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ベートーヴェンのアトリエ (四)

 免許の学科試験を受けた日の夜、フレンチレストランを予約してくれていた。
 合格したからよかったものの、落ちていたら残念会になってしまうところだった。
 少し大人っぽい服を着るように言われ、髪もアップにした。買ってもらった化粧品を使った。かかとの高い靴も、ほとんど履いたことがなかったから、歩くのにも苦労する。
 入ったときから場違いな気がした。お店の人に、椅子を引いてもらってから座るのも初めてで、ひどく緊張していた。
 真っ白なテーブルクロスの上に並んだフォークやスプーンまでがきらめいていた。
 お料理が、とても色鮮やかだった。美味しいのはわかった。でも味わえなかった。フォークが皿に当たって音を立ててしまう度に、緊張がました。
 帰りに「もう少し気楽にしてたらよかったのに」と言われた。
 わたしが落ち込んでいるのをみて「そのうち慣れるよ」と励ましてくれた。
 無事、免許も取れたため、午前三時間、午後三時間で絵のモデルをしていた。絵の具を乾かす日もあって、その時は人見さんの気分ですることが違った。
 リクエストにこたえてギターを弾く日もあれば、デッサンのモデルをする日もある。
 時々、人見さんが半日ほど出かけることもあった。そんな日は、家で勉強をしていた。
 今日は、夜まで自由にしておいていいと言われた。
 久しぶりに美佐子に会えないかを訊いたが、あいにくバイトが入っていた。
 カラオケに行くことにした。もうすぐ開店時間だ。
 三月も中旬になり、寒さも和らいできた。今日は自転車ででかける。ギターを背負って、カラオケボックスへ向かった。
 人見さんと過ごす時間は、とても穏やかだった。それでも、自由に出かけると心は軽やかだった。風を切る。まだ冷たいが心地よい。
 受付を済ませ、部屋に入る。早速ギターを取り出した。
 少し、声を出す歌を練習しようと思った。せっかく、カラオケがあるので、歌うことにした。何を歌おうかとリモコンで検索をかけた。いざとなると、なかなか思いつかない。
 テーブルに置いていたスマホが震え始めた。手に取ると人見さんだった。慌てて出る。
「律、今すぐ来て」
 いつもより、かなり口調がきつい。何かしてしまったかと不安になる。人見さんが、苛立っているのが電話越しでもわかる。はっきり答えられずにいると、「もう、どこにいてもいいから、とにかく早くここに来て」と電話を切られた。何を怒っているのかがわからず、どうしていいのかわからなかった。
 急いで、お金を払って、人見さんの家に向かった。
 わたしにしては、随分はやく自転車をこいだ。コンビニの前の信号に引っかかってしまった。目の前を行き交う車をみて、焦りが増していく。いてもたってもいられない。
 やっと、信号がかわる。滅多にしない立ちこぎをした。背負ったギターが大きく動いて、バランスを崩しそうになる。
 コートの中で汗をかいていた。まず、自分のマンションに、自転車を置く。ギターは、持って行くことにした。
 向かい側へ渡ろうとしていると、表でヒステリックな声がし始めた。
「早く迎えに来てよ! あの客とんでもない変態じゃん。動くなとか怒り始めるし!」
 みかけたことのない派手な人だった。まだ肌寒いのに、綺麗な長い足を惜しみなく露出している。目を合わさないように、うつむいて横を過ぎる。香水の匂いがした。熟れた果実のように甘い匂いだった。
「いい男だからサービスしてやろうと思ったのに、なんなの! 金払いがよくても、二度とごめんよ。なんでもいいから、早く迎えにきてよ。寒いしやってらんない」
 あまりの剣幕に、関係がなくても怯えてしまう。マンションのエントランスに入り、インターホンで人見さんを呼び出す。出たのはわかったが、何も言ってくれない。オートロックが解錠される音が聞こえた。インターホンの接続が切れる。慌てて中に入った。
 エレベーターのボタンを、落ち着きなく何度も押してしまった。
 扉が開いたので、エレベーターに乗り込む。七階を押してすぐに扉をしめた。さっき嗅いだ甘い匂いがする。胸騒ぎがしていた。
 部屋のインターホンを押そうとしたら、ドアが開いた。人見さんから「入って」と言われた。かなり不機嫌そうだ。
 もたついていると、腕を引っ張られた。ギターケースが壁に当たって鈍い音がした。背後でドアが閉まる。とにかくギターを下ろした。
 靴を脱ぐ前に、人見さんから抱き寄せられた。
 瞬きも呼吸もできなかった。心臓が激しく打つ。ギターケースが倒れる音で、我に返った。思い切り空気を吸い込む。人見さんから、あの人と同じ匂いがした。
「さっきの人……」
 人見さんの胸を押した。
「下で、会ったの?」
 言い表しようのない嫌な感情が渦巻いて、もう一度強く、胸を押し返した。
 人見さんは、体を離し、わたしの足元に転がるギターケースを拾い上げた。わたしの目は無意識にギターケースを追っていた。
「香水の匂いでもした?」
 うつむいた。何も言えない。
「そういうつもりで呼んだんじゃないよ」
 人見さんが、ギターを持ったまま奥へ入っていった。わたしは、後へ続くか少し迷う。動かずにいると名前を呼ばれた。顔をあげる。もう、人見さんは背中をむけていた。後をおって、絵を描く部屋に入る。
「座って」
 わたしは、言われたとおりにした。
 あの人の言っていた客は、人見さんで間違いなさそうだ。ここに来たんだと思う。そういうつもりとは、どういうつもりなのかわからない。
「気分が悪いから、律を描く」
 人見さんをみた。眉間のしわが深い。常に睨まれているようで怖かった。
「僕が怖い? それとも軽蔑してるの?」
 顔を横に振ろうとしたあとで、首をかしげた。
 人見さんが深くため息をついたあと、スケッチブックを激しく閉じる。短い髪を、グシャグシャと掻き回した。そのまま、頭を抱え込んだ。
「最初は、ちゃんとした美術系のモデル事務所に問い合わせたんだ。そうしたら、今日の今日は無理だって言われて」
 肩が上下に揺れる。また深いため息をつく。
「脱げる人なら誰でもいいって食い下がったんだけど、どうしてもだめだった」
 言葉をきいた途端、苦しくなった。前にプロに頼むと言っていた。
「代わりに、脱ぐのに抵抗のなさそうな人を呼んだんだけど……全然じっとしていられないんだよ。余計なことはしなくていいってこっちは言ってるのに」
 目の前の景色が歪んでみえた。さっきの女の人が、ここに来て、服を脱いだ。人見さんは、絵を描くために、何も着ていないあの人をみつめていた。
 長い髪は、下の方だけウェーブがかかっていた。わたしには絶対に似合わない赤い口紅をつけていた。手足が長くて、顔も綺麗だった。
 絵を描くだけで、あの人の香りは移ったりするんだろうか。
 頬が震える。唇をかみしめた。
「何を言い訳してるんだか……。苛々がおさまらない。呼び出しといて悪いんだけど、今日は帰った方がいい。律にあたりたくないからね」
 動けなかった。目を閉じた。何度もつばを飲み込む。まぶたと、頬の痙攣はおさまらなかった。
「律? 変なことはしてないよ」
 女の人の話していた内容を考えれば、何もなかったのはわかっている。頭を横に振った。一度では足りずに、何度も振る。
 人見さんが、わたしを描くときの目をして、別の、女の人をみたことがたまらなかった。
 スカートを握りしめた。拳の上に、涙が次々と落ちた。
「次は、ちゃんと前もって予約をするから」
 嫌だった。
 わたしには、芸術に対する理解がない。なぜ、そこまでして女性の裸を描きたがるのかわからない。
 違う。
 裸でなくても、他の誰かを描くこと自体が嫌だった。ただのわがままなのはわかっている。
 人見さんが近づいてくる。
「ごめん、泣かないで」
 苦しくて、何度も息を吸い込んだ。
 顔をあげられなかった。心臓が飛び出してくるのかと思うくらい、激しく動いている。手で押さえる。
「わ、わたしが……」
 声が震えてまともな言葉にならない。それでも続けた。
「わたしが、脱ぎますから……誰も呼ばないでください」
 体を深く折り曲げて、泣きじゃくった。
 体が熱かった。
 人見さんが背中を優しくたたく。
「ゆっくり呼吸をするといいよ」
 つとめて呼吸を抑えた。ゆっくりと息を吐く。諦めたともわかったとも言ってくれない。
 わたしの肩を手で掴む。体を起こされた。顔はあげられなかった。
 人見さんが跪いて、下からのぞき込んでくる。ハンカチで、涙を拭ってくれる。
「少しは落ち着いた?」
 頷いた。
「気晴らしに、ご飯でも食べに行こうか」
 確かに、何も食べてはいない。あまり食欲は感じなかった。
「食べたくないなら、無理にとは言わないけど……」
 一人で出るつもりらしい。
「そうだなあ、六時くらいにまた来てよ」
「はい」
「それと……下着の痕がつかないように気をつけといてね」
