのだ。
 当然、薬品を調合するときに若干ながらこぼしたりすこともあるので、細かい数字が合わないことの方が多いが、暗黙のうちに多少の誤差は黙認されていた。それでも錠剤やカプセルは、一錠でもあわないと徹底的に原因を調査することになっていた。
 今回もオーナーの指示により、一週間ほど前から動きのない薬をすでに数えはじめていたので、棚卸し当日の夜九時過ぎには終了となった。なにか問題があったりすると日付が変るほどの残業になったりしたこともあったので、彼女は心の中でホッとしていた。
 ミヤマ薬局からアリアのアパートまでは、歩いて十五分程度の距離だ。
 食事は十八時の休憩のときに軽くすませていたが、彼女は途中でコンビニに寄って、プレーンヨーグルトとチーズパンを買い、いつもよりも機嫌よく自分のアパートの階段を昇っていった。
 しかし、その階段を昇りきったところで異変に気づいた。
 ――何かがいつもと違う丶丶丶丶丶丶丶丶丶
 ざっと見た感じはなにも変わったようには見えない。
 二〇一号室の前にあるフタが無くなったままの洗濯機――、いつものままだ。
 その洗濯機に寄りかかるようにして放置された三輪車――、寄りかかった角度すら変わっていない。
 二〇二号室のドアの取手にずっと掛かっている骨の折れたビニール傘――、変化なし。
 壁に沿って倒れたまま放置された短いホウキ――、ホウキなのに、そのホコリにまみれた感じもいつものと同じだった。
 だが、なにかが変わっている気がするのだヽヽヽヽヽヽ
 ――空気? とアリアは考えていた。
 空気が変わっているのか?
 アリアはにおいを嗅いでみた。
 ――なにも変わったようには感じない。
 そのままゆっくりと周囲を見渡してみた。
 二階の廊下は鉄製の手すりがあるだけの簡単なつくりだったが、目の前に建つ五階建てのマンションは壁面が見えるだけだったので、窓から誰かがこちらの様子をじっと観察しているという心配はなかった。
 ――錯覚だろうか。
 アリアは幼い頃から、大切な人の死を事前に察知する強い "かん" のようなものをもっていたが、自分の危険を察知するということはこれまで一度もなかった。
 ――風がいつもとちょっと違うだけなのだろうか。
 確かに二月終りの風にしてはちょっとなま暖かい。
 ――それが気になるだけなのだろうか。
 アリアは一歩ずつ、ゆっくりと足を進めた。
 彼女の部屋は、一番奥の二〇五号室だ。
 テニスシューズを履いていたので、歩く音が響く心配はなかったが、それでも細心の注意をはらいながら歩いていく。狭い廊下なので、誰かが隠れるようなスペースはない。二〇三号室の前に放置されている冷蔵庫にしても、大人が隠れることができるような大きさではなかった。
 部屋の明かりは二〇二号室だけがついているだけで、他は真っ暗だった。廃墟のようにしいんヽヽヽとしている。
 遠くの方で犬の啼く声が聞こえた。
 アリアは防犯ブザーをトートバッグから取りだして、きつく握りしめていた。こんな時間に大きな警告音を鳴らすのは気が引けたが、いまはそんなことをためらっている場合じゃない。
 ――いま鳴らさないでいつ鳴らすの? とさえ思った。
 アリアは防犯ブザーのヒモをきつくつかんで、もうなにが飛び出してきても、一気に引き抜いてやる覚悟だった。
 ――でも、なにも起こらない。
 なにも変化はない。
 やはり勘違いなのだろうか・・・・。
 とうとうアリアは自分の部屋の前まできてしまった。
 二〇五号室。間違いない。
 ドアの右側にある窓は台所だ。ずいぶんと前に枯れてしまったサボテンの鉢が、窓ガラスに透けて見えている。なにも変化はない。
 左側の窓は風呂場だ。跳ね上げ式の窓で、少し開いているが、そこにも変化はない。こじ開けたりとか、引っ掻いたりした形跡もない。
 アリアはドアをみた。そしてドアのノブをみた。変化はない。なにも変わってはいない。
 彼女の場合、大切な人の死の前兆は、その死の数日前から体内でが激しく舞うような胸騒ぎを感じるのだが、いまは暗黒の海が、体内で大きくうねっているような感じがする。それが少しもおさまってはいない。それどころか、部屋へ近づくに従って、うねりがより大きくなったような感じがする。
 彼女はその場に立ったままひとつ大きく深呼吸した。
 鼻でゆっくりとおおきく息を吸い、口をすぼめてゆっくりと吐く。
 それを三度くり返した。
 不意に、階段の昇り口に黒い人影が現れたりしていないか!、とあわててふり返る。
 でも、人影はなかった。
 静かな夜の、天井の蛍光灯が点いていてもうす暗い、いつものアパートの二階の廊下だった。
 指先でドアのノブに触れてみる。
 ――なにも起こらない。
 アリアは息を止めてゆっくりとノブを回してみた。
 開かない。
 ちゃんと鍵はかかっている。
 彼女は止めていた息を吐き出してから、バッグから鍵をとり出し、ロックを開けた。
 ――ガンッ!
 その瞬間、彼女は目を閉じた。
 いつもの聞きなれたドアロックを外す音だが、その日は太い棒でドアを殴りつけたみたいにひどく大きく聞こえた。
 ――でも、なにも起こらない。
 やがて、ゆっくりとドアを開けてみる。
 日中に暖められた空気が、モアッと外にでてくる。アリアの部屋の、いつものにおいだった。
 彼女はじっと目を凝らして暗い部屋を観察してみた。
 誰か潜んでいないか気配を探ってみる。ベランダのガラス越しに人影が見えやしないかと、注意深く目を凝らして見る。
 だが、変わったところはなにもない。
 それに、当たり前だが、誰もいない。
 ――ただの思い過しだろうか。
 そこで彼女が足を一歩前に出した時、つま先に固いものが当たった。ガリガリと嫌な音をたててそれが滑る。
「・・・・ビデオテープ?」
 あまりにも意外なものが玄関先に落ちていたので、最初それがビデオテープだとは気づかなかった。ドアの郵便受けから投げ入れたようで、カバーもなにもなく、ラベルも貼ってなかった。
 アリアはビデオテープをそのままにして、防犯ブザーを握りしめたまま部屋の中へはいり、風呂場もトイレも押入れもベランダも、誰かが隠れそうな場所はすべて点検した後で、また玄関に戻り、そこでドアのロックをしてからビデオテープを拾い上げた。
 見たところ、とくに変わった感じはなかった。
 アリアは携帯で小村ユミに連絡した。ユミはすぐに出た。
「なにー?」
「いま、いい?」
 アリアはまわりを見回しながら、小さな声でいった。
 不意に後ろから誰かが襲ってきそうな気が、いまでもしていた。
 アリアは近くの壁に背中をつけた。
「いいよー。いまヤナギハラたちと飲んでんの。アリア終わったのー? 棚おろしー」
「そう。きょうはわりと早く終わったの」
「――え? なにー? 終わったの? じゃアリアも来るー? 駅前の『とおせんぼ』にいるんだけど」
「いや、ごめん。そんな気分じゃないんだ」
「え? なにー? どうかしたの? ちょっと待ってねー。うっさいんだよ、ヒロシ! もうっ! ゴメン。ちょっと場所移るから・・・・」
「ごめん・・・・」
 このままではとても一人では寝られそうにないと思った。
「ハイハイハイ。もう大丈夫。どうかしたの?」
「いま、アパートに帰ってきたんだけど、玄関入ったところにビデオが落ちてたの」
「ビデオ? ビデオって、ビデオテープのこと?」
「そう。私のじゃないし、ラベルはなにも貼ってないし、どうやらドアの郵便受けから投げ入れたみたいなの」
「そりゃ気持ち悪いねー。なんにも書いてないんだ。で、中味見たの?」
「ぜーんぜんっ!」アリアは誰もいない部屋で激しく首をふった。「そんなの見られるわけないでしょ!」
「そりゃそうだよねー。私だって嫌だよ。で、それどうしたの?」
「いま手に持ってる」
「わかった。じゃ、もう私はおしまいにするから、帰りに寄ってくねー」
「そう? ゴメン。助かる」
「シンジも一緒でいい?」
「もちろん。かえって心強いわ」
「じゃ、あとでねー」
 アリアは携帯を切り、ビデオを部屋の中央に置かれたローテーブルの上においてから、着替えをすませた。ヨーグルトもチーズパンも冷蔵庫に入れた。とても食べられる気分じゃなかった。

