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『推し』って言葉の意味がわからず。

もちろん、何となくはわかる。
ものすごく、ものすごくざっくり言えば、『好きなもの』。



noteさんは、
凄いというか恐ろしいというか。

一度どなたかの『推し』に関する記事を読めば、これでもか!というくらい『推し』に関する記事をさらにすすめてくる。

noteさんの推し記事の押しの強さに驚くが、それ以上に『推し』に関する記事を書く人の多さにちょっと驚いた。

そして、わからなくなった。

『推し』って結局なぁに?と思ってしまうのだ。


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『推し』とは、さきほどのざっくりした言い方よりも少し正確に言えば、心血を注いで愛するような対象に用いる表現だ。


人やモノを薦めること、最も評価したい・応援したい対象として挙げること、または、そうした評価の対象となる人やモノなどを意味する表現。

国文法的には「推し」は動詞「推す」の連用形、あるいは、「推す」の連用形を単独で名詞として用いる表現である。

近年の美少女アイドルグループのファンの中では自分の一番のお気に入り(のメンバー)を指す表現として「推し」と表現する言い方が定着しており、昨今ではドルヲタ界隈の用語の枠を超えてアニメキャラや球団を対象に「同種のものの中ではこれが一番好き」という意味合いで広く用いられるようになりつつある。
(Weblio辞書より)


なぁに?と思って調べれば、言葉の定義はこうしてそれなりにわかる。


二次元キャラやアイドルに限られるものではないと思いつつ、主にこのワードを使って愛が語られる時、その対象が二次元キャラやアイドルが圧倒的に多いのは気のせいではないだろう。


その一方で、日常生活でも使われる。
推しメシ、推しスイーツ、なんて言い方をするのも嘘じゃない。
日常の身の回りに当然のようにある言葉と合体して使われると、たいていの場合「他のものと比べてはっきりと好む」という程度の意味でしかない。
Weblioさんの仰るとおりだ。



『推し』とは、オタクと同義なのか、違うのか。両者は言葉として併存している。Weblioさんを見る限り同義でいいのだろう。

ただ、『推し』と『オタク』の違いは、『推し』の方がもっと広い意味で、そして対人的に使われやすいところだ。

『オタク』という言葉は、対象について詳細まで知り深く愛するという自分の内面を表しているように思える。

かたや『推し』という言葉には、『他の同類のものと比べて好意が強い』という単なる意味も持ちつつ、これが好きなのだという他者や社会への強い『自己主張』を感じられる。


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実をいうと、『オタク』も自分ではよくわからない。

その語源については、その昔、アニメ好きでアニメの聖地秋葉原を歩くような人達がお互いを「お宅は…」と呼び合っていたことから、アニメをマニアックに好む人達を「オタク」と呼ぶようになったと認識している。

まさに、『宅』だ。
あなたは、あなたの家では、あなたの中ではという意味合いに通じる、内面的なものだ。

そして、その『オタク』に属する人物が史上最悪な類いの犯罪を引きおこしたことから、『オタク』というのは「陰湿で気味の悪い理解不能の存在」だと世間的にイメージ付けてしまったらしい。

だから、人から白い眼で見られがちな『オタク』を自称するなんて、一時期はあり得ないことだった。


今は、『オタク』を揶揄する人もいるとはいえ、アニメオタクでもアイドルオタクでも堂々と自称できる世の中になった。

『推し』というワードが浸透する前は、鉄道を愛する人達を『鉄オタ』、鉄道オタクと称するように、アニメやアイドル以外の分野でも愛と深い造詣を表す際によく使われた。

なお、マニアとオタクの違いを「性的対象としている、性的観点を持っている」かどうかで区別するという文章を読んだ。
電車の車体が好きで駅のホームの片隅で写真を撮っているような鉄オタさんが全員鉄道の分野に性的感情を持っているかといえば、非常に疑問である。



もっというと、話が散乱して申し訳ないが、サッカーにおける『サポーター』と『ファン』の違いもよくわからない。
『サポーター』の定義は何なのだろう。

サッカー関係者がよく「ファン・サポーターの皆さん、応援よろしくお願いします」と発信するが、プロ野球なら「ファンの皆さん」で済むのだ。


もともとは海外サッカーでサポーターという言葉が使われていたのを、そのままJリーグ発足時に持ってきたのだろう。
1993年のJリーグ開幕と同時に地元チームの応援にハマった地元の友達。
スタジアムに通いまくっていた彼女達から『サポーター』という言葉を覚えたように記憶している。

応援するチームのユニを来てスタジアムへ行く。あるいは、コロナ禍での可否はともかく一つのお店に集まり知人やそうでない者も一緒になって飲食をしながら画面で応援する、又は自宅でユニ着用で画面の前で応援する。
そういう熱意を持つ者が『サポーター』で、そこまでではなく何となく応援する者が『ファン』なのか。

プロ野球で『サポーター』という表現はないはず。
球場で見ようが、家で風呂上りにビールを飲みながら画面で見ようが、『ファン』だ。
熱意の違いで『大ファン』『熱狂的ファン』か『ファン』かに分けられるが、同じ『ファン』という言葉を使われているせいか、どの程度の応援であれ「ファンはファン」という一体感がある。


ところが。

サッカーだと、ちょっと応援しているくらいだと絶対『サポーター』と名乗れないだろう。
定義はよくわからないけれど、ファンよりサポーターの方が傍から見ていると敷居が高い。
熱意と活動と支援を伴うのがサポーター。
そこまでいかないと、ファン。
一線を画しているというか、サポーターが偉いという意味ではないが一定のレベル感をどうしても感じてしまう。