 しばらく呼吸をとめた。空気を取り込んで「わかりました」とこたえた。
 家に帰った。ギターケースをあけて中を確認した。倒したけれど、特に問題はなさそうだった。ほっとした途端に意識が他へ移って、ギターそのものを落としそうになる。慌ててケースに戻した。
 冷蔵庫をのぞいてみたが、食べる気にはなれなかった。
 人見さんに言われた『下着の痕』という言葉が、頭から離れなかった。
 とにかく、体を洗うことにした。
 脱衣所で裸になる。見慣れているのに、まじまじとみることができなかった。
 ブラのアンダーラインに、赤い線があった。腰のあたりに目をやる。『下着』にはショーツも含まれているのかもしれない。いや、当然含まれている。
 どんな距離で、みられるのだろう。デッサンなら、かなり近いはずだ。顔を半分おさえてため息をついた。逃げ出したくなる。頭を強く振った。あんなに近くで、他の女の人の裸を描かれるくらいなら、恥ずかしさに耐えたほうがましだ。
 痕をつけないというのは、思った以上に難しそうだった。
 約束の時間まで、まだ二時間近くあった。わたしは、直前までチェック柄のシャツワンピースだけを着て、下着は身につけずにいた。短い距離とはいえ、そのまま移動するのには抵抗があった。ショーツだけは穿いた。
 人見さんの家に着いてすぐに脱げば、きっと痕がついたとしても浅いだろう。
 インターホンを押すのにも躊躇した。エレベーターでも、吐いてしまうんじゃないかと思うくらい緊張していた。
 リビングに通される。
 シングルよりも少し小さめのベッドが置いてあった。
「ベッドにもなるソファーだよ。床に寝そべってもらうのも悪いかと思って、急ぎで買ってきた」
 頷いた。シーツが掛けてあるようだ。
 寝そべると言うからには、うつぶせなのか。それとも仰向けなのか。考えただけで目眩を起こした。
 白いバスタオルを渡された。
「いつもの部屋が暖めてあるから」
 絵を描く部屋を指さした。
 普通に呼吸をするだけで、ため息になった。
 一人きりになって、まず、ショーツを脱いだ。ワンピースの裾を捲って痕がないか確認する。うっすらとゴムの痕がある。こするとその辺りが赤くなった。
 ワンピースにパーカーを羽織っていただけなのになかなか脱げず、部屋を出られなかった。指が震えて、ネックレスを外せなかった。
 やっとバスタオルを巻いた。バスタオルがあるのに、その上から腕で胸元を隠した。待たせ過ぎている自覚はあった。
 恐る恐る部屋を出る。人見さんの顔をみることはできなかった。ソファーベッドから少しだけ離れた位置に椅子を置いて座っている。ベッドの横に立つ。
「上がって」
 わたしは、ベッドの端に手をついた。少し沈む。バスタオルが落ちてしまいそうで、心配になる。合わせ目を手で押さえていた。
 それほど高くはない。それでも足を上げると裾が拡がった。
「真ん中辺りで、こちらに背をむけて座って」
 事務的に指示を出してくる。膝歩きで言われた位置にいく。
「最初からデッサンはきついと思うから、ラフスケッチにしておくよ。二十分ごとにポーズを換えてもらう」
 顔だけ振り返って、頷いた。バスタオルは、このままでいいのかもしれないと淡い期待を抱く。
「たまごみたいに丸くなって座ってみて」
 両膝をたてて、腕で抱え込んだ。
 足音が近づいてきた。背中に自然と力が入る。
「これ、取るよ」
 指先が肩胛骨の辺りに触れた。バスタオルが引っ張られた。
「足と体の間に挟まってるから、緩めて」
 抜き取られる。わたしは膝と膝の間に顔を埋めた。
 脇が、バスタオルの端で擦られる。布地が体を離れる瞬間に、空気が動くのを感じた。
 寒くはないのに、体が震える。
 人見さんの気配が遠ざかり、また近づいてくる。背中にすべての意識がむいていた。
「髪をどかすよ」
 指先がうなじに触れた。くすぐったくて体を縮める。
「動かないで」
 人見さんの指先がわたしの肩のラインをなぞる。膝を抱えた腕を髪が撫でる。視界に人見さんの指が入ってきた。わたしの髪を体の前側にたらした。
 人見さんは、わたしから離れた。椅子に腰かける音がした。スケッチブックをひらく。鉛筆が紙に触れた。顔を伏せたまま、耳だけで気配を感じ続ける。
 小刻みな震えはなかなかおさまらない。
 絵を描く時の顔が脳裏に浮かぶ。
 わたしの背中がどんなふうに映っているのか、わからない。
 涙が落ちて、太ももを伝っていく。拭うこともできない。終わってくれるのを、ひたすら待った。そのうちに、震えも涙もおさまりはしたが、羞恥は消えない。
 人見さんが立ち上がったのがわかった。近づいてくる。息をころした。背中にバスタオルがかけられた。顔をあげる。
「少し休憩を入れよう」
 バスタオルの端を握って、前を合わせた。
 人見さんは、ソファーベッドの端に腰を下ろした。軽くきしむ。わたしの横にスケッチブックを置いた。
「みていいよ」
 横目でみた。デッサンとは違い、鉛筆の線がはっきりとみえる。手を伸ばして、引き寄せた。
 本当にわたしの背中なんだろうかと、思った。黒い髪が肩の端に曲線を描いている。
 丸めた背中の中央にはしる背骨の、積み重ねられたパーツ一つ一つが、皮膚の下でどんな形をしているのかわかる。
 腰からヒップにかけての丸みと、肘や肩の関節のかくばった感じと、複雑な組み合わせで造り出された微妙なバランスを保っている。
 シーツのシワと、そこに落ちるわたしの影と、そんなものにまで目を奪われた。
「僕はね、人体の中で一番美しいのは、骨だと思うんだ」
 裸を描きたいと思う理由がわかった。人見さんの描いたわたしの背中は、わたしには想像できないほど綺麗だった。
「無理をさせてるのは、わかってる」
 頭を横に振った。
「もう、大丈夫です」
 人見さんの方へ顔を向けた。真っ直ぐとみつめ返した。スケッチブックを返した。
 人見さんが微笑んだ。わたしに向けて手を差し出す。首をかしげた。
「そろそろ次のポーズをお願いしたい」
 頷いた。
「まだ、背中でいいよ」
 人見さんに背を向けたまま、みえるわけもないのに、腕で胸を隠す。バスタオルを外して、体の横に置いた。 人見さんは、バスタオルをもって、絵を描く位置に戻った。
「右手を体の横について、体を傾けてみて」
 指示どおりにする。
「足はついた手と反対側に、自然に流して」
 横座りにすればいいんだろうか。足を動かす。
「左腕は、体に沿うようにして肘を曲げといて。肘から先はお腹の辺りに適当に……」
 手のひらでお腹に触れると、少し冷たい気がした。
「顔は、ついた手の方へ向けて、うつむき加減で」
 人見さんが立ち上がって、近づいてきた。髪に触れる。
 立っている位置からすると、胸がみえるんじゃないかと思ってしまう。
「綺麗な髪なんだけど首から、肩にかけてのラインが隠れてしまうんだ」
 わたしの髪を半分くらいに分けて、肩より前に流す。すぐに、椅子に戻った。紙をめくる音が聞こえた。
 少し無理な姿勢なのか、腰の辺りが鈍く痛んだ。
 今度は、描き上がってもみせてはもらえなかった。
 少しの休憩を挟みまた次のポーズを指示される。また、背中を向けていればよいようだ。
「まず、右手で左肩を掴んで、左手は右足の付け根あたりにおいて、足は、さっきと反対側に倒して座って……」
 顔はどちらにむければ良いのだろう。
「そのままの状態で、こちらを向いて」
 できる限り首をひねって顔を向ける。
「違う、体ごと」
 思いがけない言葉に、息をのみ込んだ。みえないよう、考えてくれている気はする。手は外さずに、なんとか体の向きを変えた。どうしていいかわからず、うつむいていた。
「顔をあげて」
 言われたようにする。目線を合わせられない。瞬きばかりしていた。こめかみに痛みが走る。自分の肩を強く掴んだ。
 我慢できずに、目を閉じた。
 絵を描き始めたのが音でわかる。
 人見さんが手を止めた。しばらく動く気配がない。気になって、目を少し開けた。
 ただ、わたしをみていた。
 鉛筆を動かし始めた。わたしは、また目を閉じた。
 少し、熱っぽい気がしていた。緊張のせいだと思っていたが、それだけではないかもしれない。体がだるくなってきた。
 人見さんにお願いして、今日は、これを最後にしてもらおうと思った。風邪をひいてしまったかもしれない。
 かかとが、少し濡れた気がした。思い出したことがあって、思わず動いてしまった。足をずらして、太ももの下をのぞき込む。
「どうしたの?」
 小さな赤いシミをみつけて思わず手で隠した。
 そろそろだというのを、忘れていた。シーツを汚してしまった。どうしてよいのかわからない。
 人見さんが、そばに来た。バスタオルをかけてくれる。胸を隠していた手を外してしまったことに、今更気づく。
「どうかした?」
「ごめんなさい」
 とにかく謝った。
「あの……帰ります」
「どうして」
 このままでは、ソファーまで染みてしまいそうだ。
 人見さんが、いぶかしげにみる。
「シーツを、汚してしまって……」
