「希死念慮は明日(あす)の向き」①

 何度か、地獄というものを辞書で引いてみたことがある。
 納得出来る答えを得られたことは無い。


 肌をまち針で刺すような寒さが体を否応なく震わせる。
 吐く息は、まるで自分が自動車になったかのような錯覚をさせた。マフラーに焦点を当て、地球温暖化の啓発を促すテレビコマーシャルを思い出す。自分は今、環境に良くないことをしているのだろうか。
 そんな些細な思案は、嘘で塗り固められた気晴らしに過ぎない。心にも思っていないことで脳の余白を埋めようとするのが僕の癖になってしまっている。考えたくないのだ。あと数十分もすれば起こることを。
 足には黒々とした重い鉄球の繋がれた枷が着けられている。片足にではない、両足にだ。
 灰色の空を見ることなく、ぽつぽつと黒い影が増えてくる。鏡張りの部屋に訪れたと騙されそうになる。統一された男女が機械のように同じ毎日を繰り返していた。
 後ろから迫り来る音が大きくなる。アスファルトを叩きつけるその音が耳元まで近づいたかと思えば、衝撃が体を揺らした。
「っと。おーい、パスパス!」
 視界に入っていないのなら分かるが、彼には触覚が無いのか。それとも、人を無視しなければならない演技の練習でもしているのだろうか。
 くすくす、木々の揺らめきにも似た声が空気を伝う。なんら変わることのない、校門の日常だった。

 季節の変化は生活の詳細を塗り替える。同じ繰り返しでも、異なる部分は少なくない。
 登校したばかりの座席はひんやりと冷たい。ウォシュレットをあまり使ったことのない僕には刺激が強いと感じられる。
 気温のせいか、生活音だけの沈黙は夏よりも静けさを増しているように思える。常に聞こえていた蝉が居なくなったからというだけではないのは確かだ。悪く言っているように聞こえるかもしれないが、僕はこの乾いた空間が好きだった。縮図、なんて良くない意味で形容されることの多いこの場所で、唯一好きと言えるべき点だろう。
 時計の一番長い針が何回も回る度、その静寂は遠く離れていった。長期の休みを間近に控えているからなのか、寒さに反し彼らは勢いづいていく。
「ういーす」
 雷が落ちた。
 灰色の空だからか。違う。気候は関係ない。未来永劫、そうなのだ。
 天敵。知る限り、この言葉が一番適しているように思う。恨みがあるわけでなく、目的や意味があるわけでもない。ただ、生物として常に狙いの目をこちらに向け、実害を与え続ける。
 うんざりするくらい彼の顔を夢で目にする。会うのは昨日ぶりというより、ほんの少しぶりと言えた。
「お、綿貫じゃん。今日も来たんだ」

