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ダブルスペース・ファミリー。

黙って各々がスマホやタブレットをいじる。
家族が家の中で同じ空間にいても、決して同じものを見てはいない。
最低限の必要な会話はするけれど、後はたいてい画面を見ている。
自分だけの画面を。
音声だって、イヤホンで自分だけで独占できる。

家にいながら、そして家族が傍にいても、目に入るものと耳へ流れる音を限定し自分だけの世界へ潜り込む。
道具さえあれば、それはいとも簡単なことになった。

こんな光景、決して珍しいものではないのだろう。


今はそんな時代だと聞かされた時、そんな家族なら寂しくて要らない、と思った。


家族だからと何でも共有するのは無理がある。それくらいわかっている。

わたしだって、幼い時から親には知られたくない秘密裏の世界を持っていた。

でも、今はそれ以上に、秘密にする必要もないのに自動的に『 個 』になれる道具をある程度の年齢から持ち始めるのだ。



わたしは、スマホもネットもない時代に生まれ育った。

自分の部屋でこそこそと、何かを見たり書いたり隠したり。
そんなことは当然あった。
それ自体は健全だ。
自分、というものを育てるうえで、何にも邪魔されず興味を満たすことは、ある程度必要だから。


しかし、テレビはリビングに相当する場所に備え置かれ、何か番組を見たければそこで見るしかなかった。
厳密に言えば、アンテナを立て電波を受信して使う小型テレビもあった。
わたしが我が物顔でテレビを独占しアニメを見ている間、父親はそのテレビでプロ野球のナイターを見ていた。

わたしがテレビを見なければ、父親はよくスポーツ番組をつけていた。
母親はワイドショーのチャンネルを流して家事をしながら適当に見るのが日常だった。

わたしは、自分の部屋ですることがなければ、リビングで何となくそれらを見たり、こたつに入って本を読みながらそれらの音を聞いてたまに画面に目やった。

そうすることで、自分が自発的に興味を持たない世界にも必然的に触れることができた。

世の中に出回っている出来事、言葉、音楽、人物、
そして大人の世界。

何ともなくでも社会を構成するものを覚えていったし、親の好きなものも何となく知っていた。

番組を見て感想を誰かがつぶやく感想から、家族の会話が生まれたりした。何を話したかまで覚えていなくても、それなりには話をした家族だったように思う。

わたしが見ていたアニメは、たまに母親から批判された。
昔ふうに言えば『破廉恥』に相当する場面になると、こんなもの見る必要はないと咎められた。それで価値観を学んでいた部分もある。



今は、そんな時代ではない。

家族の共有スペースにいながら、意識は主に手の中にある自分だけの空間で過ごす。

子供だけに限らない。
気がつけば、母親も、父親も。

自動的に共有できていたものが、どんどん個別化する。

お互いのものに興味がなければそれまでで、それ以上の会話も生まれない。


やがては、家族の共有スペースなどいらない時代になりやしないのだろうか。

未就学児から小学校低学年くらいの子供に合わせたディズニー映画なんかを、リビングにある大画面を囲み笑顔で見ている家族の肖像なら、まだどうにか想像できる。

しかし、成長につれてそんな時間は消滅をたどるのが通例。

何を今見てるのか、とスマホをいじる子供に声をかけるなど、親の方がわざわざ努力しなければならないのかもしれない。


まだ分別もつかない子供が、自由自在に制限なく、ネットの世界を飛び回る。

社会を構成するものを覚えてゆけることには変わらないけれど、あまりにも個人の趣味に偏りすぎやしないのだろうか。

思春期なんて、放っておいても子供がどんどん隠し事をしたがる時期だ。
家族におけるそんなアングラを、早くから簡単に加速する道具が出回ったようにしか見えてこないのだ。


わたしは古い時代に生まれしHSPなので、こういう些細かもしれないけれど人の心の根っこに関わるような事に出くわすと、気になってしまい仕方がない。

そして、自分が家族を持てば、こういう懸念を払拭するためにあれやこれやと策をめぐらし、また疲れることになる。


しかし、幼い頃から母親に育児の道具の一つとしてスマホの画面を当たり前のように示され育てられた子供達は、きっと大人になっても特に疑問を持つことはないのだろう。
家族のダブルスペース、なんて表現、意味がわからないかもしれない。

それでいいのか?、とは思うけど、

いい、悪いではない。

そういう時代なのだ。



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