 バスタオルを体にまいた。良いとは言われていないが、これ以上は無理だと思った。ソファーベッドから下りる。
「ああ、そういうことか……」
 声が聞こえた。隠しきれなかった。急いでシーツをたぐり寄せていく。
「洗っておきます」
「そんなに気にしなくてもいいよ」
 わたしの腕をつかんでとめた。シーツを確認している。
「たいしたことない。それより、一度帰った方がいいんじゃないの?」
 頷いた。
「シーツを……持って帰っていいですか」
「それは、かまわないけど」と言った。
 丸めたシーツを抱え込んだ。
「今日は、もういいけど、続きは……一週間後くらい?」
「わかりました」と、頭を下げて、服を着るために部屋をうつった。とにかくこの場から去りたかった。
 衣服を身につけて戻ると、人見さんはさっき描いた絵をみていた。わたしに気づいて顔をあげる。
「明日から、油絵の仕上げに入るから、いつもの時間にきてね」
 人見さんにとってはきっと、どうでもいいことなのだろう。
 それでもわたしは、恥ずかしくて、たまらなかった。
 帰って、いろいろ整えたあと、シーツのシミを落とした。
 考えれば、感情が大きく揺れたのも、バイオリズムのせいかもしれない。ひどく疲れていた。洗濯をすませて、すぐに眠りについた。
 下腹部の鈍い痛みで目を覚ます。よく寝たはずなのに、すっきりしていない。時々思わず目を閉じるほどの頭痛もあり、痛み止めを飲んだ。
 着替えもあるので、八時過ぎに人見さんの家に向かう。
「朝ご飯まだでしょう?」
 人見さんに訊かれた。昨日、ほとんど何も口にせずにいた。今朝も何も食べていない。意識した途端、胃が熱くなった。
「昨日さ、律が帰った後、気が向いて買い物に出たんだけどね。またコンビニの人に会ったよ。九時前くらいかな。お子さんの遠足のおやつを買い忘れたって言ってた」
 坂井さんと話したようだ。
「律によろしくって言ってたよ」
 坂井さんは人見さんを気に入っていたから、喜んだことだろう。
「とにかく、材料を仕入れてきたから、今朝は、僕が腕によりをかけて、ベーコンエッグを作ってあげる」
 したり顔で言う。ベーコンエッグと言っていた割に、時間がかかっていた。やっと人見さんが戻ってきた。テーブルがないので、人見さんの机で食べることになった。
 絵を描く時に座っている椅子を持って来たけれど、高さが合っていない。
 人見さんは、トーストを取りに行っている。
 並べられた朝食は、ベーコンも目玉焼きも、火が通りすぎている。端が黒く焦げていた。それでも香ばしい匂いは食欲をそそる。
 昨日、わたしが落ち込んでいたから、気を遣ってくれているのはわかる。それが嬉しかった。朝食もすんだ。そろそろ着替えようと思った。
「昨日は何も考えずに来てって言ったけど、絵は、ほぼできてるから、今日は休んでもいいよ」
「平気です」
「そう? 顔色もよくないしさ」
 仕上げの日に顔色が悪かったら、問題があるかもしれない。
「今日は、計画をたてたらいいかなとも思って。大学の休みがあけたら遠出はしにくくなるでしょう」
 現金なもので、その言葉をきいたとたん、口元がゆるんだ。人見さんに笑いかけられた。
「律の初めて集めのポイントも結構たまっててさ。後、どんなものがあるかなと考えてみたんだけど……」
 焼き鳥、ドライブ、絵のモデルもそうだし、もうすぐ、免許をとって初めての運転が待っている。
「律って、海外行ったことある?」
 予想もしない言葉に、きょとんとしてしまった。
「あるの?」
 ないと言うと、そっかそっかと嬉しそうにした。
「じゃあ、それは至急準備が必要だね。まずは、パスポートを取らないと」
 本気のようだ。
「どこに行くかは僕が決めてもいい?」
 戸惑いながらも、頷いた。
「本気で考えないとさ。何ポイントまで集められるかな?」
 腕組みをして考え込んでいる。
「例えば、初めてのサバイバルゲームって感じで、律がしたことなさそうなのはいくらでもあるんだよね。そうじゃなくて『これからしそうなこと』で、『まだしてないこと』がいいんだ」
 わたしにもなかなか思いつかない。
「先に、パスポートの準備をしようか」
 戸籍謄本がいるらしい。取り寄せの用紙を用意してくれた。記入する。本人確認に、とりたての運転免許証のコピーをつけることにした。
「郵便局に行って、どこかで食事でもしながら続きを考えよう」
 郵便局へ向かう車の中で「何にも思いつかないの?」と訊かれた。
 してみたいことで考えたらいいのかもしれない。
「どこかで、待ち合わせてお出かけはどうですか?」
「デートかあ」
「デートじゃありません。お出かけです」と強調した。
「この辺りのデートスポット知らないなあ。調べないと」
 わたしの訴えを無視して言う。
「映画、水族館、遊園地、どれがいい?」
「水族館」と、こたえた。
「だけど、待ち合わせが一番難しいなあ。家が目の前なのに……」
 別に、水族館に行けるならそれだけでいいと思った。
 人見さんは、郵便局の駐車場に車をとめた。
「他にはないの? 行ってくるから考えておいて」
 ひとり、車にのこった。イチゴ狩りには行ってみたいかもしれない。それなら、ブドウ狩りもしてみたい。ケーキのホール食べにも憧れる。カットされていないホールケーキに、フォークを突き刺すなんて贅沢だ。思いついたのはいいけれど、食べることばかりだった。
 人見さんが戻ってきた。
「何か思いついた?」
「果物狩りに行ってみたいです」
「いいね。今の季節にあればいいんだけどな……」
 ケーキについては「なんなら、今日にでもする?」と言われた。考えると、そこまでしたいことでもなかった。
「あんまり多くなっても、困るしね……」
 ギアを動かした。車が動き始める。
『ひと月ふた月』の予定は変わっていないようだった。
 今日は、会席料理のお店に連れてくれた。掘りごたつのある個室で、少し緊張した。
「イチゴ狩りは、いろんな場所でできるみたいだよ」
 お料理を待っている間で、早速調べてくれている。スマートフォンを渡される。画面をみる。イチゴがたくさんぶら下がっている。赤いものだけでなく、小さくて白いイチゴもあった。楽しそうだ。
「律の運転で行こうか」
 スマートフォンを落としそうになる。
「大丈夫だよ。途中までは運転してあげるよ。郊外でかわればいい」
 それなら、なんとかなる気はした。
 お料理が運ばれてきた。会席料理はとてもきれいだった。小鉢に少しずつ旬の野菜が盛りつけてある。器は、植物をかたどってあった。味も繊細で優しい。
 食べ終わり、熱い緑茶を飲みながら少し話をした。
「海外旅行へ行ったことあるんですか?」
「いや、旅行って言えるか……まあ、旅行かな。会社の奨励でハワイとワシントンに行った。なんか本社のえらいさんも来てたから、そんなには楽しくなかったかな。旅費がただだったから、文句はないけど……一応、自由行動もあったし」
 会社から海外旅行に行かせてもらえるなんて、知らなかった。
「わたしは、まだ行ったことはないんですけど、十年後くらいにスペインに行く予定があるんです」
 人見さんが、興味深げにわたしをみた。
「だから、スペイン語をとってるの?」
 頷く。
「母は、飛行機が苦手で海外には絶対行かないって言ったんですけどね。サグラダ・ファミリアを、みに行きたいって言い出して。そのためなら飛行機が落ちて死んでも本望って言ってて」
「確かに、美しい建造物だね。未完成ながら、すでに巨大な芸術作品だよ。できあがった姿をみてみたいって、思ったことあるなあ」
「十年後くらいには、完成するらしくって」
 人見さんは首をかしげた。
「サグラダ・ファミリアの完成までには、あと百年かかるって、学生の頃きいた気がするんだけど?」
 首をかしげる。
「母が、その頃できあがるって言ってました」
 人見さんが持っていた湯飲みを台に置いた。激しい音がする。
 スマートフォンを手に取り、指で画面を触っている。顔が、怖い。
 手を止めた。それから、目を閉じた。頬が震えている。奥歯をかみしめたのがわかった。どうして、怒っているのかがわからず、うつむいた。
「たった、十年……」
 絞り出すような声だった。
 人見さんは突然立ち上がった。
「ここで、待っておいて」
 後ろで、襖が激しく閉まる。人見さんはなかかな戻ってこない。わたしには、怒らせてしまった理由がわからなかった。
 和服の店員さんがきて、空いた器をさげた。急須をおいてくれる。湯飲みに熱いお茶を注いで、立ち上る湯気を眺めていた。そうしているうちに、お茶がすっかり冷めてしまった。
「待たせたね」
 やっと戻ってきた。
「ちょっと、調べ物ものしてて……」
 いつも通りなので、安心した。どうして怒ったかは訊けない。
 人見さんはいろいろ買いたい物があるらしく、車で、大型スーパーへ向かうことになった。
 店内にはいろいろなお店が入っていた。なんでも揃いそうだ。
 人見さんは案内図をみている。さっき怒らせたせいで、話しかけることができなかった。何を買うんだろうかと気になる。