 清峰高貴(たかき)。
 名前は軽く知っていた。サッカー部に所属しており、その実力の高さと持ち前の快活さから、学校の人気者だったのだ。頭も良く、顔もはっきりしていると評判だった。
 初めて言葉を交わしたのは二年に上がった際のクラス替えだった。
 普段からおどおどしていると見られがちな僕は教室の隅にいることが多かった。同じ吹奏楽部の友達も居たし、一年の頃はそれで何も言われなかった。
 だからこそ、彼から話しかけてきたのは嬉しかった。彼は初対面の僕に向かって、名前や身長、部活動、成績、運動能力、交際相手の有無。様々なことを畳み掛けて質問した。その際、彼の瞳は僕のつむじからつま先を舐めるように上下していた。
 一通り話し終えた後、彼は友達の方へ行ってしまった。驚きはしたけど、この時の胸の高鳴りは、人気者の彼が仲間と認めてくれたような喜びから来ていた。
 彼は楽しそうに話しながら、ときどきこちらを横目で見ていた。僕の紹介でもしてくれているのだろうと思った。
 翌日、いじめが始まった。
 二年の春は桜を見たかすら覚えていない。ずうっと、地面や床の記憶だけが残っている。身体的な暴力に精神的な暴力。その「程度」の違いが事態を複雑化させ、教員や保護者の介入を妨げる。よくあるいじめの課題だ。
 そんなレベルではなかった。誰の目から見ても明らかな悪意。
 休み時間、彼を横切った時に足を引っ掛けられたことから始まった。初めは何も分からずそのことについて謝った。僕の不注意だと。彼は笑って許してくれたが、それは偽りだった。机の上に置いていた教科書が無くなり、ごみ箱から見つかった。筆記用具も度々姿を消し、クラスの男子数人が使っているのを目にするのだった。
 体育の時間に行ったドッジボール。パスはパスではなかった。同じラインの内側にいるのにも拘らず、彼は僕に対して全力で利き手を振りかぶった。ここまでくれば、愚鈍と言われる僕でも理解出来た。ああ、僕の学校生活は暗いものになるんだろうと。
 無視されるようなことは一度も無かった。必ず「関わる」という形で彼は僕を虐げた。
 たった一日で嫌がらせは多岐に渡った。帰ってから泣こう。そう決めて下駄箱へ向かうと、彼とその仲間達が居た。下校を許してはくれなかった。
 夜。青紫の斑点模様を付けたままでの入浴は、お笑い番組で見かける滝行よりも苦しいのではと感じた。いじめの初日は壮絶な初体験の連続であった。
 周りの反応は、感動的な映画を逆様に見たようだった。初めは皆、額に汗を浮かべ、ぎこちのない笑顔で機嫌を取っていた。彼に逆らえないからだ。しかし、時間と共にそれは変化し順応していく。僕へのいじめは、生活音の一部へと溶けていった。慣れは人間最大の武器と言えるのだろう。
 何故これほどまでに彼を裁く気配が一つも無いのか。理由は、彼の父親が市長だったからだ。それに尽きた。

 状況が好転することはなく、こうして今も暗澹の日々が続いている。四月からなので、もう七ヶ月程にもなる。
 いじめ。僕はこの言葉が嫌いだ。漢字ならば良いというわけではないが、ひらがなという文体がこの事柄を軽んじらせている気がする。大人がよく使う言葉のように、音に難しいニュアンスを持たせるべきだ。
「昨日の『マーク』見せろよ。かっこよくできたと思っちゃいるが、一日置くとちょっと変わってるかもしれねえからさ」
 そう言って彼は強引に僕の制服の襟とうなじの間に手を入れ、首元を露にさせる。時代錯誤な根性焼きの跡が教室の蛍光灯に照らされた。
「ひゅう、おっしゃれー」
 以前読んだ本に、こう書いてあった。
 人には様々な物の見方がある。一人一人に別々の人生があり、今日を精一杯に生きている。人と対話したり、相互理解するには、その相手の気持ちになって考える必要がある。機嫌の悪い人に遭遇した場合は、自分の機嫌が悪い時を思い浮かべ、その時の自分がしてほしいことを相手にしてあげるのだ。
 その相手の事情を慮ることが大切という。おぷてぃみずむ、という考え方も載っていた。寛容さが人生を豊かにすると。
 渦中の僕には到底理解が出来なかった。彼がどんな悩みを抱えているのかは知らないが、そもそも僕を人として見ていない気がする。雑巾でももっと大切に扱うだろう。思い描く、僕が苦しみそうで痛がりそうなことをとにかく試している。
 彼の笑顔は口の両端が耳元まで届きそうで、時折、怖い物語に登場する悪魔やピエロを彷彿とさせた。
 いじめられ始めてから、時間の流れはやけに遅い。体や心の疲れに加えて、時間が長く感じることも、僕が老け込む理由になっている。
「どれどれ」
「あはは。ボーリングの指入れる穴みてえ」
「高貴えぐい」
「ねーやだー」
「きゃはは」
「やめなよ、先生来るよ」
 そうこうしている内に、朝の会が始まる。
 ようやくか。まだ一日のスタートすら切っていなかったことに絶望する。けれど僕はこんな狂気に満ちた日々の中でも辛うじて正気を保っている。それは、武器を見つけたからだ。彼、清峰高貴を追い詰める秘密兵器。僕が持つ刃はたった一つだけだ。
 彼の為に、死んでやる。