 ◇

 ユミたちは20分ぐらいで来た。
 二人ともそれほど飲んではいなかった。
「ゴメンね。せっかく飲んでたのに、中断させちゃって――」
 アリアが三人分の温かいウーロン茶をだした。
「いや、いいのいいの」ユミが顔の前で手をふって笑った。「ヒロシがまた女の子にフラれたとかで、ほんとにウッさいの。いいかげん、クドかったよねー」
「まあな。アイツこれで七連ちゃんだからなー。いただきまーすっ」
 シンジがウーロン茶を少しすすった。
「温ったけー」といいながら、テーブルの上に置いてあったビデオテープを手に取って注意深く眺めていた。
「これかー。・・・・新しい宗教の勧誘かなんかじゃねーの?」
「これ観て入会しろってこと? だったらちょっと乱暴すぎない?」ユミはシンジが手に持っているテープを見ながら言った。「ま、とにかく観てみようよ。まさか、呪いが掛かったりしないよね」
「うーん」シンジが嫌な顔をした。「みんな誘ってくればよかったかなー」
「バーカ。そんなことより、早くビデオをセットしてよ」とユミ。
「オッケー。わっかりましたよっと・・・・」

 学生時代はよく三人集まって映画を観た。それも決まってアリアの部屋だ。そのかわりスナック菓子を用意するのはユミで、レンタルビデオを借りてくるのはシンジだった。
 ユミとは同じ薬学部を卒業して、彼女は薬品メーカーの研究室に就職した。アリアは大学卒業と同時に今のアパートへ引っ越してきたが、ユミも近くのアパートに引っ越してきた。勤務先からはすこし離れているが、アリアのアパートに近いし、電車の乗り換えがいらないので選んだらしかった。
 シンジはユミが大学二年の時から付き合っている彼氏で、付いたり離れたりをなんども繰り返している関係だった。年齢は一緒だが、彼はまだ学生だった。それもふたりがよくモメる遠因になっていた。

