「できない理由」を並べる人の話を聞く必要はない、という話。
かつてある会社でターンアラウンド(=事業再生)担当の取締役をしていたときのこと。
私は営業責任者に状況のヒアリングを申し入れたことがあった。
オペレーションや原材料の見直しなど、コスト面での改善が進んでいたにも関わらず売上が予定通りに積み上がらなかったからだ。
「部長、営業計画だけが予定通りに進んでいないようです。新規獲得が進まない原因を、どのように分析されているのか聞かせて下さい。」
「そんな事を言っても、お客さんにも都合があるんだ。こちらの都合通りに数字が取れるわけないだろう。」
「なるほど、わかりました。では具体的な話をさせて下さい。A社さんの売上は先々月に上がる予定でしたが、当月でも未だに営業中になっています。A社さんにはどのような都合があったのですか?」
「A社の委託業者は、半年に1回しか見直しが無い。次の見直しは年明けになる。つまり、計画自体が元々達成できるようなものじゃなかったんだよ。」
「しかし、この計画は部長が立てて、役員会に出したものでは・・・」
「数字を出さないと株主が納得しないということで、虚偽にはならない根拠のある数字を出したまでだ。A社なら、説明を求められても状況を話すことができる。こうせんと株主を怒らせてあんたが困るんやろ!」
その後も営業部長は、商品力を問題にされて交渉が停滞している、営業には時間がかかるから慌てては逆効果だ、というような答えになっていないことを繰り返し、全ての営業先で話が進まない理由を“理路整然と”説明してみせた。
そして最後まで、いつまでにどれくらいの数字を積み上げることができるのかを、1件たりとも明らかにしなかった。
この部長は、大手商社から高給で引き抜いたという「すごい経歴」の持ち主だったが、結局、次の役員会で営業部長の進退が提言され、数ヶ月の猶予の後に、営業部長は自ら辞表を出して会社を辞めた。
「顧客への顔つなぎ役」として転職してきたこの部長は、自分の顔が全く通用しなかった現実を受け入れられなかっただけでなく、リカバリーの方法も全く持ち合わせていなかった。
そし最優先すべき目標を達成することに関心がなく、出来ない理由を自分以外の何かに求め続けた。
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だが私も、上の営業部長と実は大差がなかった。
なぜなら、当時、誰の意見にも耳を貸さず、トップダウンで仕事を進める経営トップの姿勢を、一種「幼稚である」と断じ、「結果が出ないのはそんな社長のせいだ」としていたからだ。
幹部や社員からの
「社長はいつも自分だけ飲み歩いている」
「社長ばかりいい車に乗って給料をとって、現場にも立たず楽をしている」
と、愚痴を聞かされる事も少なくなかったが、それを真に受けてしまっていた。
だが今になって思えば、実は経営トップが「社員の話を聞かない」のは「本当の意味で、相手の立場になって物事を理解」していたからだったと思う。
なぜなら、当時の多くの社員のように、「できない理由」を理路整然と話す人に「自律的に動くこと」を求めても、対して成果は上がらないからだ。
それどころか、下手をしたら心の病気になってしまう。
仮に経営トップが飲み歩いているだけのデタラメ経営者であったとしも、そんな事に仕事のあり方や考え方が影響を受けている社員には、まともな仕事を任せることなどとても出来ない。
結局のところ、経営トップは「本当の意味で、相手の立場になって物事を理解」した上で、部下や社員にとって、ベターな仕事の進め方を指示していたのだ。
つまり「「できない理由」並べる人の話を聞く必要はない」は、実は正解なのである。
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D・カーネギーの「人を動かす」という著作。
一度は手に取ったことがある人も多いのではないだろうか。
自己啓発本の元祖とも言われ、原著「友を作り人を動かす法(How to Win Friends and Influence People)」が出版されたのは実に1936年。
初版から80年以上も多くの人に影響を与え続けており、このまま100年を越えて読みつがれる1冊になりそうだ。
そこには「盗人にも五分の理を認める」という、第1章の最初の一節がある。
ざっと要約すると、人は誰しも自分が間違ったことをしているとは全く思っていない。
それは盗人や、殺人を犯した死刑囚ですら同様であり、「なんで自分が罰せられるんだ」と、貧困を生み出す社会の仕組みを恨み、あるいは身を守ろうとしただけだと自らの正当性を主張しながら、刑を受ける者が大半である。
まして、まじめに仕事に取り組んでいる部下や取引先の失敗を非難して、相手方はそれを素直に聞くことができるだろうか。反発を招くだけなら、叱責や非難は生産的な行為と言えるだろうか-。
というものだ。
そして人を動かすための最初の教訓として、他人に対し「批判も非難もしない。苦情も言わない。」[1]とまとめている。
この本に出会った当時、私はこれを、
「相手の立場になって物事を理解する」という意味だと解釈した。
そして、それはあながち間違いではなかったようで、この心掛け一つで色々とコミュニケーションが上手く進み始めた。
しかし、それから時間が立ち、この解釈はもうすこし大きな意味を持つことがわかった。
「盗人にも五分の理を認める」とは、「相手の立場になって物事を理解する」
というだけの単純な意味ではない。
「相手の立場になって物事を理解」することは、想像すれば誰だってできる。
大事なことは、五分の理を認めた上で、それを無視することが優しさなのか、組織の意思として採用するのかを決定することこそが、上に立つものの大事な仕事だということだ。
カーネギーの一節
「批判も非難もしない。苦情も言わない。」は、実は
「批判も非難もしない。苦情も言わない。だが彼を無視しても良い。」としても良いのだ。
言い換えれば、「盗人にも五分の理を認める」はスタートであって、決して目的ではない。
そして、この一節を手段ではなく目的として理解し、
「もっと部下や社員の言い分に耳を傾けるべきだ」
と短絡的に理解し、それを実践するだけで何かをした気になっているようであれば、救いようがない。
あの経営トップこそ、本当のリーダーだった。
参照
[1]D・カーネギー「人を動かす」32P
引用元:「識学総研」「できない理由」並べる人の話を聞く必要はない、という話。