「店が多すぎてなかなかみつけられないな。掛け布団と枕を買おうと思って、後、食事をするテーブルも、律も探して」
 確かに、テーブルはあった方が良い気がする。どうもこの階にはなさそうだ。そのことを伝える。エスカレーターで二階に移動する。人見さんと並んで乗った。手すりが温かい。
「今夜から、山崎が来るんだよ」
「ええ?」
 つい大きな声を出してしまった。少し前に話してくれたお友達だ。
「昨日電話してみたんだ。そうしたら、今夜から日曜までいるって。律にも会いたがってる」
 会わせてもらえるなんて思わなかった。嬉しすぎる。うつむいて口元を隠した。
「今夜は遅くにつくと思うんだ。まず、ちらっとだけ会ってもらえる?」
 頷いた。
「明日は、絵を描くところがみたいって言ってるから……。あっ、油絵の方ね。それから、律の歌も聴きたいってさ」
「わたしが歌うんですか?」
 途端に不安になる。
「ここ、楽器屋もあるでしょう。ギターの弾きやすい椅子と、譜面台と、その辺りをそろえようと思って……」
「そんなに買って、大丈夫なんですか?」
「お金?」
「車に乗るのかなって……」
 人見さんが笑顔になる。
「ここのスーパーすごいんだ。軽トラックを貸してくれるんだよ。前から気になってたんだ。ねえ、軽トラ乗ったことある?」
 訊かれた。頭を横に振る。
「僕も無いんだ!」
 嬉しそうだった。
 わたしは、山崎さんの前で歌うことで頭がいっぱいだった。人見さんから山崎さんの好きな歌を三つ伝えられた。『渚』『8823』『ホタル』だった。明日までに練習しておくように言われた。『8823』は弾けるかわからないけれど、他は大丈夫だ。
 帰りは本当に軽トラックだった。前の車との距離が近い気がして怖かった。シートも固くて、乗り心地が悪い。
 マンションの前に車をとめて、人見さんが何往復もして荷物を運んだ。
「一つ一つは重くないんだ」
 わたしは、車の番をしていた。
「やっと終わった」と、運転席に乗り込む。
「軽トラを返してくるよ。律は、ギターを持って来て練習したらいいよ。椅子や譜面台はまだ箱の中だけどね」
 人見さんは笑う。
「手を出して」と言われ、手のひらを差し出す。家の鍵を渡された。ギターのキーホルダーがついている。革製だ。持っておくように言われた。合い鍵のようだ。握りしめて、頷いた。
「使い方は簡単だから、わかると思う」
 人見さんがいつもしているようにすればいいはずだ。
 家に戻って、まずお手洗いに行った。まだ二日目なので、心配だった。人見さんの家ではかえられない。
 山崎さんが来るのは、遅くだと言っていた。途中、何度か家に帰らしてもらえばいい。
 人見さんの家に移動した。鍵はすんなりと開けられた。
 ギターを練習しながら待つ。ギターアレンジの楽譜も持って来てある。よく考えたら、歌わなければいけない。『8823』はお断りしようと思った。
 『渚』はよく弾くので問題ない。『ホタル』を弾くのは久しぶりだった。イントロのアルペジオが綺麗な曲だ。少し、声を出さないといけない箇所がある。うちと違って壁も厚そうなので、大丈夫なのかもしれない。
 山崎さんはどんな人なんだろう。
 弁護士をしているならきっと、眼鏡をかけていて、知的な感じの人だろう。
 スーツの下におそろいのベストを着ていて、寒色系のネクタイをしていそうだ。弁護士のバッジもつけているはずだ。考えると、たのしくなってきた。
 歌は無理でも、せめてギターをまともに弾きたくて、練習していた。
「何その曲、綺麗だね」
 夢中になりすぎて、人見さんが帰ってきたことに気づかなかった。楽譜をのぞき込まれた。
「山崎ってスピッツ好きなだけで意外なのに……ふーん……あいつああみえて綺麗なものが好きだしなあ」
 一人で納得している。夕食は食堂へ行くことになった。今日も作れなかった。
「明日の晩、山崎にも何か作って欲しいんだけど、オムライスみたいなのがいいんだよね。口が子供だからさ。酔うとお子様ランチが食べたいって騒ぎ出すんだ」
 わたしの中で山崎さんのイメージが揺らぐ。
 食事から戻った後も、ひたすらギターの練習をしていた。手をとめて、リビングをのぞいた。人見さんは家具の組み立てで忙しいようだ。立て膝をして、ドライバーを片手に悪戦苦闘している。時々舌打ちをする。なんだかかわいく思えた。人見さんが、顔をあげ、手招きする。
「悪いけど、天板を支えといてくれる?」
 二人ですると、簡単に組み上がった。
「家具を組み立てるの、初めてでした」
「またポイント稼いだ」
 本当に嬉しそうに笑った。山崎さんは後一時間ほどでくるらしい。少し緊張する。一度家に帰ることにした。
 鍵を預かっていたことを思い出し、ポケットから出した。返そうとすると「持っておいてくれたらいいよ」と言われた。驚いて、人見さんをみつめた。
「その方が、便利でしょう?」
 頷いて、ポケットに鍵を戻す。
 部屋に帰って、なんとなく、身だしなみをチェックした。ご挨拶だけなので、長時間はお話しないと思う。緊張しすぎてため息が出た。
 人見さんの家に戻った。借りている鍵で開けた。音に気づいて、人見さんがリビングから出てきた。
「ああ、おかえり」と言われて、固まってしまった。
「ん? 違うな……。まあ、いいや。はいって」
 手のひらで胸を押さえた。鼓動がはやい。
「山崎、もうタクシーに乗ったって」
 リビングに戻っていった。わたしも急いで後をおう。ソファーベッドに別のシーツがかけてあった。枕や布団も用意してあった。
「シーツ、乾いたんですけど、まだアイロンができてなくて」
「アイロンは別にいいよ」と言われた。汚しておいて、そんなわけにはいかない。
 しばらくして、インターホンがなった。応対している。
「律は、ここで待ってて」
 玄関をあけて、山崎さんを迎えるようだ。期待と不安で、落ち着かない。
「久しぶり」
 声が聞こえた。思っていたより声が高い。
 二人の話し声がみるみる近づいてくる。
 リビングの入り口の方を向いて、挨拶の準備をして立っていた。まず、人見さんが入ってきた。
 続いて入ってきたのは、わたしとそう身長がかわらない。小太りの男の人だった。予想通りのスーツを着ているが、とにかく顔が怖い。
 わたしを真っ直ぐ見据えて近づいてくる。息をのんだ。
 机の上に持っていた鞄を置く。鞄の底の金具があたって大きな音をたてた。思わず身を縮めた。
 山崎さんは、わたしの正面に立つ。わたしは、人見さんに目で助けを求めた。少し離れたところで、様子をみている。
「お前が、人見の言ってた近所の女か?」
 すごまれ、怖くなって、うつむいた。
「山崎」
 人見さんが声をかけた。
「お前は、しばらく黙ってろ」
 人見さんは、それ以上何も言わない。
「俺は、泣けばなんでもその場をごまかせると思ってる女が、一番嫌いなんだ。まさか、泣いたりしてないよな?」
 まだ泣いてない。だけど、泣いてしまいそうだ。顔をのぞき込まれた。怖くて、目を合わせられない。顔を背けた。
 人見さんがきて「まあまあ、今日はこのくらいにしよう。お互い疲れてるだろ」と、山崎さんの肩に手を置いた。
「彼女を送ってくるから」
 山崎さんに睨まれる。
「続きは明日、ゆっくりな」と、片方だけ口角をあげた。
「そんな、やらしい言い方するなよ」
「うるさい。俺は何をするでも、ねちっこいんだ。覚悟しとけ」
「わかった、わかった」と、軽くあしらっている。
 人見さんに背中を押されながら、玄関まで歩いた。エレベーターに乗った途端気が抜けて、座り込みそうになった。人見さんが支えてくれた。
「怖かったでしょう」
 頷いた。山崎さんのことはかなり苦手だ。
「まあ、とにかく、山崎から質問があったら、正直にこたえてね。律が、山崎に気に入ってもらえないと、困るんだよ」
 理由はわからなかったが、頼まれたら、頑張るしかない。

 山崎さんの態度がショックで、よく、眠れなかった。朝から憂鬱だ。気が重いけれど人見さんの家に向かう。合い鍵を持たされていることを知られたら、なんと言われるかわからない。いつも通り、エントランスでインターホンを押す。
〈んあ? もう来たのか〉
 山崎さんの声だった。
〈ボタンこれか?〉
〈何、勝手に出てるんだ〉
 人見さんの声が聞こえたあとで解錠された。
 エレベーターに乗って、深いため息をつく。気に入られないと困ると言っていたが、もう嫌われているようだった。七階でエレベーターのドアが開くと、人見さんが前に立っていた。迎えにきてくれたようだ。
「朝からごめんね。山崎、いつもはあんなんじゃないんだけど、なんか理由があると思うんだよね。うまく合わせて」
 励まされても、うまくはできそうもない。
 新しいテーブルで、人見さんの作った朝食をとる。山崎さんは「朝は食わない」とコーヒーだけ飲んでいた。
「美味しい?」と、訊かれた。
「昨日よりは」
 山崎さんに気を取られていて、つい、本音が出てしまった。
