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におい


 1978年。8月の終わり、学生運動の残熱が蜃気楼のように揺蕩う東京の場末、その小さな映画館で。若いアベック数組が程度の良い情事に耽る秘密のエルドラード。映写室に座る僕たちのスクリーンは、いつだって客席にあった。


1.田園に死なない青年は走る


 大学に入学してはじめての夏休み、僕は所属する演劇サークルから8mmのシネカメラを盗み出した。欲しかった訳では無い、単に嫌気が差しただけだ。「第二の天井桟敷を作るゾ!」なんて息巻く諸先輩方の顔を引き攣らせてみたい、そんな些細な嗜虐心もあったと思う。とにかく僕は20万の機材を手に街を駆け抜けた。そして辿り着いたのが、世代に置き去りにされた小さな映画館だ。

 汗みどろに駆け込んだロビーは物憂げな静寂に覆われていた。まるで戦前に建てた公衆浴場の様に小汚い内装、分不相応な赤いカーペット、近しい終末を予感させる黴臭いロビー。僕は売店で冷えたビールを買い、学生が遊び半分で興じる『闇モク』で買ったシケた煙草に火をつけ、薄汚れたソファに随と腰を落とした。しかし中のバネがいかれていたのだろう、その椅子は僕を拒絶し、一人の青年の身体を汚い地面に撥ね除けた。買ったばかりのビールが転がり、溢れ出る炭酸の音色がシュワシュワ、シケモクの煙が時間の揺らぎを演出し、空を舞うシネカメラは孤を描く様ににアルコールの海にダイブする。そしてカメラは僕の目の前で絶命の叫びを上げた。

 最悪な気分だ。売店の男が冷たい目で僕を睨み付ける。僕はカメラを持ち上げ、シャツの腹でアルコールを拭った。直ぐにでも安否を確かめたいところだが、中に水分が残ってる可能性もある、暫くこのままにしておこう。映画館に忍んで夜までやり過ごすつもりだったがどうも居辛くなってしまった。さっさと退散しよう。そそくさと入り口に向かう僕に、売店の男が声をかけてきた。

「君、ちゃんと掃除しなよ」
「悪いのは僕じゃ無い、その馬鹿みたいなソファだ」
「馬鹿を尻に敷いた君はもっと馬鹿だ。カメラ貸せよ、直してやる。だからさっさと掃除しろ」

 男の名前はム印と言った。


2.マケマケクラブの紳士たち


 ム印は僕の一つ上で、二十歳を迎えたばかりの青年だった。大学には行かず、祖父が建てた映画館を叔父と二人で経営しているらしい。僕とム印は互いに『世代』を持て余していた。関係が詰まる理由はそれだけで十分だった。僕は授業を終えては映写室に行き、薄暗い密室でお互いのにおいを共有した。見下ろす客席には僕たちと同じように『世代』を持て余した人々が住んでいた。失職を想像させるサラリーマン、若いアベックの至らない情事、幼いバイヤーに下着姿の少女。僕たちはその光景を見下ろしながら、この小さな密室で、互いのにおいを循環させるのだ。

 僕とム印の関係の変化は『波野』という女性が齎した。彼女はム印の恋人だった。冬を迎えた頃に彼女は僕たちの映写室に現れ、一緒ににおいを共有するようになった。僕はそのにおいがどうしても好きになれなかった。ム印がどう感じていたかは分からない。とにかく僕はあの部屋に行くのが億劫になったのだ。そしてある日、僕は映写室では無く館内の客席に腰を下ろした。僕たちが見下ろしていた世代の敗残者達と肩を並べ、モノクロなスクリーンを眺める。上映していたのは『コマン・サ・ヴァ?』ゴダールの最新作、駄作だ。僕は淡泊な画面を見ながら客席のにおいを嗅いだ。ヤニ臭く、カビ臭く、大麻のにおいも混じって、喘ぎ声や呻き声が聞こえる。ここは地獄だな。結末を待たずに席を立ち、映写室に向かった。