 シンジがビデオテープをセットし、再生ボタンを押した。
 三人ともそろって画面をじっとみつめる。
 最初にすこし画面が乱れた後、三脚につけられたホームビデオみたいな映像がはじまった。しばらくすると、うす暗い中に人が一人でてきた。全身ピッタリした黒タイツをはいている。男だ。偏食がひどい子供みたいに身体が細く、背丈も百六十ぐらいしかないように見えた。
 男は顔に気味の悪い仮面をつけていた。大きさが違う目は左右に離れすぎていて、鼻は大きく、口は怒ったように上下にギザギザに描かれていた。クレヨンで描いたようだ。
 顔の輪郭は縦長で、ライオンのようなタテガミはなく、よく見ると左右に耳みたいなのがついている。
 犬のつもりか?
 だとすると、あの口のギザギザは牙なのか? とアリアはじっと画面を見つめながら考えていた。
 男は自分が映っているのを確かめるようにビデオカメラに近づいてレンズをのぞきこんだ後、また元の場所に戻ってからいきなりダンスをはじめた。
 それは見たこともない、奇妙なダンスだった。
 足踏みしたまま両手を交互に前に突き出したり、つぎに左にだしたり、右に出したり、顔を横に向けたり、下に向けたり、ときどき身体を震わせたり、肩を上下させたり――。
 動きに関連性もなく、緩慢で、なにも目的がない感じだった。
 それが延々と続く――。
「なんだこれ。誰かのイタズラか?」
 シンジがテープを早送りしようとしたのを、ユミが止めた。
 アリアが画面に近づく。そしてじっと見入る。
 暗がりの中で、奇妙なダンスはずっと続いている。もともと疲れるようなダンスではなかったので、男はずっと踊り続けていた。
 その時、画面のすぐ近くで映像を凝視していたアリアが、「ひっ!」と悲鳴を上げた。口を押さえたまま、大きく目を見開いて後ずさりする。もう画面を見ることもできないようだった。
「なになに?」ユミも画面に近づいた。「なんなのー?」
 シンジもユミの横にいって画面を見入る。そして「あっ!」と声を上げた。
「え? なになに?」ユミはシンジを見た。まだわからないようだった。「もう! なんなのよー!」
「・・・・アリアが映ってるよ」シンジが、信じられないというようにぼそりと言った。
 そして画面の右中央をゆび差した。踊る男の腰辺りだ。
「あーっ!」
 ユミは驚いてアリアを見た。アリアは画面に背を向けて、胸を押さえていた。
 ユミがもう一度画面を見直す。そして「えーっ!」といって部屋の中を見回した。
「そうだよ。これ、アリアの部屋ヽヽヽヽヽヽだよ」
 シンジも部屋を見回した。
「こいつ、アリアが寝ている時にこの部屋に忍び込んで、このビデオを撮ったんだよ!」
 ユミはもう声も出なかった。
 ビデオの中では不気味なダンスがずっと続いている。アリアが起きないのが不思議なくらい、その動きは大きかった。
 そのダンスは終わることなく、とつぜん映像が切れた。時間は十一分二十三秒だった。
 シンジとユミは、なにも映らなくなったテレビの画面をじっと見続けていた。
「こりゃちょっとないよなー。――ヒドイよ」
 シンジはユミに訴えた。
 ユミはシンジを見た。そのときアリアのことを思いだし、彼女はあわててアリアのそばへ行って背中をさすったが、なにも声を掛けることができなかった。
 アリアは胸をおさえたまま床を凝視していた。口もぼんやり開いていた。なにも考えられないようだった。
「こりゃイタズラを超えてるよ」シンジはテープを巻き戻しながら言った。「警察に行かなきゃ」
『警察』という言葉にアリアの身体が反応した。
「どうかしたの? アリア」
 もう一度ユミがアリアの顔をのぞき込んだ。
 すぐにアリアは首をふった。
 すこし待って、もう一度ふった。
 ちょっとふりが大きくなった。
 しばらくしてまたふった。
 髪の毛についた虫をふり払うように、激しい動きだった。
 そして手で顔をおおった。
 ユミはなにも声がかけられなかった。

 小野アリアは、高校時代の忌まわしい記憶を、まざまざと思い出していた。
 誰もいなくなった海の家。
 大量のハエ。
 ブルーのビニールシート。
 湿った砂。
 狂った同級生の男。
 そしてはりから吊り下げられたまま腐敗してしまった私の親友――。

 十年近く前という時間をすこしも感じさせない鮮明な記憶――。
 それも警察署で、事件の調書を取る目的で、そのとき目撃した状況を何度も細かく聞かれたせいだ。
 私は思い出したくなかったのに――。
 すぐにでも忘れて、記憶から抹消したかったのに、警察はそれを許さなかった。ことばはていねいでも、こと細かく思い出すことを強要したのだ。
 何度も、何度も――。
 もうあんな経験はまっぴらだ!

 シンジもユミも、すぐに警察へ行くことを勧めたが、アリアがそれを止めた。
 理由は言わなかった。
 ――また思い出せというの?
 ――また昔のように、状況を詳細に話せっていうの?