「昨日よりはって……」
 人見さんが呟いた。
「うける」と、山崎さんに笑われた。
 後片付けを済ませて、絵の準備に入った。クローゼットで着替えて、絵を描く部屋に行く。人見さんが近づいてきた。わたしの髪を掻き分けて背中のボタンを留めてくれる。
 顔をあげると、山崎さんと目があった。見据えられる。
 人見さんが髪を整えてくれる。
「座って」
 そう言って微笑んだ。
「大事なところだから、邪魔はするなよ」
 山崎さんに釘を刺してから、絵がみえないように、壁に寄せてあったイーゼルを移動させる。キャスターの音が響く。山崎さんは、じっとイーゼルをみている。人見さんは、いつもの位置で、キャスターをロックさせた。
 椅子に座った。山崎さんは、少し離れて人見さんの背後に立っていた。絵をみているようだ。
 人見さんが砂時計を置きに来た。
「本当に、仕上げだから」
 椅子に座ると、細長い棒を取り出した。キャンバスの上部に端を当てた。細い筆を持っている。棒に肘をあて、描き込み始めた。
 山崎さんは、人見さんの背後に立ち、作業をじっとみている。
 人見さんは、わたしをみる。なかなか描き出さない。しばらくして人見さんがため息を吐いた。
「今日はだめだ」と言って、立ち上がる。
「山崎がいるから、律が集中してない」
 人見さんは、振り返って山崎さんの方をみた。
「仕上がりをみなくてもいい。ほぼできてるしな」
 山崎さんは絵に近づく。手のひらを絵にかざすようにした。
「後、このあたりと……ペンダントの輝きを描き込んだら完成だろ」
「よくわかったな」
 腕組みして頷いている。
「できあがったら、俺にくれ」
 人見さんを見上げて言う。
「この絵はだめだ」
「金は払うよ」
「金の問題じゃない。それに、これ以上いらない」
 山崎さんががっかりしているのが、みていてわかった。本当に人見さんの絵が好きなんだと思った。 
 山崎さんをじっとみていると、突然こちらを向いた。
「お前、人見のことが好きなのか?」
 突然、訊かれて、思わず人見さんをみてしまった。慌ててそらす。
 人見さんからは正直にこたえるように言われている。どうしていいかわからない。山崎さんの顔が、さらに不機嫌そうになる。仕方なく頷いた。
「人見がどんだけもてるか知らないのか? 学生の頃から、女に困ったことないんだぞ。今は金もある。俺の言っている意味、いくらなんでも理解できるよな」
 わかりきっていることなのに、人見さんのことをよく知る人に言われると、実感してしまう。
 泣いてはいけない。そう思っても、こみ上げる涙を抑えることができなくなった。これ以上ないくらいうつむいて、涙を隠そうとした。
「いい加減にしろ」
 人見さんが山崎さんを怒鳴りつけた。
「もういい、お前には何も頼まない。他を探す」
 わたしのそばにきてくれた。優しく包み込んでくれる。頭を撫でて「ごめん」と言った。
 すると、二度、手を打ち鳴らす音が聞こえた。「はい、合格!」と、山崎さんが大きな声で言った。
 人見さんが立ち上がって山崎さんの方へ向き直った。
「どういうことだ?」
「ひきうけるってことだ」
 山崎さんが近づいてきた。
「佐々原律さん。大変失礼しました。人見の友人の山崎久です」
 顔をあげた。山崎さんは、目が無くなるほどの笑顔を浮かべている。わたしは、何が起こったのか理解できていなかった。
 山崎さんは人見さんをみあげた。
「俺がみていたのは、この子じゃない。お前だ。なかなか本心をみせないからな……ま、絵をみた時点で」
 人見さんが「山崎」と、言葉を遮った。山崎さんは「わかってる」と言い、人見さんの腕を二回たたいた。人見さんが、何かを頼んでいたらしい。
「ちなみに、俺はまだあの絵を諦めていない」
「諦めないのは、お前の勝手だ」
 肘でお互いをつつきあいはじめた。背の高さが違うから、当たる場所が全然違う。意地になってどちらもやめない。山崎さんとのやりとりは、新鮮だった。人見さんが子供っぽくみえる。
「山崎、そういや、もう一つキャンバスを用意したんだ。下塗りするか?」
「やらせてくれるのか! だがな、半分仕事だと思って来たから、スーツしかない」
 人見さんが服を貸すことになり、二人は、部屋を出て行った。
 もう一枚絵を描くことにしたのは、知らなかった。何を描く気なんだろう。
 山崎さんは、着替えて戻ってきた。わたしは、笑いそうになって、うつむいた。横幅はちょうど良いくらいにみえたが、袖も裾も長い。何重にも折ってある。
 わたしも着てきた服に着替えた。
 人見さんは、わたしのあげたお皿の上に絵の具を出した。黄土色だった。
「珍しいな。いつもブルーグレーだと思っていた」
 人見さんは絵の具を刷毛にたっぷりとって、山崎さんの目の前に持って行く。刷毛を渡す。
「本当にいいのか?」
「好きなように、塗ってくれ」
 山崎さんの顔が変わった。人見さんをじっとみつめる。山崎さんは深く息を吐いた。それから、刷毛を激しくキャンバスにたたきつけた。絵の具が飛び散った。
 人見さんは山崎さんの姿を黙ってみていた。そして、ふっと、全然違う方向へ顔をむけたかと思うと、そのまま動かなくなった。
 山崎さんは、絵の具がかすれても、気にせず、キャンバスに刷毛をこすりつけた。何に対する怒りだろう。
 人見さんも何も言わずにただ、山崎さんの近くに立っていた。わたしには割り込めない何かが、確実に存在している。不思議と悲しくはなかった。
 下塗りはほぼ二人で終えた。わたしは、申し訳程度に端の方を塗らせてもらえた。
 人見さんから「悪いね」と、謝られた。
「昼食を食べに出ようか。その後で……」
「準備はできてんのか?」
 山崎さんが問いかけると人見さんは頷いた。
 人見さんがハンバーグの美味しいお店に連れて行ってくれた。
 頭の中で、楽譜と指のイメージが行ったり来たりしていた。ナイフを持った方の手の指が、弦を押さえる形になってしまう。
 頭の中で、メロディラインとリズムをおさらいしていた。ふと顔をあげると、人見さんも山崎さんもわたしをみていた。二人が何度も小さく頷く。
 わたしは、首をかしげた。
「律の真似」
 人見さんが笑う。無意識に頭でリズムをとっていたようだ。
 ハンバーグは美味しかったはずなのに、味をほとんどおぼえていなかった。
 マンションの前で下ろしてもらい、ギターを取りに帰る。
「気にせず、勝手に上がってきてくれたらいいから」と、声をかけられた。頭を下げた。背中を向けた途端、名前を呼ばれた。
「律が、一番自分らしいって思う服を着てきて」
 家についてすぐ、楽譜やギターをテーブルに並べた。
 クローゼットを開く。自分らしいと思う服と言われると、難しい。最近、少し背伸びをしているかもしれない。お気に入りの黒いパーカーを出した。ワンピース風にも着られるようにわざと大きめのものを買った。下にジーンズ生地のタイトスカートをはく。パーカーの裾から、少しだけ、スカートがみえる。靴下はえんじ色にした。髪は、黒ゴムで一つにまとめた。
 ギターを担ぐ。尊敬するギタリストの名前が入った紺色のトートに楽譜を入れた。恥ずかしがっているだけじゃなく、ちゃんと、演奏したいと思った。 人見さんの部屋につくと、しばらく待つように言われた。人見さんは、絵を描く部屋の隣のドアをあけた。今まで、一度も入ったことはなかった。
「好きなように歌ってくれ。俺よりもあいつがたのしみにしてる」 
 山崎さんに言われ、頷いた。
 ほんの少しだけ待たされて、すぐに呼ばれた。部屋に入る。
 大きな掃き出し窓に、淡い水色をしたレースのカーテンが掛けられていた。光が溢れている。絵を描く部屋は、光の変化がないように雨戸を閉めてあった。
 窓から、少しだけ内側に、カウンター椅子と、譜面台が置いてある。
 楽譜を出して譜面台に置いた。トートバッグは譜面台の金具にかけた。ギターを取り出した。ストラップに体をとおして、ギターをかける。
 二人は椅子を並べて座っている。
「緊張してる?」
 訊かれたので頷く。
「なあ、さっきから気になってるんだが……」
 山崎さんに話しかけられた。
「持って来たバッグに164って数字があるけど、ハヤブサみたいに他の読み方あるのか?」
「4649みたいなやつ?」
 そのまま数字で読むとこたえた。
「なんだ、つまらん」
「ギタリストの名前なんですけどね。本名は『ひろし』って言うんです」
 山崎さんが「まじ?」と言った。
「じゃあ、俺は久だから134、人見は1103か」
「僕のは、名字だよ」
「靖彦は数字におきかえられないんだから、しかたないだろ」
 緊張は、いつのまにか無くなっていた。
 演奏をはじめた。
 二人が、喜んで聴いてくれるので、だんだんと楽しくなった。言われていた曲以外にも、山崎さんから追加を頼まれ、三人で『チェリー』を歌った。人見さんは、さびしかわからないと言いながら、結構歌えていた。
「ああ、楽しかった」
 人見さんが笑う。
「まあな」
 山崎さんにも満足してもらえてよかった。