 しかしその日の映写室の扉は重たかった。心因的に、実際的に……それは今でも判然しない。とにかくその日の扉は重かったのだ。開放を諦めた僕は扉の隙間から、映写室の中から漏れるにおいを嗅ごうとした。この中にはきっとム印と波野がいる。先程まで僕を見下ろしていたム印と波野がいる筈なんだ。しかしにおうのは扉の金具の錆びたにおい、それだけだった。

 僕はロビーのソファで一人ビールを飲むことにした。売店に立つのは中年のおばさん、ム印の叔父の奥さんだ。彼女は僕の事を嫌っていた。目を合わせても挨拶もしない。しかし彼女は同様に、ム印にも挨拶をしなかった。僕はその事を深く考えたことは無かった。一本のビールを空にした頃、波野は一人ロビーに現れた。

「あら、今日は来なかったわね」
「そう、時にはね。僕は時に一人を好むんだ」
「そう、時には。いいんじゃない?」

 波野という女は気取った喋り方を好む。エキゾチックでもあるし、素っ頓狂にも聞こえる。人並みに世代を謳歌している、少なくともそんな風に見える秀麗な彼女が、僕はどうしても好きになれなかった。

「時には、三人は好む?」波野は言った。
「好まないね、三人は。それが僕の時に、だよ」
「じゃあ、二人は好きなんでしょ?私、分かってるの」

 波野は寸分先まで僕に顔を近付けた。彼女の生暖かい鼻息が僕の唇に触れる。その肌からは化粧品と香水のにおい、そして確かに、ム印のにおいがした。僕たちはその晩、関係を結んだ。


3.パッショネイト


 僕と波野の関係は急速に発展し、年を跨ぐ頃には僕は宿舎を引き払い、彼女の家に転がり込んでいた。彼女の家は古びたアパートメントの角部屋で、その内装は悪趣味極まりないものだった。映画スターのポスターが壁一面に張られてあり、水銀灯の光は不確かなリズムで明滅を繰り返す。ベッドこそ最初は綺麗な純白を保っていたが、それは同姓して数ヶ月が経った頃、ム印による熱心な掃除の賜物であったことを知る。

 当のム印と僕の関係は、これと言って変わりが無かった。彼は波野の移ろいを受け入れたし、僕の裏切りを肯定した。ム印は波野を愛していなかったのだろうか?波野にとってム印とは何だったのか、僕はその疑問を口に出す勇気を持ち合わせていなかった。とにかく僕と波野がはじめて関係を結んで以来、波野は映写室に顔を出さなくなった。僕とム印の関係は以前に似通った形に戻ったわけだが、その本質の程は分からない。とにかく僕はまたム印とこの部屋で、敗残者を見下ろしながらにおいを共有する日々に些細な幸福を感じていた。

 波野が僕に暴力を振るうようになったのは、僕が少年期を捨てはじめての夏を迎える頃だ。最初は軽いものだった、小洒落た程度、お遊びのビンタ、それがいつしか拳を丸め、身体の骨張った箇所を執拗に殴るようになった。僕には彼女の暴力の理由が分からなかった。彼女が何か喚いても、その言葉の真意が耳に響かない。僕はただ彼女の暴力を受け入れ、彼女に殴られ続けた。そもそも苦では無かったのだ、一人の女の暴力なんて。何よりも僕は殴られる度に、ム印と波野の関係に想いを馳せていた。殴られる度に、ム印と波野の関係が立体化していった。だから彼女の暴力を全面的に嫌う事が出来なかった。

 ム印は言う。「君の役割は、彼女に打たれ続けること」
「いつまで?」
「君の写しが出来上がるまで」ム印は時に婉曲的な言葉を好む傾向があった。
「それって……子供が出来るまでってこと?」
「そう解釈してもいい」
「君も彼女に殴られてたの?」