 今日も今日とて日常は幕を開ける。
 清峰の顔が視界に入る度、無意識に肩が震える。授業の終わりを告げるチャイムが聞こえれば、僕の席の前や横に現れ肩に手を回す。そのまま教室でプロレスごっこが始まるときもあれば、外へ連れ出し何かをやらせるときもある。たった十分という隙間だというのに、移動教室によく通る別校舎への渡り廊下へ向かわされた。
「脱げ」
 今回は僕の裸がご所望のようだ。言われた通り、上の学生服とシャツを脱ぐ。
「下もだ。あ、パンツは履いてていいぞ」
 青色の下着一枚になってしまった。寒さよりも行き交う生徒や教員の視線が気になる。我関せず、というにはあまりにも横目で見過ぎだろう。次第に、恥辱は体に熱を帯びさせた。
 服という最低限の鎧を捨てた貧相な体は、敵との力の差を明白にさせる。
「ふふ、いいね。仕上がってきた」
 訳が分からなかった。彼は微笑を浮かべ、僕の体にある無数のいじめの歴史を見て恍惚としていた。僕が一体何をしたのか。過去に何度も聞いては、答えを得られずに暴力が返ってきた。また同じ質問が喉元までせり上がってくるのを感じる。呼吸を忘れるほどに口の中は鬩ぎ合い、やがて生唾と共に強く飲み込んだ。
 次の休み時間は昨日のボクシングの試合の再現に使われた。

 家に帰ると一目散に駆けてくるのは、目尻に皺の多い母だ。一生分の心配をかけているせいか、美人と評判だった母も今では見る影もない。首元のネックレスが輝いている。清峰が見れば豚に真珠と嘲ることだろう。
 お風呂を沸かし、夕食の準備も万端だった。いつからか、こうして献身的過ぎる振る舞いで出迎えてくれている。
「ささ、脱いで脱いで」
 制服を脱がし、浴室への道を開ける。血や砂だらけの格好で家をうろちょろするわけにもいかないので、僕は「うん」と返事をして従った。
 熱過ぎず、程良い温度で湯船が溜まっている。汚くなった体を綺麗にするという快感は、恐らく普通の人の何倍も大きい。立ち込める湯気に頭を委ねて軽く目を閉じた。ニ十分少しで上がった。
 口に沁みる塩味に少し顔を歪ませる。あれだけ僕のことを考えてくれてはいるようだが、切れた口に配慮した献立を作る気はないのか。怒っているわけではないが、時々そう思う。
 ため息と共に食事を終えると、自室へ向かった。一人になれる唯一の場所だ。肉親とはいえ、最近の母の前では息が詰まる。この四畳半の中だけは、心からリラックスすることが出来た。
 さて、いつ自殺しようか。
 慌てふためく清峰を想像する。今や僕が笑顔を浮かべるのはこの時だけ。決行すればこちらのものだ。
 罪悪感に苛まれ、一生苦しむことになる。彼に罪悪感を感じるだけの良心があるかどうかは疑問だが、人が一人死ねば、周りから殺人者のレッテルを貼られ敬遠されるだろう。死ぬことで、人としての尊厳を取り戻す。
 パトロンのいなくなった中で、自らの行いを悔やみながら僕への謝罪を口癖に生きていくのだ。それが僕の復讐の筋書きだ。齢十四にして、我ながら天晴れだと思った。
 自殺をするのが楽しみだ。