「エレキはしないのか?」
 山崎さんに訊かれた。
「持ってないので……」
 エレキギターには憧れるけれど、機材もいるので簡単には買えない。
「ああ、揃えると高いもんな……お前、買ってやれよ」
 山崎さんが人見さんの方を向いていう。人見さんは頷いた。
 山崎さんにわたしの作ったオムライスも気に入ってもらえた。最初に顔を合わせたときには、どうなることかと思ったけれど、山崎さんに会えてよかった。
 土曜日は、二人で打ち合わせがあるらしく一人で過ごすことになった。わたしは、歌を作ろうと思った。
 前の配信でメロディはほとんどできている。
 問題は歌詞だった。
 人見さんの顔を思い浮かべる。いつも優しく笑いかけてくれる。
 思いつくままに、フレーズを並べていった。
 日曜日の午前中、山崎さんは大阪へ帰った。
「正式に、人見は俺のクライアントだから、これからちょくちょく顔を出す」
 そう言い残していった。
 人見さんはいろいろと忙しいらしく、夕食を作ってほしいとだけ言われた。
 曲作りに夢中になっていた。さびはほぼ完成した。メロディの方は、次から次へと浮かんだ。すべてが使えるわけではないが、書きためておこうと思った。
 月曜日は、マンションに業者がくると言っていた。「リフォームをするんだ」と言う。山崎さんが来てから、人見さんにいろいろ変化があって、少し不安になってきた。
 まだ、絵は完成していない。だけど、次の絵の準備をしている。
 午後になって、人見さんから電話があった。印鑑を持ってくるように言われた。
 部屋に着くとすぐ、机の前に連れて行かれた。机の上に、ペンが置いてある。椅子に座るように言われた。
「律さ、通帳の確認ってしてくれてる?」
 人見さんは別の椅子を持って来て、机の向かい側に腰掛けた。
 いつもとどこか雰囲気が違う。うつむいた。
「みてない気がしたから、少し前に大きめの金額を入れてみたんだけど、全然反応ないしさ」
 わたしは顔をあげた。
「冗談だよ」
 いつもより口調が冷たく、戸惑ってしまう。
「律が嫌がっているから、契約を解除しようと思って、来てもらった」
 頭がしびれて、椅子に座ったまま、体が傾いていくような錯覚に陥った。
「契約の内容は覚えているね。僕が必要としているときに君には対価が支払われる。契約を解除しなくても、僕が求めなければ、君の嫌う報酬は発生しない」
 動けなかった。口の中が乾き、喉もとを手のひらで隠した。
「あえて、契約を解除するのには、理由がある」
 息を飲みこむ。
「新しい契約書を用意してある」
 人見さんの顔をみる。無表情だった。
「律は、金銭の授受がなければ、不満はないよね」
 様子を窺いながら頷いた。
「権利には常に義務がつきまとうのは理解できるね?」
「わかります」
「今の契約よりも法的拘束力が強まり、範囲も拡がる。それでもかまわない?」
 どんな契約なのか、不安になる。
「最初に断っておく。新しい契約書にサインをしなかった場合は、今の契約は継続させる。そして、それから先、君に何かを要求することはしない」
 どうすればいいのかわからなかった。人見さんが封筒から紙を取り出した。
 透けそうに薄い紙だった。ひろげるとき頼りない微かな音がきこえた。
 裏からでも、人見さんの住所や氏名が書き込まれているのがわかった。人見さんはわたしの方を向けて、用紙を机に置いた。
「必要事項を書き込んでほしい」
 茶色い文字を目で確認する。『婚姻届』と書いてある。
 テレビで何度か目にしたことはある。実物をみるのははじめてだった。本物だろうかと思った。
 人見さんの欄はすべて埋まっていた。
 目の前で起きていることが、現実だと認識するのに時間がかかった。驚いて、顔をあげた。
「今のは、プ、プロポーズですか?」
「これは契約だ。君は成人している。山崎にも確認したが、法律上誰の許しもいらない。山崎と、山崎の部下が証人になってくれた。サインするかしないか、今この場で、律が判断してほしい」
 まっすぐとわたしをみたまま言った。冷たい響きだった。
 わたしがサインをしなければ、今後一切会わないつもりだ。もう、会えないなんてたえられない。
「名前を書いたら……そばに……いてくれるんですか?」
 頬が震える。一気に想いが溢れて、人見さんが滲んでしまった。
「僕にはもう、迷いはない。君をこれから先、ずっと縛り続ける」
 人見さんの署名に目を落とした。枠いっぱいに大きな字で書いてある。
 紙に涙が落ちる。小さく弾かれ、音がなった。しみになる。
 他の選択は考えられなかった。ペンを手に取った。上から順に記入していく。名前は、ゆっくりと丁寧に書いたけれど、そうきれいではなかった。住所を書く字が、いつも以上にへたくそになった。
 すべて書き終え、印鑑を押した。
「ありがとう」と、言われ顔をあげた。
「代わりに、僕のすべてをあげるよ」
 人見さんは目を閉じて、ゆっくりと息をはいた。それから、笑いかけてくれた。紙を引き寄せ折り畳んで封筒にしまう。 立ち上がった。
 ただ、顔をみつめていた。
「提出してくる。取り寄せた戸籍謄本はこっちの手続きに使うよ。律は荷物をまとめておいて。婚姻には同居が必要だ」
 人見さんはあくまでも事務的に言う。
「これから先、手続きやいろいろなことは、山崎に委任してある。わからないことは、僕ではなく、山崎に訊くようにして」
 一人取り残されて、机の上のペンを手に取った。
 まだ、思考がまともに働いていなかった。自分が記入したものがなんだったのかはわかっていた。
 ただ、わたしでも、こんな手順で進めることではないのは知っていた。
 一度、家に帰った。
 荷物をまとめるように言われたが、何を持って行って良いかわからない。大きめのバッグに、下着や部屋着を入れる。歯ブラシや、洗顔も取ってきた。修学旅行の準備をしている気分だった。
 ギターと楽譜を持った。思い出して、充電器をコンセントから抜いた。ひとまず、一度で運べる量だけにした。
 人見さんの部屋に戻る。もう、帰ってきていた。
「おかえり」
 声は出せずに黙って頷いた。
「転居届けも出してきたから、今日からここが、律の現住所ね」
 マンション名は知っているが、番地まではわからない。わたしの家と近いはずだ。
 荷物を持ったまま、玄関に立っていた。
「ひとまず、クローゼットに入れておいたら? 律の部屋はリフォームするから、終わるまではリビングを使ってもらう」
 わたしは、荷物を置いてきた。
「いろいろ、話をしないといけないけど、ひとまず、食事に行こうか。あっ、どうしようかな……おばちゃん達には別に言ってもいいんだけど、律の周りの人にはしばらく黙っておいてもらえる? ちょっと考えてることがあるからさ」
 わからず、首をかしげた。
「やっぱり、今日は、あれこれ訊かれると疲れるから、黙っておこう」
 自分では何も判断できないので、人見さんの言うとおりにするしかない。

 食堂のご夫婦をみていて、考えた。わたしと人見さんはこんな風になれるんだろうかと。『婚姻』したということは『夫婦』になったはずなのに、なんの実感もない。 恋人どころか友達にもなっていない気がした。 契約だと言っていた。変わらず『甲』と『乙』の関係なのかもしれない。
 わたしを「縛り続ける」と言った。すべてをくれるとも言ってくれた。それなのに、遠く感じる。
 婚姻届が、あんなに薄い紙でできているとは思わなかった。夫婦とは、もっと強く結ばれているものと思い込んでいた。 実際は紙に名前を書き込むだけで成立してしまうのだ。
 絆は、何十年とかけて、築いていくのかもしれない。
 食堂の帰りに、元の家に寄らせてもらった。
 シャワー浴びた。まだ終わっていないから、御手洗いにも行きづらい。
 人見さんの家に、行った。
「お風呂入ってきたんだ」
 リビングのソファーベッドが用意してあった。
 近づいていく。
「もう、眠る?」と、訊かれて振り返る。まだ、早いが眠かった。
「寝るときは、僕のベッドを使って」
 首を横に振った。居候のようなものなのに、悪いと思った。
 近づいてきて、手をとった。
「おいで」
 もう一度、首を横に振った。
「嫌なんだよ。山崎の寝た布団を使わせたくない。リフォームが済んだらちゃんとしたものを用意するから、それまでは我慢して」
 手をひかれ、寝室へ連れていかれる。
「僕はまだ寝ないから、困ったことがあったらリビングに来て」
 部屋に残して出て行った。
 中にはベッドしか無かった。サイドテーブルは絵を描く部屋にある。部屋着を、クローゼットに置いてきてしまった。なんとなく、部屋から出られない。
 人見さんが、何を考えているのかわからない。
 わたしは、掛け布団をみつめる。再会してすぐの頃、ここへ起こしに来た。このベッドで眠る人見さんの姿を思い出す。布団の膨らんでいたあたりを撫でた。
 端をつかんで捲った。ベッドに膝をかける。そっと潜り込む。布団は冷たかった。体をまるめる。人見さんの、匂いがした。わけもなく涙が溢れる。手のひらで、拭う。