サッカーの日本代表戦をテレビで見ている程度の自分が、特定チームのサポーターだと自信を持って名乗れる日はおそらく来ないだろう。
自分がリアルなサッカーの応援に入りにくいのは、この辺りが理由だと思う。


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話が少しそれてしまったけど、
本題の『推し』だ。

なぜわたしがそんなに『推し』という言葉にこだわるか、理由は三つある。


一つ目。

言葉の使われ方が広すぎることから生じる困惑、それが苦手だから。

流行り言葉だから、やたらと目にする。
時には、日常会話に唐突に出てくる。

先日、知人の女性から「俳優さんで誰か『推し』っているんですか??」と、はっきり『推し』というワードで問われた。

……推しの俳優???

noteで皆さんのように熱く語りたいような『推し』というのは、特にはいない。

俳優さんで推し、と聞かれているのだから、他の人と比べて、という推し飯推しスイーツ程度の意味だろうというのはわかる。
ドラマやCMでたまたま目にして嬉しいとか、ドラマを見ていたらカッコいいなあと思う、そんな程度でよいならば鈴木亮平さんや長谷川博己さんが好きだ。

けれど。

熱中して追うまでいかずとも「ものすごく好き」だと勘違いされる可能性もおおいにある。
『推し』という言葉に「強烈な愛の主張」という側面があるゆえだ。

だからこそ、言葉の意味を計りかねて困惑してしまうのだ。

質問をしてきた彼女の軽い感じは理解できるものの、彼女がわたしのことを「この俳優さんが好きな人」だというパーソナリティでとらえてしまう危険性も否めない。
例示した鈴木亮平さんや長谷川博己さんには大変申し訳ないけれど、そう思われるのは誤解と言わざるをえない。

仕方なく「ただ何となく好きだという定義でなら」と、自分でおことわりしたうえで答えた。
質問した彼女からすれば、わたしは面倒な人間だろう。



そして、二つ目。

自分が多少長く生きているから、色々な表現と色々な愛し方を知っているがゆえ、『推し』という言葉を結局はっきり定義づけられないこと。

はっきりしないことへの、自分の中での気持ち悪さなのだ。

ファンとは違うのか、オタクとは違うのか、と自分の中でいちいち論じてしまう。


ただの好きなご飯も、ファンもオタクも統合してまとめて使える言葉が『推し』なのだ。
一つの言葉で様々の意味が許される。
まさに価値観の多様化の時代にふさわしい言葉だ。


場面によって言葉の意味の空気は読める。
読める反面、使われてない意味もうっすらと亡霊のようにつきまとう。
強烈に好きなのか、ただの「こっちの方が好き」なのか、どの程度の好きを表すのか。
わたしの中で割りきれず、なんとなくもやもやしてくるのだ。



最後に、三つ目。

こんなことを考えているのは、多分わたしだけだろう。

『推し』、の『推』とは、推薦の推。

『推し』とは人やモノを薦めることに当てはめるとWeblioさんもはっきり仰っている。

わたしが初めて『推し』という言葉に接したのは、数年前に「これからも〇〇くんを推していきたい」というネット上でのつぶやきを見た時だった。

その時、それはどういう意味なのかわからなかった。

自分が大好きなものを、これはいいものだと人に対してすすめる、主張してゆくことなのか。


わたしは、人に何かをすすめるのが大の苦手だ。

日常生活で「なにかオススメの家電はありますか?」と問われたら、問題なく充分受け答えはできる。
その程度には常識人だ。


けれど、自分が心底良いと思うものを人がいいと思うとは限らない。
そのことも十二分に知っている。
何故なら、高校生の時に「この曲絶対いいから聞いて!」「このアーティスト絶対いいから聞いて!」と友人から散々すすめられても、わたしにはまったく響かなかった経験があるからだ。


だから、自分が好きなものを人に良いと思ってもらおうという感覚がない。

これが好きだから一緒に応援しようよ!とか、これがすごくイイからみんなにも好きになってもらいたいな、という気持ちが皆無なのだ。


推しとか推すとか推していこうと言われても、言葉として理解はするけれどピンとは来ない。


わたしが何かに対する愛を強烈に語るとしたら、これがいいよ!わたしはこれが好きなの!と世間に訴えるためじゃない。

自分の中で感情が完結していて、その感情を勝手に語ることはしても、布教の意思はゼロだ。


人からの捉えられ方としては『何かを強烈に評価・応援している』状態となってしまうのだろうけれど、私からすれば評価に近いかもしれないが応援ではない。

ただ感情が漏れて抑えられないから言っている、それに近い。

漏れているだけなので、わかってほしいとも思わないし、共感者がゼロでも構わない。
自分が愛して、ただひたすら自分の方法で愛しそれを全うしているだけなのだから。

だから、このわたしの感情に「好きなものを人に主張し推薦する」かのような意味合いの言葉を持ってこられると、どうしても反発したくなる。

世間が一般的に『推し』という表現を使うこと自体は気にならないのだけど、誰かがわたしの語る何かに『推し』という言葉を適用したら、それがものすごく不本意なのだ。



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用語の意味がわからないだけなら、ネットで調べればいくらでも定義は出てくる。

わたしが感じている「言葉の意味が『わからない』」の正体とは、長く生きて来て自分が持っている確立した価値観と、言葉や価値観の変化・多様化により今現在用いられている意味合いがしっくりとこない、その違和感
それに尽きる。


時代に合わせるべきだは思うけれど、この『推し』みたいに、自分の価値観を歪めて世間に合わせなければいけないような時に、このうえなく生きづらさを感じる。


そう、今はすごく生きづらい時代だ。

こんな事一つとっても、生きづらい。

そして、多くのnoterさんより長く生きているHSPだと、こうして時代に生きづらさを感じる世代となるのだ。

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