 十二月に入った。
 寒さは峻烈で、冬が好きだと言っていた女子生徒も静かになった。クリスマスシーズンは気分を高揚させるが、想定外の寒さは不評らしい。僕には好都合だった。悴んだ手や肌は、清峰らの暴行の痛みを軽減させるという恩恵を生んだ。
「俺さ、この間映画観たんだ。マフィアのやつ」
 彼は嬉々としてその作品の真似をした。拷問のシーンがお気に入りらしく、学校で配られたプリントの一枚を僕の爪の間に入れた。指先を押さえ、肉の境目が露出するようにし、紙がくしゃりと曲がらないよう器用に引いて、僕に耐え難い痛みをプレゼントした。
 紙はナイフか何かの代替品だろう。鮮やかな赤の絵の具が中から飛び出た。正直、取り巻きも引いていたように見えた。
 彼が新しいやり方で僕を痛めつけるときは、大抵こういった映画などの影響が大きい。そうして、新品のおもちゃを買ってもらった子供のような無垢な笑顔を覗かせるのだ。
 今に見てろ、僕の死で償わせてやる。

 例に漏れず、今日も僕は赤ん坊にあげた新聞紙の如き扱いを受けた。散々な一日に慣れた自分にも、もう何も感じない。
 この日清峰は、学校というテリトリーを出て帰路の途中まで付いてきた。初めてのことではなかったが、自宅に近いのは珍しい。動揺しつつもそれが気づかれないように振る舞う。
 学校から家までの丁度真ん中、住宅地にひっそりと佇む公園に来た。ここは閑散としていて人通りも多いとは言えない。強いて言うなら、少し先にあるスーパーマーケットで買い物をした大人がレジ袋の音を立てながら家へと向かう道中といったところだろうか。彼らは公園で遊んだ。僕という遊具を使って。
「あははは」
 僕の財布から抜き出した百円と十円の一枚ずつを使って缶コーヒーを買った。ここは街中のより少し安い。彼はその中身を僕に浴びせた。白いシャツが茶色に染まる。黒い学生服は防御力が高いと剥ぎ取られてしまっていたからだ。体の内側から凍えるようだった。裕福な家庭で育つとこうなのだろうか。コーヒーは飲むものではなく、人に浴びせるものらしい。なら何故無糖を選んだのか、僕には甚だ疑問だった。
 相も変わらずきいきいと鳥肌の立つような鳴き声を上げながら、亀になった僕を囲みはしゃいでいる。耳に蛆でも湧いているようだ。そんな中、一つ気になることがあった。それは、清峰高貴の視線だ。
 彼は遠くを見ていた。何かに釘付けになっているようだった。それでいて、あの苦手な口角を上げている。くねくねと体全身で奇妙な動きをしていた。何かのダンスだろうか。
 公園の向かい側には何があったか考える。特別目を引くようなものは無い筈。それに彼だって何度かは来たことがあった。そうなれば残るは「通ったもの」だろうか。人か、犬猫か、珍しい車やバイクか。大きな音はしなかったので、最後の線は薄いだろう。複数人に暴行を受けている僕の聴覚の信憑性は不明だが。
 地面に顔をつけ、靴や砂埃に塗れる僕に、視線の先を辿ることはとうとう叶わなかった。
 次は、僕の訃報で釘付けにしてやる。

