12年前のこの日〜東日本大震災〜

先日、気象庁時代に住んでいた宿舎の近くの自治会の、防災研修スタッフをやらせていただきました。
ワークは盛り上がりましたが、マンションとはまた違った住民同士のつながりが必要だと感じました。

帰りはぷらぷらと、夜勤明けの時によく歩いた大通りを、懐かしく本牧の宿舎まで歩きました。
そして、東日本大震災の時の帰台の道程をたどってみました。

表通りは、以前私が住んでいた頃よりも新しく丈夫そうな建物が増えましたが、斜面に面したり斜面の上にある古い建物は相変わらず多く、奥まった通りも古い家屋が密集していて、火災に弱い印象は残りました。
相変わらず、大型のマンションが立ち並ぶ地域と、古い町並みの地域が比較的はっきりわかれています。
被災時は、後からできた集合住宅の住民との関わりも今後の課題のように思われました。

地震がおこったのは、一仕事して帰る夜勤明けのバスの中でした。
ああ来たかあ、と結構冷静に受けとめていたのを覚えています。
バスの運転手さんが素晴らしくて、走っている最中に揺れを感じて「地震なので停車します。避難時のためにドアを開けますが、揺れが収まるまでは席を立たないで下さい」とアナウンスをして公園の横にバスを停めました。
直後に大きな揺れが始まり、公園の親子連れや歩道の人々は、「きゃーっ!」と悲鳴をあげてうずくまり、街灯が右に左に直角にしなりました。
バスの運転手さんのおかげで、乗客はみんな冷静でした。ほんとに素晴らしい運転手さんでした!感謝です!やっぱり防災訓練をしているのかなあと聞いてみたかったですが、揺れがおさまったら、私のやるべきことはとにかく気象台に戻ることなので、お礼を言ってバスを降り、部屋には戻らず、そのまま車で気象台に向かいました。
宿舎では、在宅中の奥様方の何人かが慌てて階下に降りてきてしまっていました。すぐ脇が海なんだから降りてきちゃダメだよお!と心で泣きながら、「津波危険ですから上がったほうがいいですよ〜」と声かけして駐車場に向かいました。

本来発災時は自家用車を使ってはいけませんが、私は、すぐ近くから入る緊急時に使う細い一方通行の山道をあらかじめきめておいたので、そこを走らせたのでした。

当然すぐに停電し、黒い煙があがった建物もありました。通じない携帯を使っている人も沢山いました。(こういう時こそ災害伝言板や災害伝言ダイヤルの出番なのです‼︎)
信号機が止まるとすぐに、警察署から警察官の方々が飛び出してきて、手信号で交通整理を始めました。これもやっぱり日頃から意識しているんだろうなと思わざるを得ない素早い対応でした。感謝感謝です!

鉄道も止まり、当日の夜勤者、翌日の勤務者は出勤できないので、そのまま2−3日対応に追われました。

なぜか総務が非常食として出してきたのが塩味のビスケットで、予報官が若い子にお金を渡してコンビニにおにぎりを買いに走らせました。殆ど売り切れの中、 いくつか頑張って買ってきてくれました。やっぱり防災食の基本は、お米や乾パンです!
退職してからいくつか食べ比べをしてみましたが、甘味も塩味も味の濃すぎるものが多いです。試食して食べやすいものを揃えることをおすすめします。今度、防災食食べ比べのイベントもやりたいなと思っています。

勤務中は、意外と疲れは感じませんでした。勤務中に見る、津波の映像が衝撃すぎたからかもしれませんが、無意味な電話や取材、横浜港の津波を見に行くという大バカものの存在も一因かもしれません。
地震が起きても警報は休んではいけません。予報注警報作業、防災機関とのやりとりなどは継続しながらの地震対応でした。

あの時車で最初に入ったワシン坂のふもとの湧き水は健在でした。さきほどの地域防災研修の時に、住民の方同士の話にも出ていた湧水のひとつです。今後も地形や水脈などが変わらなければ、被災時の生活用水に十分使えそうです。湧水や井戸水など、こういった情報を住民同士で把握したり、被災時の管理について決めておくことも必要です。

この急坂をえっちらおっちら登っていくと、眺めが良くなります。この道を、夜勤明けにぷらぷら歩いて帰るのが好きでした。帰りは急な下りなので。この日は雨模様でしたが、ベイブリッジを渡る自動車のライトが数珠のように滲んで流れていました。
気象台までは時々訪れるのですが、本牧や山手までは足をのばさないので、すごく懐かしい道のりでした。
これからは、ちょいちょい歩いてみようかな。

この東日本大震災が、私の最後のお仕事でした。この後約2週間後に、気象庁を退職することになっていたので、引き継ぎ作ったり、残務整理したりの最中の、大きな災害でした。
気象庁を離れて見えることも沢山ありました。国の機関だからこそできることも沢山ありました。
寒い雪の中、白く闇夜に浮き上がっていた一本松の姿も目に焼き付いています。
少しでも無くならなくてよい命が増えるよう、官民いろいろある中で、その間を埋めていける防災士でありたいと思ったのでした。
生きなくちゃいけないな、とも思うのでした。

東日本大震災で亡くなった方々のご冥福と、そして、深く傷ついた方々のお心が少しでも癒えるよう、心よりお祈り申し上げます。

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