私の半分はあなたでできている

どこからどこまで私だろうか。
飲んだ水は私になり、読んだ言葉も私になった。私が書いた文章もきっと誰かになっている。究極、この体を脱いだら私は世界なのだから、別に。

私の全部が私であるというのはあまりに傲慢な主張かもしれない。

それでも私はもう少し、私で私を充したい。


転職活動と人との付き合い方について最近感じることを徒然に書こうと思います。


志望動機の筆が重い

よし久々に転職活動をしようと思い、ここなら私がやりたいことができるはずだと或る会社に応募したところさらっと落ちてほんのすこし衝撃を受け、いやいやよくあること。心を入れ替えてマイナビにしっかり経歴を登録して、気持ちを軌道修正しながら求人に応募したり。

マイナビの足切りには幸いかからなかったのに、送付依頼された書類を送れなかった。履歴、職歴の羅列はざっと書ける。自己PRもその求人に合わせて書く。しかし「志望動機」。これが私は新卒時代からずっと苦手だった。

相手に合わせて、見せる私を変えるということだと思っている。その際、私が存在すれば角度をちょっと変えればいいだけなのだが、私がいない場合は、もう無理矢理に人間に仕立て上げるようなことをしなければならない。

私は存在しているようでしていないのかもしれないな、と思うことがある。


新卒。一応リーマンショックの前年で売り手市場だったのに、一次面接でパスできても二次面接で落とされることが多かった。その後、仕事は3回くらい変わっている中で、まともな転職活動は過去に1回、26歳の時。その時も相当落ちた。これは想像していた以上に落ちた。

受ける会社や求人に合わせて、会社情報を調べ自分の強みと希望を合わせて志望理由を滔々と述べ、相手の感触も悪くない様子であるのに不採用。

「いい人っぽいし能力あるっぽいけど、嘘っぽい。結局何やりたいのか、どんな人なのか、よくわからない。」面接官にはおそらくこう思われている。

実際転職活動でなぜか受けていた大手食品メーカーの人事の方が、私の中に何かを見たのだろう、結果は不採用だったのに2時間くらい何かを熱く語って教えてくれた。たしか私が不採用理由を聞いたからだったと思う。


学生時代、私は中高および大学受験は正直勝ち組だったと言っていいと思う。しかしなぜ私が勉強ができたのか、受験で合格できたのか。それは私が「正解を当てる」「相手の喜ぶことをする」ことが得意だったから。私が仮に不在でもよかった。挑戦もしなかったが、志望理由書を提出するタイプの受験にはもしかすると落ちたのかもしれない。


応募先に合わせて志望理由の内容や角度を変えるのは誰だってやるし、むしろ推奨されている、いや必須事項だ。2回目の転職活動として、すべての求職者と同様に志望理由を書く。

イベントをものすごくやりたい人。編集をものすごくやりたい人。企画や売り込みをものすごくやりたい人。いろんな顔を書きわけてみる。

社会人10年やってれば何かとやっているのでストーリーは組み上がる。

が、何を書いても嘘みたいだった。

どれも私であるような気が本気でするのに、別の方向性で編集するとそれもたしかに私だった。相手がいて初めて自分が完成する。そんなことがあっていいんだろうか。...まあ、いいんじゃないの。嘘というよりそれは分かりやすさであって。他人に自分を見せるなら分かりやすさは重要だよ。

... とまあ、常識的な自分もいるので一人漫才が出来あがってしまう。


朝井リョウさんの『何者』とか読むといいんでしょうか。今更ですが未読です。仕事・就職などについて、また何か感じることがあれば、続きを書きたいと思っています。



私の半分はあなたでできている

そして人との関係においても私は基本的に一部を欠落させてきた。

今も私は元パートナーと一緒に暮らしている。もともと自然に話をしていたはずだったが、どうしてか、聞くことがしんどくなってしまうことが増えた。ひどいことを言われているわけでもなんでもない。彼女の趣味、発見、日常的なこと、可愛らしく、微笑ましいことばかり。それを聞かない私は結構優しくない。もう少し聴いてもいいんじゃない、という感じ。

人の話を聴いて日常的に友好的に反応するということが、意外と自分の精神を使ってきたことだったんだ、と気づいてきたのかもしれない。

誰かと一緒にいると自分を出しづらい。自分の感覚でいられなくなる。緊張が続いてしまう。という人は少なくないだろうと思う。基本的に私もそうだし、結婚生活(的な生活)が自分に送れるとは思っていなかった。が、振り返ってみると送れていた。かなりの時間を共有できていた。

これは、自分を少し引っ込めることに成功していて、欠落していたわ私が少し戻ってきて、"私"のエリアを拡大している、そういうことなのかもしれない。


私は相手に自分を合わせてしまう。

今まで、女性が好きな時は男寄りの私、男性と付き合った時は女性寄りの私になったり。付き合う人が変わることで、性別まで傾くこともあった。

嫌嫌やっている自覚もないが、付き合っている人間に寄せていくのはやっぱり相手の好意を獲得するためだろう。ある程度当然のことかもしれない。でも、私の場合は無意識に合わせ過ぎないように注意したほうがよかった。


私が私でしかないことはあるのだろうか。そんなことはできるのだろうか、ありえないのではないか。

別にありえないほどのことを目指しているのではないけれど、私はもっと一人になりたい。私を私で充したい。もっと私に戻ってきてほしい。

誰かと一緒にいる時も、相手に染まりに行くのではなく一人と一人として存在したい。

そう思うと、胸の中に隙間風が吹くような、さらに奥が暖かくなるような。それでも、私の半分はずっと私だったのだ。その事実は覚えていたい。


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