 ◇

 その日、アリアはユミのアパートに泊ることになった。
 そして翌日、シンジがまた来てくれて、ホームセンターで購入してきた頑丈な錠を二個ドアに、台所の窓とベランダにも別のカギを取り付けてくれた。ホームセンター好きなシンジにアリアが頼んだのだ。
「これ、なにかわかる?」
 アリアもユミも首をふった。
 シンジが電池をセットしてセンサーに手をかざすと、あらかじめ部屋のコンセントに挿してあった機械がピーッ、ピーッと鳴った。それと同時に先端が赤く光った。
「どう?」
「イイねーこれ!」
 ユミが商品を手にとっておかしそうに笑った。
「これを入口に付けといたら完璧だろ?」
「ほんと。アリガトー」アリアもうれしそうに笑った。「これで安心して眠れるわ」
 だが、昔のように、ちゃんと眠れるとはとても思えなかった。
 まだ昨夜のビデオ映像の不快感が、頭の中に残っているのがわかる。アリアの中では、あの男丶丶丶が気味悪いダンスをずっと踊り続けているのだ。
 ビデオはあれからユミの部屋でも二回観たが、ダンスを踊る男に見覚えはなかった。
 もっとも、不気味な仮面をかぶっていたので、それが誰なのかは判断のしようがなかったが、身体がとても細かったので、少なくともアリアが最初に恐れた阿島コウイチではないことだけは確かだった。それだけでも少し救われた気がした。
 ユミは引っ越すことをしきりに勧めたが、まだそのアパートに住みはじめて一年も経ってなかったこともあって、アリアはそのもっともな提案をしりぞけた。
「でも、取り返しのつかないことになったらどうするの?」
「もう油断はしない」決然と、アリアはユミに向かって宣言した。「今度訪れたら返り討ちにしてやる!」
「返り討ち? どうやって? あの男は――」ユミは自分のこめかみをとんとんと叩いた。「ここが完全にイカれてんのよ。あなたの返り討ちにあったって、かえって悦ぶかもしれないじゃない」
 アリアは笑った。
「たしかに、それは十分あり得るわねー」
「でしょう。もうすでに理解を超えてることされてんのよ。よーく考えて。引越し資金なら私たちも協力するから」
「アリガト。でも、引っ越しても、また来るかもしれないじゃない? 逃げてばかりもいられない。もう立派な社会人ヽヽヽヽヽヽなんだから・・・・」
 アリアはユミを見てニッコリと笑った。

 小野アリアには肉親はいない。父親は彼女が三歳の時に他界し、母親は彼女が高校二年の冬に交通事故でとつぜん亡くなったのだ。一緒に住んでいた祖母も一緒だった。ダンプカーにオカマを掘られてペシャンコになってしまった。
 アリアは高校を卒業するまでそのまま一人で生活し、その後、寮があったさかき薬科大学に進学した。学費と卒業するまでの生活資金は、祖母と母親の生命保険と家庭教師のバイトでまかなった。
 そんな早くから自立した生活をしてきたこともあって、ちょっと頭がイカれたような男が現れたからといって、すぐに逃げだす気にはなれなかったし、犯人の身体が細くてまだ子どものように見えたこともあって、今度現れたらこの手で捕まえてやる、ぐらいに思っていたのだ。
 その日以来、アリアは誰をみても〈犯人〉に思えてならなかった。
 病院から出された処方箋を手に薬を受けとりにくる客も、いつも行くコンビニの店員も、そして同じアパートの住人さえも――。
 通りを前から歩いてくる男がちょっと痩せていたりしたら、足を止めて、その男が見えなくなるまでじっと目で追うようになっていた。見ようによってはアリアの方が不審者に思われてもおかしくないような行動だったが、男の姿が見えなくなるまで見ていないと、不安でならない生活がずっと続いていた。

 三月になったある日、シンジがユミをつれてアリアの部屋にきた。
 シンジはちょっと興奮していた。あのビデオを何回も見直していて、なにか興味深いものを発見したらしい。
 シンジはビデオをすぐにセットして、早送りボタンを押した。
「いいか? 八分十三秒のところなんだ」
 アリアもユミも、ビデオデッキに出ている数字を凝視していた。
 三分、四分、五分と数字が進んでいく。
 シンジは七分五十三秒のところでテープを止め、すぐに再生ボタンを押した。
 画面ではあの男が踊っている。前と一緒だ。すこしも変わっていない。
「ほら、もうすぐ・・・・八、九、十、十一、十二、十三、はい。――わかった?」
 アリアはユミと顔を見合わせた。
「なにかあった?」
 アリアは首をふった。
「じゃ、もう一度。――いくよ」
 シンジはそういいながらテープを少しだけ巻き戻し、同じ場面を再生した。それをもう二回くり返したが、結局、アリアとユミにはわからなかった。
「いいから、教えてよー」ちょっとふてくされながらユミが文句を言った。「もったいぶらなくってもイイからさー」
「わかった。じゃ、もう一度。――いい? 画面をよーく見て。踊る男は関係ないからね」
 そうして八分十三秒を過ぎたところで、アリアが気づいた。
「あ・・・・」アリアは小さく叫んでユミを見た。「うそ・・・・」
「え? なになに?」ユミはアリアとシンジを交互に見た。「またわかんないの私だけー?」
「そうみたいだね」
 シンジがユミを見て笑った。
「もういっぺんいくよ。八分十三秒のところで、画面が右にすこし動くんだよ。よーく見て」
 たしかに、八分十三秒のところで画面がほんの少しだけ右に動き、すぐにそれが元に戻った。ほんのわずかな動きなので、シンジに指摘されるまで気づかなかったのだ。
「ホントだー」とユミ。
「な。人為的に動いてるだろ?」
「――もうひとりいる丶丶丶丶丶丶丶
 ユミはアリアに顔を向けながら、そう呟くように言った。
 アリアは肯きもせずにじっと画面を見入っていた。
「だからどうだってこともないんだけど、少なくとも、頭のイカれた野郎はもう一人いるってことさ」
 アリアは平静を装っていたが、見た目以上に動揺していた。
 変態が二人いたということではなく、そのもう一人の男、カメラのファインダーを覗いていた男が、阿島コウイチに思えてならなかったからだ。

 阿島がこの部屋に忍び込んで、私を見下ろしている。
 卑しい笑みを浮かべながら・・・・。
 どうして私は起きなかったのだろう。
 わずかな物音でも起きる自信はあるのに、私はずっと熟睡している。
 あれは本当に私なの?
 私に似せた人形ではないの。
 なぜ阿島がいるの?
 あいつは私の部屋に、自由に出入りできるの?
 なぜ?
 なぜ?
 なぜ?
 ――阿島ってなに?