「うっ」
 丸めた背中に鈍痛が滲む。
 どの体勢が一番痛みを回避出来るのか。一時期は模索していたが、結局よく分からなかった。目を瞑り視界を暗くし、閉所にいるかのように目一杯縮こまる。こうしてダンゴムシの如く蹲っていれば、幾分か気は楽になった。
「やばい、俺格闘家なれるかも」
「こうやって全力で人殴れんのとかマジ高貴のおかげだわ」
「サンドバッグ叩く練習にもなるし、ジム代も浮くしね」
「エコじゃん」
「いや、単なる節約をエコとは言わねえぞ」
「そっか、ワリ」
「あははは」
 随分楽しげでひどい会話だ。知能指数も高が知れている。愛用のクラリネットで殴ってやろうか。
 清峰高貴は座っていた。体育館の裏で、入り口の一つである白い階段の二段目に腰を下ろす姿は、まさに群れに君臨する王のよう。
 彼はいつも一番最初に僕を殴打する。他が間違えて彼より先に殴ろうものなら、僕と同じような目に遭う。一日こっきりの警告に過ぎないが。
 次第に、彼が手を出してからが僕をいたぶる合図となった。それまではじっと王の護衛に徹している。一番風呂を大黒柱に明け渡す古風な家族に似ていた。
 僕を、決勝のゴール前に立ったかのような力加減で蹴る。ボールの気持ちを述べる国語の問題文があれば高得点を取れるに違いない。
 その時、大きな声が聞こえた。大きいと言っても、「彼ら」のように心臓部を締め付けるものではない。善良な人間の温かい声だ。
「何やってんだよ! お前ら二年だろ!」
 全校集会の体育館、三年生のところに居たのを見たことがある。確か、野球部の主将を務めていた筈だ。正義感が強いのだろう。清峰らが七人いるのに対し、一人で割って入るらしい。引退したせいか、少し伸びた坊主頭が爽やかな印象を与えた。丁度、サッカーのフィールドの芝生を彷彿とさせる。彼とは真反対の競技だが。
「こんなことして、恥ずかしくないのか」
 ヒーロー然とした言葉。真っ直ぐな瞳と感情は、一切のずれが無いのだろう。駆け足で寄ってきて僕の体を起こし、身を案じてくれた。
 無言のまま、清峰はぴくりとも表情を変えることはなかった。
 ああ、この人も大変な仕打ちを受けるのだろう。声は反響していて上手く聞こえない。ただ、目の前の恩人が数時間後、空の赤くなる頃合いには今の行動を後悔していると予想出来る。今までも、ほんの数人はそういう事例を見てきた。良心など持つべきではないのかもしれない。
「誰こいつ」
「あれだよ、野球部の」
「ああ。甲子園行ったからって調子乗ってんの? それ一昨年だろ」
「やめろって」
 短髪の先輩は直線状のはっきりとした眉を寄せ、睨みを効かせた。

 僕のいじめが再開するのは、思ったよりも早かった。
 いつもなら少し時間を空けてから報復をする。それが清峰の常だった。僕は授業中もそうだが、基本的には各休み時間に滅多にされるので、ああいった邪魔は昼休みにでも仕返しを行うのだ。
 しかし今回は現場が昼休みだった為、彼はすぐに先輩を殴った。負けじと先輩も殴り返そうとしたが、彼の取り巻きに抑えられてしまった。数の有利は覆らない。俯瞰で見ると、暴力が如何に悲惨な行為か、いつも再確認させられる。下校時には普段通り彼に呼ばれ、「締め」の作業が始まるのだった。
 今日こそ、死んでやる。

「ぬき、綿貫改(あらた)」
 冬休みはあと一週間というまでに迫っていた。
 ささやかな楽しみがある。早朝の教室ではない。好きなことというより、楽しみなことだ。それは僕の右横の列、一番前に座る学級委員長の藤代さんだ。
 この教室で、こんな世界でただ一人、気品を纏っている。カーストの底辺に位置する僕を嘲笑う群衆のうるさい朝、決まって先生が来ることを伝え、静まる催促をしている。僕にとっては鶴の一声だ。
 端正な顔立ちは地味な性格の陰に潜んでいる。黒縁の眼鏡は、正義の味方が素顔を隠しているようだ。彼女の笑顔を最後に見たのはいつになるだろうか。ばつの悪い表情だけが記憶に残っている。未だ、更新はされていない。
 藤代藍。なんだか名前の響きも透き通っていて綺麗だ。自殺を行った後、彼女のことだけが心残りになるだろう。
「綿貫!」
 先生の怒号で気がついた。虚脱状態にあったらしい。クラスの皆がこちらを見ていた。清峰も、藤代さんも。
 目が合った。彼女はやはり、ばつの悪い表情を浮かべていた。