 僕はム印に尋ねた。ム印は朴訥な口調で答えた。

「さあね、彼女に聞いてみると良い」
「どういう理屈で彼女は暴力を振るうんだろう」
「それはきっと」とム印は言う。「彼女自身分かってないと思う。あいつらも皆そうさ」ム印は客席に首を振る。「何故ここで時間を潰すのか分からない。何故ここでセックスするのか分からない。何故ここで大麻を裁くのか分からない。何故ここで売春するのかわからない。皆分かってない。きっと理由はあるんだろう。でもきっと理屈は無い」
「君も分からない?」
「何が?」ム印は目を丸めた。
「僕たちが今もこうして、映写室に二人でいること。その理屈」

 ム印は沈黙の後穏やかに、でもはっきりした口調で言う。

「さあ、分からないね。理由すらも」


4.捨てよ、街へ出よう


 ある日を境に、波野は僕に暴力を振るわなくなった。同時に僕たちは肉体の関係を結ばなくなった。波野の顔には笑顔が増え、どこか心に余裕を抱えたようだった。これから平穏な日々が続くと思った矢先、僕とム印の映写室に、波野が姿を現したのだ。

「ご一緒していいかしら?」

 ム印は何も返事をしなかった。僕も何も答えなかった。返事を待たず、彼女は僕たちの間に居座った。そして取るに足らない駄弁を延々と垂れ流す、そんな日々を繰り返した。映写室の中には、彼女の唾液のにおいが充満していった。

 ある日、映写室を開けるとそこにム印の姿は無かった。僕が映写室に足を運ぶようになって初めての出来事だ。ただ映写機だけがカラカラと音を立て回っている。トイレだろうか、交換まではまだ少し時間がありそうだ。僕は静かに待つことにした。そこに波野が現れた。ム印がいない映写室を見て「あら」と一言、そして客席を見下ろす僕の首に腕を絡めて、その耳元で囁いた。

「良い景色よね、私ここからの眺め大好き。ここにいるときだけ、自分が惨めじゃ無いって思える。だからここは素敵な場所。でしょ?」
僕は眉を寄せる。「でしょって何さ。それは君の話だろ」
「君と私とム印の。これは私たち三人の話なのよ」波野はおかしむ様に笑った。
「だとしても」僕は唇を微かに歪める。「同列に語って欲しくないね、少なくとも君と僕を」
「あなたとム印はいいの?あなたたちは同列?」

 その時だった。眼下の客席に馴染みある男の姿が目に止まった。ム印だ。ム印が客席に座っている。後ろ姿だが確かに分かる、あれはム印だ。瞬間、言い様もない怒りが湧いた。僕は波野の腕を解き、その胸倉を掴み上げ、その綺麗な顔を思い切り殴りつけた。彼女の身体は映写機にぶつかり、それは回転と発光を維持したままゆっくり倒れ、終いには轟音と共に光が割れた。空間が闇に包まれる。波野の呻き声が聞こえる。フィルムの外れた映写機がカラカラ音を立てる。客席のどよめきが響いてくる。僕は息を弾ませ、彼女を殴りつけた拳を何度も握りながら、その間接の痺れを確かめながら、それでも心は異常な程冷静に、ある思考を巡らせていた。今、ここにいる僕も、そこにいる波野も、あそこにいるム印も同じ闇に包まれている。バイヤーもアベックも中年も少年も少女も薬中も老人も糞みたいな敗残者全員も、今、同じ闇に包まれている。

 『僕たちは今、同じ闇に包まれている』

 扉から光が差し込んできた。開けたのはム印の叔母だった。叔母は叫び声を上げ、ム印の名前を呼んだ。「ム印!ム印!」と。そういえば僕はム印の下の名前を知らなかった。どうやらこの叔母も知らないらしい。僕は駆けだした。叔母さんを撥ね除け、階段を駆け下り、客席の扉を開けて「ム印」と叫んだ。何度叫んでも、ム印から返事は帰ってこなかった。場内の灯りがついても、そこにム印の姿は無かったのだ。映写室を覗くと頬を抑えた波野が、じっとりと、僕のことを見下ろしていた。僕は急に何もかもが怖くなった。何も考えずに駆けだした。客席を抜けロビーを抜け入り口を抜け街に出て、路地を抜けあぜ道を抜け田園を抜け何も無いところまで、どこでもないところまで、諸手を挙げて全速力で走った。