 その日以来、アリアは阿島の幻影から抜けられなくなってしまった。
 阿島のあの歯並びの悪くて醜い笑み、いつも臭い息、髭剃り痕がまだらに残っているむくんだ頬。
 そんな阿島の存在が頭から離れなくなってしまった。
 それがまさしく彼女にとっての、これまでにないぐらい暗くて深い地獄の始まりだった。


  

 小野アリアは、少し前から、近所にあった心療内科医院へ通院をはじめていた。
 もう身体が壊れかけていたのだ。頭の中ではずっとアブラ蝉が鳴いていたし、とつぜん右耳になにかモノが詰まったみたいに聞こえなくなり、室温に関係なくいきなり吹き出るような汗をかいた。
 薬局も休みがちになった。どこが悪いというわけではないのに、どれだけでも眠れた。おかげで洗濯物はたまる一方だし、部屋も汚れ放題。どれだけ夜中に、それも衝動的に掃除機をまわしたくなったことだろう。
 病院では、『心身症型自律神経失調症』と診断された。
 自律神経失調症の中でももっとも多いタイプで、喜怒哀楽の感情を押さえていたり、周囲の人に気を使い過ぎているなどの日常生活のストレスが原因でおこるといわれた。現れる症状や重さは人さまざまで、心と身体の両面に症状が現れるらしい。

 通院してしばらくすると、担当医師に、病院内にいるソーシャルワーカーに一度相談してみるように、と言われた。
 緊張しながら〈医療相談室〉とプレートに書かれたドアをノックすると、
「どうぞ」と意外に若い女性の声で返事が聞こえた。
「お邪魔します」
 アリアはドアを開けてから頭を下げた。
「先生から、こちらへと・・・・」
「聞いてますよ。小野アリアさん、ですよね」
 そう言いながら、その若い女性はニッコリとほほ笑みながら机を離れてアリアの前に来た。
「私は高木真尾と申します。よろしくお願いします」と言いながらアリアよりもていねいに頭を下げた。
 差し出された手を握ってみると、その手はとてもやわらかくて温かかった。そんな手に久しぶりに触れたような気がした。
「今日はいい天気ですよねー」
 高木はニコニコしていた。
「太陽の光を身体いっぱいに浴びましたか?」
「・・・・いえ」
 アリアは首をふった。
 太陽なんか見てもいなかった。
 それどころじゃないんだ。
 太陽が傷を癒してくれるのか?
 この強烈な耳鳴りを、取りはらってくれるのか?
 忌々しい阿島の記憶を、消し去ってくれるのか?
「あら、もったいないですねー。じゃ、ちょっと場所を変えましょうか」
 高木は狭い医療相談室をでて、受付の前にあるロビーへと向かった。
 午前の診察時間が終わっていたので、人は誰もいなかった。受付係も奥に引っ込んでいた。
 真尾はついたままだったテレビを消し、アリアに向いのソファに坐るように促した。
 壁一面の大きな窓から、まぶしい陽光が差し込んでいた。
 真尾が横の窓を少し開けると、気持ちいい風がサアーっと入ってきた。
 アリアは真尾の向かい側に坐っても、なにも言わずに黙っていた。少しでもしゃべると、んでくっつかなくなった傷口が、よけいに開いてしまいそうな気がしていた。
 このところずっとそうだ。
 傷口に細かい粉をすり込まれたみたいで、それはいつまで経ってもくっつくことなく、ぶざまに開いたままのような気がしてならない。
「あら? とっても綺麗ですねー。ちょっと見せてもらってもいいですか?」
 最初、アリアはなにを言われているのかわからなかった。
 真尾はアリアの手をとって、爪をしげしげと見つめた。
「お店でお手入れをしてもらってるんですか?」
 アリアは首をふった。
「ご自分で?」
「――はい」
 何もしないでいると嫌なことばかり考えてしまうので、最近の彼女は自分の爪ばかりいじっていた。よりていねいに手入れをするために、目の細かさの違うヤスリまで購入したほどだった。
 自分で見ても気持ちいいぐらいきれいに仕上がっているが、誰にも気づかれることはなかった。
 誰も私のそんなところ見てないし、興味もないのだ。
 そう、私の爪のことなんて誰が気にするものか――。
「今度、私にもしてもらっていいですか? もう、ほったらかしで荒れちゃってて・・・・」
 真尾は自分の爪を見て恥ずかしそうに笑った。マニキュアすら塗ってなかった。
 確かに、彼女は爪の手入れはしていないようだったが、なにも手入れしてなくても荒れた様子はなく、きれいな手をしていた。
 手だけではない。髪も肩までの長さできれいに切り揃えられていて、いままで一度もパーマをあてたことのないぐらいにツヤツヤしていた。それに、まだ一度も染めたこともないのだろう。髪の毛の中に指を差し入れたくなるぐらいサラサラして見えた。
 口紅も薄い色だし、化粧も薄い。それは着飾ることに興味がないのではなく、 " 素 " を好む、彼女のそういう生き方のような気がした。
「じゃ、いま、どうですか?」と、アリアは控えめに切り出してみた。
「え? いまって? ――もしかして爪のこと?」
 真尾もアリアの申し出に驚いたようだった。
「っていうか、器具とか、いま持ってるんですか?」
「ええ。いつも持ち歩いてるんです」
 アリアはバッグの中から爪切りとヤスリセット、仕上げ磨き用のシルクの布、ポケットティッシュ、そして色の違うマニュキュアを三本とり出した。
 高木真尾は、道具と一緒にソファーの横に移ってきたアリアに向かって、
「うれしい! ホントにうれしい! 人にこんなことしてもらえるなんて、はじめてよー」と、心から嬉しそうに両手を差し出していた。
 アリアはまず、爪切りで真尾の爪をきれいに切りそろえていった。切った爪はていねいにティッシュペーパーの上に並べていき、一本一本丹念に仕上げていく。そんな神経質ともいえるほど細やかな行為が、彼女の荒んだ心をしずめてくれるのだ。
 最初は荒いヤスリから、徐々に細かいヤスリに――。そして甘皮もきれいに切りそろえていく。
 最後に、あなたの爪はきれいだから、と言って、透明のマニキュアを塗り、それをじっくりと乾かしてからシルクの布できれいに磨いて終了した。
 全工程で二十分ぐらいかかった。
 小野アリアは満足そうに真尾の爪を見つめた。
「ありがとう!」
 高木真尾は素直に礼をいった。
「ホントにうれしいわ。こんなにきれいな自分の爪を見たの、生まれてはじめてよ」
 アリアはにっこりほほ笑んだだけで、向かいのソファに戻っていき、爪の道具をていねいに片づけてからバッグの中にしまい込んだ。そして、惚れぼれと自分の爪に見入っている高木真尾をみて、不意に涙がこぼれた。
 何故だろう。
 こんなことで泣くなんて、今までなかったことだ。
 だが、涙が止まらなかった。
 こんなことでも、人に褒められることが素直にうれしかったのだ。
 もうずっと忘れていた感覚だった。
 ただ爪を磨いてあげただけなのに、こんなに感謝されるんだったら何本だって磨いてあげる。
 ただ、それを望む人がいればの話だけれど・・・・。