 どうしてこんなに不安なのか、わたしにはその理由がわからなかった。 電気を消した覚えはないのに、朝には点いていなかった。
 こっそり部屋から出る。クローゼットに洗面用具を取りに行く。人見さんは起きているようだった。

「おはよう」と声をかけられ目が覚めた。少しだけ髪を整えて、人見さんをみた。挨拶を返す。目が腫れていると指摘された。
「明日からリフォームが入るんだ」
 急で驚いてしまった。
「人よりお金を払えば、多少の無理は通るんだよ」
 他意は無かったのに、ばつが悪そうにしている。
「とにかく、今日中に絵を仕上げたいんだけどな……」
「しばらくしたら、むくみはとれると思います」と返すと、「よかった」と言った。
 朝食はわたしが作った。
「おかしいなあ。同じ材料で、どうしてこう違うんだ?」
 ベーコンエッグを食べながら、首をかしげた。
「じっとみていなくても、音を聞いていたら、なんとなくわかるんですよ。火の通り具合」
 人見さんが「目から鱗」と言って笑った。
 絵は、三時間ほどで完成した。できあがってもやはり、みせてはもらえなかった。
 人見さんが、ワンピースのボタンを外しながら、わたしの名前を呼んだ。
「そろそろ、終わった?」
 何について訊かれたのかわからなかった。
 人見さんが、うなじに触れた。鼓動がはやまり、うなだれた。
 指先が脊椎をなぞりながら、おりていく。一度離れた。腕が前に回り込んできた。指が耳の下に触れる。下あごを撫でた後で、鎖骨に触れた。
 息を殺して、きつく目を閉じた。指先は、鎖骨の上を行き来する。
「明日の夜には、どう?」
 返事ができなかった。
「はやく、続きが描きたいんだ」
 目を見開いて顔をあげた。後頭部に痛みが走る。人見さんが短く声を出した。当たってしまったようだ。慌てて振り向く。アゴを手のひらで押さえている。心配で、手に触れた。
 痛がっている。片方だけ目を開けてわたしをみた。
「で、明日は?」
 ちいさくため息をついた。
「大丈夫です……」
 人見さんはアゴを押さえたまま笑った。
「普通の工事の倍くらい人に来てもらうんだよね。そんなところで下着無しはつらいだろうし、明日は、前の家で待機しておいて。終わったら道具を持って僕が行くから」
 その後で、今後について説明をうけた。
 山崎さんが来た日にギターを弾いた部屋をリフォームするらしい。三日ほどで完了するので、それに合わせて家具が来るよう、今日中に選びに行こうと言われた。
 今ある家具で良いと言ったら「あの家の家賃は負担するから、しばらくそのままの状態で置いて欲しい」と言われた。
 アトリエ代わりに使えるよう取っておきたいという。次の絵は、そこで描くと言っていた。
 家具を選びにでかけた。ドレッサーはいるかと訊かれたが断った。ベッドと、ライティングビューローだけ買ってもらった。
 後は調理器具や食器をそろえた。
 夜は、新しいオーブンでグラタンを作った。夕食後、改まって話をされた。
「律のおとうさん、おかあさんなんだけどね」
 首をかしげる。
「できるだけ早く、ご挨拶にとは思ってるんだけど……」
 とくに何も考えていなかった。
「とにかく、どうしても、もう一枚絵を描きたいんだ。それができたら仕事を始める……ちゃんと考えてるから、そんなに先の話でもないし、黙っておいてもらえるかな」
 ひと月後くらいだろうか。
 もともとほとんど連絡をしない。母は「知らせがないのが良い便り」くらいに思っている。
 たとえ数ヶ月後でもそうかわらない気がした。母だって、わたしになんの相談もなく『佐々原さん』と結婚したのだから、お互い様だ。
 翌日、少し早めに起こされた。バイトを辞めてからは、遅くなりがちだったので眠い。朝食をとりながら工事の話をきいた。
「マンションの管理組合に、朝の八時から夕方五時までって届けてあるから、それを超えることはないよ」
 頷いた。
「ギターを持って帰っていいですか?」
「どうぞ、持って行ってください」と、笑う。
「二、三日うちに、僕のイーゼルをそっちに移すから、いるものは全部こっちに運ぶようにしてよ。鍵も全部渡してもらう」
 頷いた。それほど荷物はない。業者が来る前に家を出た。
 下着をとって、長めのワンピースに着替えていた。夕方になってシャワーを浴びておく。
 少し早めに人見さんが来た。ワンピースをかぶった直後だったから驚いた。
「結構すすんで、材料が一部足りなくなったって。今日は終了」
 スケッチブックや鉛筆の入った箱を手に持っている。
「髪を、乾かすので少し待っててくださいね」
「髪、そのままだと、風邪ひくかな?」
 少し考えて「大丈夫だと思います」と言った。
「前に持っていったシーツあるよね?」
 すっかり返すのを忘れていた。
「それ使うから出してきて」
 わたしのベッドから掛け布団をどけた。白いシーツを広げる。
「椅子、借りるよ」
 座って、スケッチブックの白いページを開いた。低めのテーブルの上に鉛筆の箱を置いて、蓋をあけた。
「もう、始めるんですか?」
「ああ」と返ってきた。
 いますぐ脱がないといけないのだろうか。人見さんが鉛筆の箱から一本選んで手に持った。
「あの……しばらく、後ろをむいてもらえますか?」
「いいけど……意味ある?」
 そう言いながら、人見さんはわたしに背中を向けた。
 かぶるだけのワンピースなので、すぐにすんだ。脱いだ服で前を隠した。
「もう、大丈夫です」
 こちらを向いて手のひらをみせ、腕を伸ばしてきた。みつめていると、黙って頷いた。
 わたしは、ワンピースを渡した。腕で、できるだけ体を隠した。
「ベッドにあがって、横をむいて、体育座りをして。顔は向こうにむけて……膝を抱えてる手は、足首まで下げて」
 みえてしまうと思いながら、腕をおろした。
 絵を描いているときの人見さんは無口だ。
 窓を閉めていても、通りを過ぎるバイクの音や、子供の笑い声が聞こえる。階が低いから、他の人を近くに感じる。
「律、正面を向いて」
 呼ばれて顔をあげる。呼吸を整えた。腕で胸元を隠しながら体を動かす。人見さんの膝がみえる。
「腕を、おろして」
 つばを飲み込んで、目を閉じた。ゆっくり腕をおろした。
「顔は、窓の方へむけて、足はそのまま横に流しといてくれたら良いよ」
 ゆっくりと呼吸をしようと意識しているのに、なかなか思うようにはならなかった。肩まで揺れているのがわかる。
 人見さんは、何も言わない。
 鉛筆の音が聞こえてきた。
 休憩を挟みながら、何枚も描いていた。
 みられることにも、少しずつ慣れてきた。
 ある時は「あばら骨が描きたい」と仰向けに寝て体を反るよう言われた。
「背中のラインが描きたい」と、伸びをする猫くらい腰を高く上げるように言われた。人見さんからは、みえない角度だったけれど、はやく終わってくれないかと、考え続けた。
 終わった後、ワンピースを頭からかぶせてくれた。すぐに腕を通して、裾を引き下げた。
「今日は、ゆっくり寝られるように、こっちにいておく?」
 頭を横に振った。
「帰ります」
「帰ろう」と言って、わたしの肩に手をおいた。
 リフォーム二日目は、出かけることになった。
「とられて困る物は、全部貸金庫にあずけてある」
 金庫を借りられるとは、知らなかった。
「今度、律を代理人登録に行くから、つきあって」と言われた。
 各部屋に鍵もついているので、心配はいらないと言う。
「さっさとイチゴ狩りをしないと、小中学生が春休みになることに気づいてさ」
 急だけど、嬉しかった。イチゴ農園までの道のりで、少しだけ人見さんの車を運転した。
「だいぶ、練習が必要だ」と、だめ出しをされてしまった。
 イチゴ狩りは楽しかった。
 人見さんが「練乳は苦手」と言う。「練乳の嫌いな人には初めて会いました」と言うと「やった、ポイント加算」と喜んだ。
 三日目は「男手があるうちに、イーゼルを移したい」とアトリエを引っ越しさせることになった。朝一で交渉して、何人か確保したらしい。お昼休みに働かせていた。「袖の下はものをいう」とわけのわからないことを言う。
 寝室でじっとしておくよう言われて、一人で歌詞を書いていた。『背中』『手を伸ばす』『遠い』ノートに書き連ねてある。片思いだったと過去形にしてもよいのだろうか。次は明るい歌をつくれそうな気がした。
 日程通りリフォームは終わった。
「明日、家具を入れたら、お披露目するよ」と、片方の眉をあげた。
 あの部屋は使っていなかった。どうしてリフォームしていたのかしらないが、結構大がかりだった。
 ロフトができたんじゃないかと勝手に想像を膨らませた。
 次の日、午前中は外に出ておくように言われた。
 元のわたしの住まいは「絵が置いてあるから、律は立ち入り禁止」と、決められていた。
 美佐子に連絡を取るか迷った。秘密にしていることがあるので、やめた。午前中なので、カラオケボックスも開いていない。仕方ないので散歩をすることにした。