 三限目は実験を行う為、理科室へ来ていた。今日は硫化鉄というものを作るらしい。清峰は不在だった。彼が授業をサボるのは特別珍しいことではない。取り巻きと共にゲームセンターにでも行っているのだろう。僕は先生のラジオを耳にしながら、フラスコに入ったエタノールを眺めていた。なんだか落ち着いた。
 どたどたと、初めてボールを突くバスケ部員のような慌ただしさで学年主任の石塚先生が室内へ入ってきた。教卓にいる松木先生の元へ駆け寄り耳打ちをする。何か大事のようで、「自習しておくように」とだけ言い放ち、二人でそそくさと出て行ってしまった。
 何事だろうか。そう思ったのも束の間、取り扱い危険物の多い空間を、すぐに喧騒が占めてしまう。
 視線を戻し、百の会話の飛び交う中、机に伏した。片腕を伸ばし、学生服のざらついたポリエステルとウールの感触に体重を乗せる。
 再びがらりと開いた戸の向こう側には先程の石塚先生が居た。理科室を一望し、こちらと目が合うや否や手招きをしていた。
「来い。綿貫」
 少し小声気味に僕を呼ぶ。小首を傾げつつ、二つ返事で汗ばんだ背広について行くことにした。

 応接室。いわゆる客間のような場所に連れてこられた。僕は何かしでかしたのか。いつも「される側」の僕に思い当たる節は無かった。しかし、事態の把握は部屋に入れば一瞬だった。
 校長先生に教頭先生、担任の伊藤先生に石塚先生と松木先生も一緒にいる。松木先生は副担任でもあるからだ。校長の横には伊藤先生が座っており、他の三人は傍に立っている。座る二人の向かいには今回訪れている来客の姿。片方は知らぬが、もう片方を見れば分かった。
 昨日の野球部の先輩だった。隣の、額に一本線をつくる厳格そうな男性は彼の父親だろう。
「君が。こんにちは、清田です」
 僅かに体を震わせてしまった。そんな名前だったのか。
「ど、どうも。綿貫です」
 清田先輩は痛々しい顔をしていた。きっとあの後も清峰らに制裁を加えられたのだ。しかし親子して学校に乗り込んで来るとは正直驚いた。つまり、清田先輩は折れなかった。大抵は精神にトラウマを抱え、声を上げることが出来なくなるというのに。
 清峰の徹底的な、洗脳にも近い仕打ちは万人を支配するものだとばかり思っていた。
 先輩の父親は僕の顔をまじまじと見た。そして言葉を続けた。
「初対面で大変失礼なのだが、上半身を脱いで見せてくれるかな」
 短期間で二度も裸を求められるとは。人気の水商売に就いたかのよう。
 僕の体を見て、その場の全員が息を呑んだのが分かった。打撲に火傷・裂傷と、目に見えるものだけでも様々。一度に入ってくる情報の多さに困惑しているようだった。先生達は僕へのいじめを散々目にしていたと思うが、楽観でもしていたのだろうか。
 続けて、清田先輩も脱ぎ始めた。長きに渡って暴行を受けている僕とは違い、新しい傷の数々が見られた。それでも、どちらが軽いなどという話ではなく、相当こっぴどくやられたのは一目瞭然だった。
「よく、よくここまで放置していたものですね」
 声色に瞋恚の表情が見えた。拳を握りしめる腕に血管が走っている。
「いえ、これは私(わたくし)共も頭を悩ませている問題で。非常に複雑でして」
 たじろいでいる校長は、余程その椅子の座り心地が良いに違いない。
「詭弁は結構。私も忙しい身とはいえ、我が子がこんな目に遭うまで気づかないとは。息子の通っている学校で、こんな悍ましい行為が繰り返されていた思うと遺憾でなりません」
 眉間にどんどん皺が寄っていく。先輩もそうだった。父親が持つ怒りとはまた別に、僕に対して申し訳なさそうな表情をしていた。
「学年は違うし、俺、部活一筋だったから放課後なんかはすぐグラウンドに直行してて全然知らなかった。お前のことも、あんな悪魔がいることも」
 今日という日はいつもと変わらぬ、耐え忍ぶだけの一日と思っていた。だがここに来ての僥倖。清田親子は、眩し過ぎるくらいに実直だった。
「妻に聞いたところ、過去に一度保護者会でも話に上がったことがあるとか。生徒の何人かから聞き及んだのでしょう。そのとき綿貫さんは出席しておらず、先生方は解決に努めると言っていたと。しかし実際は、見て見ぬふりで静観に徹していたというわけですか」
 射るような視線に狼狽している校長や教員達。答えづらい理由に憚られているのだ。
「一日置いたわけですからね。調べましたよ、私も色々とね。綿貫くんをいじめている七人の男子生徒。その筆頭であり主犯格の清峰高貴くん。彼の父親はあの清峰市長だそうですね」
 校長先生が言葉を詰まらせている。擁護せんと、伊藤先生が口を開いた。
「清田さん。学校経営というのも難しいものでして。市長と教育委員会とは分けられて然るべきものなのですが、清峰市長は資金繰りだけでなくその大半を圧倒的な権威の下、管理しているのです」
 支配者と呼ぶに相応しい内容だった。それを聞き、僕の思い浮かべたことと似通った考えを清田父は持っていた。
「血、ですな」
 皮肉めいた言い方で吐き捨てる。学校側が押されているのは明らかだった。
「下らん。卒業まで隠蔽しようとでも? 綿貫くんが自ら命を絶ったりでもしてたら責任は取れるんですか!」
 熱が篭っていた。少しだけ嬉しくなった。
「清田さん落ち着いて」
 制止する声を余所に、清田父は立ち上がった。目配せをされた清田先輩ものそりと後に続く。
「とにかく。このことは急いでPTA全体に細かく共有させて頂きます。息が掛かってようが、教育委員会にもです。揉み消させはしない、市長の座を降ろさせてでも大事にするべきだ!」
「ち、ちょっと清田さん」
「清峰市長はその、近年よく聞くモンスターペアレントと言いますか、厳密には異なるのですが」
 必死でその足を止める先生達。教頭先生も脂汗を反射させている。当たり前だろう。半年以上も容認していた問題を公にされるかもしれないのだから。
「父親の知り得ていることかは存じませんが、ああいった子供を育てている時点で察しがつく。牛耳ることばかりに重きを置いているような現状にも呆れ果てる。悪意に満ちた人間の庇護下にあって、恥ずかしくはなかったのですか!」
 清田父は石塚先生や松木先生を振り切り、扉へ向かう。同時に僕の手を取った。
「多少のごたごたは覚悟してもらいますよっ。ほら、綿貫くんも来なさい。今日は送ってあげよう」
 清田父の車で家まで送ってもらうことになった。思わぬ早退になってしまった。