 ◇

 高木真尾は、大村医師から、ある程度、小野アリアのことを聞かされていた。
「彼女はね――」大村医師は、カルテを見ながら高木に説明した。「ずっとエリートだったんだよ。私立の小中高、そして大学と。一貫してトップクラスだったらしい」
「それに、お綺麗な方ですよね」
 大村医師はカルテから顔をあげて真尾を見た。
「知ってるんだ」
「ええ。なんどかロビーで見かけて、こんな綺麗な人でも、なにかを抱えて心療内科にくるんだなーって思って、名前だけは聞いてたんです」
「そう。彼女はピアノもバレエもこなす才女さ。まだ幼い時に父親を亡くしたので、母親と祖母に育てられたんだが、彼女が高校生の時に、その二人一緒に交通事故で亡くしてね。それ以来、天涯孤独という生活だったんだ。
 そんな彼女が、去年の夏ごろからセクハラの被害にあっててね。相手はよくある職場の上司ってやつだよ。で、それがどんどんエスカレートしていって、いまの彼女は、人生の底を這ってるんだ。言い方は悪いけど、ゴキブリみたいに一所懸命底を這って、逃げ場を探してるんだよ。あっちの隅、そっちの隅ってね。行くところ行くところで叩かれて、もうずっと動きっぱなしなんだ」
 高木は肯いただけで、なにも応えなかった。そんな世界がどこか遠い別世界にあるのではなく、現実の身近な職場にあるから恐ろしいのだ。
 これまでにもそんな話をどれだけ聞いてきたことだろう。
「もう、ぜんぜん周りがみえてなくて、おそらくいまの彼女には、冷たくて、固くて、ざらついた暗い地面しか見えてないだろうね。だから転職をすすめても、そういう逃げ方は納得しない。もともと私はなにも悪くないのに、どうして自分がやめなきゃならないのかって、僕にも食ってかかってくるんだよ。
 たしかに、彼女の言い分は間違ってない。でも、世の中そうじゃないこともいっぱいある。じゃ、それを説明しろとくる」
 大村医師はそこでカルテをテーブルに置き、小さく深呼吸をした。そして改めて真尾に目を向けた。
「そのセクハラをしていた上司が、最近、どうも彼女のアパートに忍び込んできたらしいんだ」
 真尾は口に手をあてて息をのんだ。
 そんな場面、想像したくもなかった。実際そういう目にあった小野の恐怖と嫌悪は相当なものだったろう。
「確証はないらしいがね。でも、彼女はそうだと決めつけている。それ以来、彼女の症状が目に見えて悪化したんだ。医師の僕が言うのもなんだけど、もう薬でどうこうできる段階じゃない。いきなり、ずっと底の方へ行ってしまったからね。だから君に、ちょっと彼女から話を聞いてもらいたいと思ってね」
「わかりました。それも私の仕事ですから」
 高木真尾はニッコリとほほ笑んだ。
「でもね、先生。ゴキブリはよくないですよ。話はよく理解できるんですけど。まさか彼女にそれを・・・・」
「まさか」
 大村医師は笑った。人をホッとさせる、いつもの明るい笑顔だった。
「彼女にはヒツジで説明したよ」
「それで理解してもらえましたか?」
「たぶんね」
「――わかりました。とにかく彼女から話を聞いてみます」