 桜のつぼみが色づいている。風が頬を撫でる。日差しが優しく降り注ぐ。歩きなれたはずの道が、輝いてみえた。鳥のさえずりがメロディにかわっていく。そっと口ずさんだ。
 二時間ほど外にいた。連絡がはいり家に戻る。
 並んで、部屋のドアの前に立つ。ドアをあけた。
「どうぞ。律の部屋だよ」
 ベランダから光が差し込んで、明るかった。
 窓から少し手前に、家具屋で選んだベッドが置いてある。中に入った。
 人見さんが、ドアを閉めた。
 前に入ったときとそれほど印象が変わっていなかった。どうリフォームされたのかが、わからなかった。訊こうと、顔を横にむけたその時、わたしの視界に黒く四角い箱のようなものが入った。
 わたしは、動きをとめた。どうみてもアンプだった。その横に、エレキギターが置いてある。
 黄色く光沢のあるボディ、ヘッドの文字を確認した。
 ギブソン社の名が刻まれている。『レスポール』だった。
 吸い寄せられるように、近づいていく。
「すぐ弾けるように、セッティングしてもらったよ」
 振り向かずに頷いた。エフェクターまであった。
「さ、触っていいですか……」
 憧れていたギターだった。楽器屋の壁に掛けられているのを、見上げたことはある。とても手の届くものではなかった。 
「律のギターだよ」
 両手で口元を押さえた。振り向いて人見さんをみた。
 笑顔で頷いた。
 レスポールに手を伸ばした。ネックを握る。持ち上げた。アンプにつないである。アコギとは全然違う感覚だった。
「この部屋は完全防音だから、夜中でも好きなときに弾いたらいい」
 わたしはストラップに手をかけた。長さを調節する。
 ギターを持って、椅子に座る。
「律の好きなひろしって人と同じギターにしようと思ったんだけど、よくわからなくて、何軒か楽器屋を回ったら、その人に詳しい男の子がいてさ。全部、その子に選んでもらった」
 ピックを渡される。
「それは、レジ横に置いてあったやつ。適当だから、自分で好きなのを買いに行って」
 ピックに拘りはなかった。
 深呼吸した。
 開放弦のまま、右手に持ったピックを振り下ろした。
 アンプから音が出た。音の大きさに驚く。だけど、残響がきれいだった。
 コードをおさえた。ならす。きれいな音がでなかった。
 左手の加減をかえていく。ようやく響く。
「すぐに弾きこなすかと思っていた」
 人見さんの言葉に、顔をあげる。
「弦のかたさが違うんですよ」
「そうなんだ」
「奏法も、全然違いますし」
 わたしは、弦にピックをあてた。ボディからネックに向かってピックをすりあげていく。歪んだ独特の音がなった。
「かっこいいなあ」
 試してみたかったことを、思いつくままにしていく。イメージ通りの音はでなかった。
 山崎さんが来たときに練習をした『8823』をはじめの方だけ弾いてみた。やっぱりこの曲はエレキギターの方がいい。
 いろいろな曲の、一部分を弾いていく。楽譜を取りにいくのももったいなくて、耳に残るイメージや、動画でみた指を思い出して弾いていく。『164』の曲も弾いた。同じレスポールなのに、かっこよくは弾けなかった。ビブラートを効かせながらメロディラインをなぞっていく。
 高音でハーモニクスを出した。わたしは目をとじ、音の余韻にひたった。 
 顔をあげた。人見さんの頬を涙が伝っている。ギターから手を離した。
「いや、エレキギターって、泣いているみたいだと思ったら……」
 口元を押さえて顔をそむけた。
「おかしいな。涙が止まらないや」
 頭を強く振った。
「ちょっとごめん、席を外すよ。律は、きっと上手になる」
 そういって、部屋から出て行った。
 ひとまず、ギターを置いた。ケースにはしまわず、スタンドに立てかけた。
 気になったけれど、戻ってくるのを待つことにした。 わたしは、レスポールを眺めていた。どうしてこんなに綺麗なんだろうと思った。
 アコギにはアコギの良さがある。だけど、エレキギターの音は、わたしを全く違うものにかえてくれる気がした。性別やみた目やそういったわたしの存在を決めつけるものすべてから解き放ってくれるような、拡がりを感じた。
 自分の手でならした音を思い浮かべてまた余韻にひたる。
 人見さんに『ナルシスト』と言われたことがあった。確かにそうかもしれないと思った。
 ノックの音が聞こえ、立ち上がって、ドアをあける。
「みっともないところをみせてしまって」と、言う。わたしは頭を横に振った。
 お礼を言っていないことに気づく。
「あの、夢中になってて……ありがとうございます」
「喜んでくれてるのは、みれば、十分にわかったよ」
 少し早めの夕食へでかけた。
 食べながら、夜にも思い切りギターが弾けると思い、嬉しくなった。
 家に戻った。人見さんがシャワーを浴びている間、居間にいた。ソファーに座って、ネットでエレキギターのレッスン動画をみていた。本屋に行って教本を買いたい。
 人見さんが出てきた。
 お風呂上がりをみるのは、初めてかもしれない。長袖のTシャツの袖をまくっている。スウェットを穿いている。改めて、かっこいいなと思う。つい、笑いかけてしまう。
 タオルで髪を拭きながら、笑い返してくれた。
「お先でした。どうぞ」
 言われて、頷く。
 シャワーを浴びたら、部屋に戻ってもいいだろうか。レスポールに触りたくてうずうずしていた。
 ドライヤーで髪を乾かす時間もおしくて、タオルを巻いて出た。
 人見さんが「ここにおいで」と、ソファーを手のひらでたたいた。
 隣に座る。タオルからはみ出した髪の先からしずくが落ちた。
「あのさ」
 横を向いて、みる。目があった。
「律の、初めての男になりたいんだけど……」
 胸が締め付けられる。
 わたしは、顔をみたまま、頷いた。
 二人で、わたしの部屋に入った。ベッドにならんで腰掛けた。人見さんは、部屋の明かりを消した。
 心臓の音だけでなく、血液が巡る音まで聞こえてしまいそうだ。
 人見さんが肩に触れた。体をゆっくりと引き寄せられる。石鹸の香りがする。目を、閉じた。
「僕の鼓動をきいて」
 人見さんの鼓動も速かった。体が熱い。
 あごに手が触れる。唇が重なる。
 目を開けても、暗闇だった。座っているのかわからなくなる。体が、どこかへ沈んでいく気がした。
 呼吸がきこえていた。
 ベッドに寝かされた。優しく髪を撫でてくれた。
 指が、襟元に触れた。
 みられることと、触れられることは、まったく違った。人見さんが、輪郭を何度も何度もなぞる。
 おしころしていた声が、ついに漏れてしまった。
「ここなら他の誰にも聞かれない。僕にだけ、律の声を聞かせてよ」
 耳にかかった言葉に、深いため息がこたえる。
 もう、自分ではどうすることもできなくなった。人見さんの指に翻弄されていく。何度でも声をあげた。
 わたしは、まるでギターだと思った。
 どれだけの時間が過ぎたか、何もわからなかった。痛みがゆるゆると遠ざかり、かわりに、味わったことのない感覚が全身を満たしていた。
 人見さんの荒い息が遠くに聞こえていた。わたしの啜り泣きが重なる。どこにいるのかもわからない。自分の形がどうだったのかも、わからなかった。
 わたしは、どこかへ落ちていくようで必死にしがみついた。
「今……死ねたらいいのに……」
 人見さんがそう言った気がした。
 真っ白な光に包まれて、そのまま意識を失った。
 ゆっくりと目をあける。
 暗闇に、小さな赤い光があった。ほんの少し大きくなって、またもとのようになった。
 消えそうな光は、すうっと、横に流れた。
「ホタル……?」
 呟いた。
「起きたの?」
 人見さんの声がきこえた。
「ごめん、一本だけだから……」
 タバコの匂いが漂ってきたけれど、嫌ではなかった。
 また、すぐに眠りに落ちていった。

 今日の配信は音声のみにした。
 静止画を表示させる。人見さんにお願いして、ギターのデッサンを使わせて貰った。写真を撮ってPCに取り込んであった。すでに人が来ている。
『久しぶり』の文字が増えていく。IDを読み上げながら、一通り挨拶を返した。
『ギターの絵キレイ自分でかいたの?』
「まさか。無理無理」
 わたしはレスポールをかまえた。一弦だけピックではじいた。コメント欄に『?』が飛び交う。
『エレキ買ったん?』
 誰も、まさかレスポールだとは思っていないだろう。弦を二回、掻き鳴らした。
「マイクの調節がわからないので、音割れしてたら言ってね」
『大丈夫』と返ってくる。
「下手だけど、練習だからゆるして」
 色々な奏法を試していく。残り五分になった。
「今日は、どうしても歌いたい曲があって」
 わたしはレスポールを置いて、アコギを持った。
「『掌中の珠』っていうんだけど」
『うわ! いきなし隠れ名曲ぶっこんでくる』
 初めて聴いたときから、大切な人のためにいつか歌いたいと、思っていた。

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