5.世代の僕


 それから僕は平凡な学生生活を送った。世代の波に乗り、友人や恋人を作り、新しいサークル活動を楽しみ、上場企業への就職も決まり、当時の世相における人並みな幸せを味わっていた。卒業を控えた秋口、僕は演劇サークルで同期だった男に尋ねられた。

「君、あの時のカメラどうした」
「カメラ?」
「盗んだカメラだよ」
「さぁ。それに関してはもう終わったろ?」これは余談だが、後ろ暗くない演劇サークルなんて当時は存在しなかった。「しつこく言うなら、僕にも考えがあるよ」
「いや、それはもういいんだ。ただ……」

 どうやら男は借金を抱えていたらしい。少しでも金が入り用、とのことだ。数年前で20万だったカメラ、今いくらで質に入るか分からないが……僕は協力してやることにした。それが人並みな男友達というもんだ。と言っても、僕自身カメラの存在をすっかり忘れていた。あの日ム印に渡して以来、その存在はすっかり僕の頭から消え失せてしまっていたのだ。僕はム印に会うべく件の映画館に足を運んだ。しかし思い出の地は既に廃墟と化していた。入り口は施錠され、中に入れそうな気配は無い。となると、ここにム印はいない。カメラの所在も分からない、諦めるしか無い……しかし夕闇が迫る空の下、人気の無い映画館を前に、僕は奇妙な考えに捕らわれた。

 この閉館した映画館の中で、あの客席の中に、まだム印がいるような気がしたのだ。誰もいない客席に座るム印を、波野は今でも映写室から見下ろしているんじゃないか。映写機は回転を続けたまま、あの部屋の中で孤独に眠りこくってるんじゃないか……。そんな妄想に取り憑かれた僕は映画館に忍び込む事に決めた。裏口に回り、使われていないポストを覗いてみる。案の定鍵があった。帰りしな、ム印がここに鍵を入れるのをよく見ていたのだ。あの家族が不用心で良かった。僕はドアノブを回し、2年ぶりに映画館に足を踏み入れた。黴のにおいが悪化している。少なくとも1年は人の出入りが無い、漂う埃や蜘蛛の巣を見るに間違いないだろう。僕が初めて座ったソファも、まだそこにある。僕がまき散らしたビールの染みを時間が浮き上がらせている。僕は厳かに客席の扉を開けた。そこにム印の姿は無かった。あるのは何も映ってないスクリーン、嘗て敗残者たちが腰掛けた椅子の羅列……彼等はどこにいったのだろう。今もどこかの客席に座り続けているのだろうか。……ここには何も無い。客席を抜けて階段を上がり、映写室に向かった。その扉は施錠されていなかった。軋む扉を開けるとそこには……何も無かった。スクリーンを照らした映写機も、僕たちが座った椅子も、フィルムの山も、頬を抑え客席を見下ろす波野の姿も、何一つ残っていなかった。僕は少し期待していた、ここに僕のカメラが残ってるんじゃ無いかって。ム印が気を遣って、カメラを僕に残してくれているんじゃないかって、ほんのちょっぴりの期待だった。でもそんなことは無かった。そういえばム印は直すとは言ったけど、返すとは言ってなかったな。思い返すと確かにそうだ。してやられた、そう思うと少し笑えてきた。この部屋ではじめて僕は微笑んだ。でも微笑み返す人はもういない。

 僕は誰もいない映写室で、誰もいない客席を見下ろす。
 そこにこみ上げてくる感慨は、何も無かった。




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