 ◇

 人は、「話を聞こうか」と身構えられると、かえって話ができないことを真尾は知っていた。
 たんなる相談事なら構わないが、どうにもならなくなった苦悩となると、その人自身の奥深くまで立ち入らないと、それこそどうすることもできない。
 表面だけの話を聞いていても、表面だけで終わってしまうのが常だ。絆創膏を貼った上から手当をしても、どうにもならないのと同じだ。そうしている間に患者はどんどん深い方へと沈んでいってしまう。
 しかし、一度奥深くまで立ち入れたなら、というより、患者本人がその根の部分を自覚したなら、もう問題は解決したも同然だった。あとは話をていねいにこと細かく聞いているだけで、患者本人がみずから治癒していくケースが多い。
 時間はかかるが、自分で傷を理解しながら治療をしていけるので、治癒率も高いし、完治率も飛躍的に上がるのだ。
 ただ、その一番奥まで立ち入るということがとても難しいのだが・・・・。

 高木真尾は、アリアが目の前で涙を流していることには触れずに、ソファの上で横になった。
 そしてゆっくりを仰向けになる。
 同じ姿勢になることを、小野にも勧めた。
「目を閉じて――」
「はい。深呼吸して――」
「はい、もう一度――」
 そのようにして真尾はアリアを落ちつかせた。
「じゃ、もう一度、ゆっくりー――」
 よほど疲れていたのだろう。小野アリアはそれから三十分ほど眠った。
 無理もない、と真尾は思った。
 大村医師から話を聞いただけでもひどい話なのだ。毎夜、とてもまともに眠れたものではなかっただろう。それがよけいに健全な心をむしばんでいくのだ。
 真尾は看護師に頼んで毛布を用意してもらい、アリアにそっとかけた。
 アリアはなにも気づかずに眠りつづけた。
 風がアリアの栗色でやわらかそうな長い髪をさーっと撫でた。
 真尾は窓を閉め、アリアの横に坐って彼女が目覚めるのを待つことにした。

 ◇

 その日から五日間、アリアが大村医師の診察を受けた後に、真尾は〈医療相談室〉で彼女の話を聞きつづけた。
 真尾からの質問以外は、ほとんどアリアがしゃべっていた。
 それほど早口ではなく、抑揚もなく、どちらかというと、淡々と、まるで他人の人生を朗読するような感じで、語り続けていた。
 これまでいろいろと他人の話に耳を傾けてきた真尾だったが、そんな彼女でも耳をふさぎたくなるような話がいくつもあった。
 殺された親友、発狂した同級生の男、ダンプカーにつぶされた母親と祖母、高校の教師による陰湿なセクハラ、そして今回のセクハラ被害。
 そんな話をすべて身体の中にため込んでいる小野には同情を禁じ得ない。しかし、話すたびに徐々に明るくなり、重い荷物をおろしたような笑顔になっていってくれるのはうれしかった。新しい羽根が生えようとしているようにさえ見えた。
 もうしばらくアリアは通院が必要かもしれないが、じきにそれも必要でなくなるぐらい強く生まれ変わっていくだろう。
 真尾はそう確信していた。



 3

『転機』というものは、ほんとうに目に見えるものなのね、と小野アリアは実感していた。アリアにとっては高木真尾に会い、促されるままにその場で眠ってしまったことがまさしく転機だったのだ。
 いま思い返してみても、あのとき目覚めた瞬間に生まれ変わったような気がしてならない。それほど清々しい気分だったのだ。そして時間をかけて体内にたまっていたおりをすべて吐き出すのを、真尾はやさしく見守っていてくれていた。もうそれだけで充分だったような気がする。
 彼女はアリアと同じ二十六歳だったが、時に友だちだったり、姉であったり、たまに母親になることもある不思議な存在だった。
 それは、あなたの心と身体が消耗しきっていたからよ、と真尾は笑ったが、私はいまだに彼女のことをとても信頼している。
 だから彼女の助言どおり、堂々とミヤマ薬局を退職し、いまは〈パワー・ウィメンズ・クラブ〉で、セクハラやDV被害の女性の相談を受けつけるオペレーターの仕事をしていた。そこで他人の相談を聞くことで得られる治癒の効果を狙ってのことだ。
 真尾自身もそこでオペレーターのアルバイトをしていた。毎週月曜日と金曜日の夜の七時から九時まで。それだけの時間でも、彼女にとっては、仕事に活かせる情報を得る大切な時間、と考えているようだった。

 しかし、今日は真尾の勤務日なのに、七時を過ぎても姿を現さなかった。たとえ一分でも遅れるときは必ず連絡してくるぐらいまじめな性格なのに、すでに十五分も過ぎている。
 隣では安井アサミが、亭主からDVを受けている奥さんからの相談を受けていた。鼻の骨が折れているらしく、話しが聞き取りにくいようだった。
 アリアは真尾の携帯に連絡してみたが、呼び出し音が鳴るだけだった。メールをしても返事がない。
 そこで九時に業務を終えると、急いで真尾のアパートへと向かった。
 胸騒ぎがした。
 死の前兆の時の胸騒ぎとは違う。
 あのビデオテープの時の、嫌な予感とも違う。
 低音の和太鼓が、胸の奥深いところでずっと休みなく鳴っているような感じだった。

 ドンドコ、ドンドコ、ドンドコ・・・・。

 なんとも表現しにくい嫌な感じが、彼女の頭から離れなかった。
 真尾のアパートへはなんども行ったことがあった。
 〈パワー・ウィメンズ・クラブ〉から歩いて十分ぐらいだったから、業務が終わるとよく誘ってくれたのだ。アリアのアパートもそこから近くだったので、少しぐらい遅くなっても心配なかったこともあった。

