僕らは誰しも、超能力者になってしまった。
超能力とは何か。
瞬間移動できたり、頭の中で何か念じるだけでそれが実現できたり、相手の心を読んだり何も言わずに相手に自分の念を伝えたり。
思い浮かぶのは、そんなことができる念力のことだろう。
この意味での超能力者なんて、滅多に存在しない。
絶対いないとは思わないけど、僕らがみんなこの手の超能力者のはずがない。
しかし、昭和から生きているからこそ、しみじみとわかる。
令和の今、電波失くしては個人の生活が成り立たない面が増えてきている。
ほんの一昔前のこと。
例えば、紙に書いた手紙は、物理的に相手の元に届いて初めて伝わる。
お店へ買い物に行って、商品を手に取って、現金を支払い持ち帰る。
本を出したければ、紙という物理と本の印刷という手段が必須だった。
写真は、まず専用の暗室で現像しなければ見られない。紙に焼き付けたその画像を、誰かに提示することで初めて見てもらえる。
昭和の時代には、これらの手段しかなかった。
ところが、今では、誰でも手の中のスマホ又は無線で繋がったPCで、少しだけ操作すればいい。
思っていることを文字にして電波に乗せ、相手の元へ簡単にほぼ瞬間的に届けられる。
家にいたまま、買い物をした商品が家にやってくる。もちろんそこには、感謝すべき配達員さんがいらっしゃるわけですが。
書いたことを読んでもらうだけなら、投稿サイトを利用すればいい。
何ならサイトによっては、どんな形にせよ本にしたければ、自費ではあるけれど書籍化も簡単に叶う。
わたしが目にした空とほぼ同じ姿の画像をインスタにあげれば、誰かが見て早ければ数秒でいいねをしてくれる。
後期高齢者のわたしの母すら、スマホでお友達と連絡をとっている。
自分の思っただけで、とまではいかないけれど、思ったこと+道具の操作で、何かを叶えたい念は電波に化けて飛んで行く。
それにより、思ったことが実現できたり言葉が誰かに届いたりしているのだ。
これが物心ついた時から当然だったという子達にはピンとこないだろうけれど、昭和をくぐり抜けてきているから、ふと思ってしまった。
文字と道具の操作と、電波という念を使うことが当然になった現代の僕らは、超能力者ばかりじゃないか。
自分で発する念力だって、電波だって、人の目に見えない目という点では全く同じだもの。
そして、この超能力を使わない方が、むしろ窮屈になりつつある時代。
病院の予約は、電話ではなくネットで。
学校からの情報提供は、子供に持たせるペーパーではなくホームページで。
通販での商品相談は、電話でなくチャットで。
イベントの入場は、紙のチケットではなくアプリをスマホに落として電子チケットを使用する。
便利になるのは良い事だ。
昭和の方が絶対に良かったと回顧したいんじゃない。
ただただ、過去の暮らしを振り返りながら、こんな時代に今の自分は立っているのだとあらためて実感したのだ。
***
こんな時代だからこそ、発信するものは『良い言葉』『良い気持ち』でなければならなくなったのかもしれない。
電波という念がうずまく世界に放つべきは、残念な言葉より気持ちの良い言葉。
愚痴にまみれた言葉やネガティブな気持ちばかり発信するのは楽しくないし、自分の受信器では目にしたくない。
電波越しの誰かの反応で、電波による自分の念と、時には自分自身の存在すら実感できる世界。
モヤツキに対していいねをもらえなければ、言う価値も無くなる、あるいは余計にモヤモヤが溜まるだけだろう。
みんなが何となく言霊のような信仰を無意識に持ち、良い言葉・良い心の状態の発信には人と良い気が集まる。
それは、さらなる良い運気を巻き起こす。
スピリチュアル的なことを言っているかもしれないけれど、実際これは充分起こりうる現象だと何となくみんなが気が付いているような、そんな風の時代の令和。
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こんな時代になったからこそ、最近切に感じることがある。
わたしのいる組織は、この超能力を使うことがほとんど許されていない。
連絡は、組織に備え付けの固定電話で。
やりとりは、基本的には紙で。
有線とハンコの文化から脱却しきれない。
在宅ワークなんて現場業務を除けばいくらでも可能なはずなのに、実現は夢のまた夢のまた夢くらい程遠い。
圧倒的な古さ。
それもあって、そんな組織とはもう縁を切ろうという気持ちになっている。
仕事は、日常の大半の時間を支配する。
そんな時間を、古めかしい風習にまみれて過ごし続けてよいのだろうか。
温故知新なんて素敵なものではなく、ただただ無駄で、古い。
そして、無駄な業務なうえに多忙で、毎日疲れる。疲れすぎて、したいことをするどころか、日常生活でするべきこともできていない。例えば、まともな時間にお風呂に入るとか布団で寝るとか。
この先、こんな暮らしを続けてよいのだろうか。
よいはずなんか、ない。
自問自答を繰り返すほど、明るい未来は見えてこない。
現代を生きる人間でありたいから、
現代を楽しめる人間でいたいから、
それもあって、わたしは今後の収入の勘定を何もしないまま、組織を離れたいと強く願っている。
ため息をつきながら働けば、お金はもらえる。
お金は正義とわかってはいても、
それでも貫きたい自分が芽生えてしまってるのだ。
仕事をやめるのすったもんだのきっかけもあったけれど、それ以前から、この組織にいる自分の未来はとっくに見えなくなってしまっていた。
すったもんだについては、
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現代風の超能力を良さを日常の中で存分に楽しめるような、
そんな暮らしが わたしは欲しい。
1億総情報発信社会、と言われる時代。
その時代を楽しく歩くために、
今の職という大きな断捨離がわたしには必須だ。
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