 駐車場まで足早にやってきた。ぴっとキーのボタンを押し、車を解錠させる。高級そうな見た目通り、中には綺麗でふかふかの座席が僕を待っていた。程なくしてエンジンの音がかかり、窓の景色が後方へ流れ始めた。
「綿貫くん。辛かったろう。今まではどうしていたんだい。誰かに相談は」
 先程とは打って変わって、絹を撫でるような優しい声で語りかける清田父。僕も辿々しく口を開いた。
「クラスの皆は清峰くんに怯えちゃって僕のことを無視してましたから、味方なんて。母は、このことを知ってはいます」
「お母さんは何て。学校と話は? 相談センターや警察に行ったりは?」
 僕は鉛を飲んだような気分になった。この狭い空間には僕を想ってくれている人しか居ないのに、どうしてだか息苦しくなった。
「母は、その」
 そんな僕を見かねて、清田先輩が口を挟んだ。
「やめよう、父さん。色々あるだろうし」
 清田父は怪訝な顔で顎を摩った。
「気にはなるが、そもそも周りの大人がまともなら、ここまで長期化してないわな」
 学校近くの交差点を抜ける。
「家は」
「あ、市営体育館の近くにあるコンビニを左に曲がって」
「ふんふん。家にはご両親は?」
「仕事で居ません」
「そうか」
 カーナビを見ながら僕の指示通りに車を進める。早退は今まで殆どした事が無かったので、こんな時間帯の通学路を見るのは新鮮だった。散歩している人やジョギングをしている人、スーパーの駐車場で籠の中身をトランクに積んでいる人が見えた。なんだか時間の流れがゆっくりに感じる、悪くない風景だった。
「あ」
 先輩の声が車内に響いた。僕がその視線の先に目をやると、同じく喫驚の声を上げた。
「なんだ。知り合いか? ひい、ふう。な!」
 清田父も数えている内に僕らの反応と照らし合わせ気づいたのだろう。そこに居たのは、学校を抜け出していた清峰らだった。
「あいつら!」
 清田先輩の瞳に炎が灯っていた。許せないのは理解出来る。僕だって同じだからだ。だが意外にも、清田父がそれを制した。
「今は放っておこう。子供だけの目の前に現れてその場限りの説教をしても何も変わらん。親の口から聞く方がいいさ。七人全員の家に俺が直談判するからな」
 固い決意が込められている。清田先輩もそれに頷く。僕は一つの言葉を投げかけた。
「あの。僕のいじめは、終わるんですか」
 清田先輩も、ルームミラーに映る清田父の顔も見ることが出来なかった。俯きながらその答えを待った。
「当然だ。君は普通の毎日を送ってもいいんだ」