 高木真尾の部屋は女性専用の小綺麗なアパートで、彼女の部屋は二階の真ん中の二〇三号室だった。
 なにか異常はないか見逃さないように周囲に気を配りながら、高木真尾の部屋の前までいく。
 真尾の部屋の電気は点いていなかった。
 人の気配も感じない。
 アリアはドアのノブに触れてみた。
 ――なにも感じない。
 ただのひんやりとしたステンレス製のドアノブだった。
 回してみると、驚いたことに、なんの抵抗もなくドアが開いた。
 ドアから顔だけをつっこんで、真尾を呼んでみた。
 真っ暗で、なんの反応もなかった。
 アリアはもう一度呼んでみた。
 同じだった。
 中に入って電気を点けてみる。
 すると足元に、ミルクが入ったままのガラスコップが置かれていた。
 なにかのおまじない?
 それとも、よほど外出するのを急いでいたとか?
 それともまず入る前に私に飲めと?
「まさか・・・・」アリアは声に出して否定した。
 もう一度奥に向かって、声をかけてみる。
 ――返事はない。
 彼女はコップを手に取り、目の高さまで持ってきてよーく観察してみた。
 飲んだ形跡はあった。
 量も半分ぐらいに減っている。
 においはどう考えても、ミルクに間違いなかった。
 腐ってもいない。
 部屋に上がってそのコップを流し台の上に置こうとした時、食べ残しのシリアルと、そこに突き刺さっている小箱を見つけた。
「妊娠検査薬?」
 意外だった。
 高木真尾の知らない生活を、垣間見てしまったような気がした。
 それほど探すこともなく、検査薬の本体は台所にある小さなテーブルの上に置かれていた。
 慌てていたのか、雑に折られた紙のスタンドに立てかけられていた。
 検査薬の四角い窓に赤色の線が浮きでているのが見えた。
「陽性?」
 シリアルに突き刺さったパッケージを手に取ってよく確かめてみると、やはり四角い窓に赤色の線が現れると妊娠している丶丶丶丶丶丶ことを示すらしかった。
 アリアは、なにか見てはいけないものを見てしまったような気がした。
 しかし、高木真尾にはフィアンセどころか、彼氏がいるという話しすら聞いたことがなかった。そもそも彼氏がいたとしても、真尾が避妊をしないなんて考えられなかった。それどころか、結婚するまで貞操を守り続ける、というか、それが当然というようなタイプの女性なのだ。
 だったら行きずりのセックスとか?
 それはもっと考えられないことだった。それとも私が知らない別の顔を持っているのだろうか・・・・。
 アリアはもう一度、真尾の携帯に電話をかけてみた。
 すると、着信音が真尾の部屋の奥でした。
 彼女の好きなビートルズの『ハロー・グッバイ』が流れている。
 行ってみると、真尾のバッグの中から聞こえる。取り出してみると、真尾の携帯に間違いなかった。
 着信履歴を見てみる。
 ここまですると許されないかな、と思いつつも、彼女は自分の胸騒ぎを信じた。
 胸の中でずっと太鼓が鳴りっぱなしなのだ。

 ドンドコ、ドンドコ、ドンドコ・・・・・・。

 着信履歴には、アリアがかけたのが三件しかなく、発信履歴には大村クリニックが一件あるだけだった。時間が朝の八時十二分になっていたので、今日休むことをクリニックに連絡したのだろうか・・・・。
 メールはアリアが送ったもの一件だけだった。
 アリアはその場にしゃがみこんで考え込んでみたが、わかっていることが少なすぎたし、そもそも高木真尾のことも多くは知らないのだ。両親が健在なのかどうかすらもわからなかった。
 そこで携帯のアドレスを調べてみると、両親どころか、『高木』という名字の登録さえ一件もなかった。
 彼女も両親がいないのだろうか・・・・・・。
 片っ端から携帯に登録されている人に連絡して真尾を探すことも考えたが、まだ現時点ではちょっと大げさのような気がした。自分の胸騒ぎを信じてはいても、そこまでは行動できなかった。私が大騒ぎしたあとに、ひょっこりと真尾が現れたりしたら、それは本当に申し訳ないことになるだろう。
 第一、彼女はそんなにやわヽヽじゃない。
 見た感じは、清楚でおしとやかな女性、というバカな男たちがイメージする理想の女性像ピッタリだったが、そんな陳腐なイメージで近づいてきた男だったらみんな泣いて退散するだろう。そんな強さを彼女はもっていた。
 ――そう、見た目が強く見える私よりも、真尾の方がはずっと強いのだ!
 明日の朝になっても連絡がつかなかったら行動を起こそう、とアリアは心に決めた。

 彼女は真尾の携帯をどうしようか迷ったが『ゴメンね。とても心配だから、携帯を預かってます。アリア』というメモをベッドの上に置いて、今夜は引き上げることにした。
 そして自分のバッグを持ちあげたその時、彼女はお腹の中でなにか動くものを感じた。
「え? なに?」
 アリアはお腹を見た。
 なにかが当たったのかと思った。
 床を見回してみるがなにもない。ボールが転がった形跡もなければ、ネズミが走り去ったようすもない。
 彼女はもう一度お腹を見つめてみる。
 そして、お腹を撫でてみる。
 少し張った感じがするが、他に変化は見られなかった。
 そこで彼女が出口へ向おうとした時、また動いた。
 今度は声もでなかった。
 ビックリしたまま、自分のお腹を、まるで別の生き物でも見るような目で、じっと見下ろしていた。



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