 十二月十九日。
 陽光が双眸を刺す。電気を消し、カーテンを開けて寝る僕は、こうして陽の光を目覚まし代わりに利用しているのだ。実に健康的と言えるだろう。
「いっ!」
 体を起こした。日常動作を行うだけで全身が軋む。老朽化にはまだ早いというのに。
 制服に着替える。姿見に映る、青あざだらけの痩せ細った体を見る度に自分が蟻になったような惨めさでいっぱいになる。仕方がない。一日三食を食べているとはいえ、給食の分は昼休みにはすぐ無くなってしまうのだから。実質は一日二食の生活が続いていると言える。いや、もうそんな日々ともオサラバだろうか。
「なんか、変な感じだ」
 昨日は結局何も学校からの電話は無かった。淡い期待は消え去ったのか。いや、なんだかそんな気はしない。いつもは無い活力が、微弱ながらも体に湧き上がるのを感じていたからだ。
 痛覚を無視するよう機械的な動きで支度を済ませる。扉に手をかけ、階段を降りる。一段一段、体とともに気が沈んでいくようだった。もうその必要はないかもしれないというのに。
 リビングから母の飲むコーヒーの香りが立ち込めてくる。同時に、垂れ流している朝のニュース番組がその音を耳に滲ませた。
 暖色系の空間が広がっていた。その暖かみを帯びた視界と陽気なBGMからか、事故の報道をしているキャスターも心なしか楽しげに見える。実際は顔色がよく映っているだけなのだろう。
「おはよう」
「はよ」
 琥珀色の椅子の笠木を持ち、後ろに引いた。テーブルには母が用意した朝食が並んでいる。白ご飯に味噌汁、納豆一パックというなんとも日本人らしい和食だ。僕の健康には気を遣っているのだろう。母はいつもコーヒーにマーガリンを塗ったトーストを合わせている。父もそうだった。
 母のトーストの焼き上がった音がする。ちん、と甲高い鈴のような音と共に電話が鳴った。僕は母を待たずに朝食に手をつけ始めた。中身が零れないように暖かい椀を持つ。口から胃にかけてじわりと染み渡っていく。食事の一口目というのは何だか口内両端の奥歯辺りがきゅっとなる感覚がある。あまり得意ではない。
 電話を取った母は少しばかり長く話していたようで、やっとその親機を元の位置に戻した。
 振り返ると、顔中の筋肉を強張らせ、まるで幽霊でも見たかのような固い表情をしていた。喉元から声を出すのに一苦労しているのが見てとれた。
「どうしたの」
 何気なく僕は訊いた。こんな早朝からの電話の内容は見当もつかなかった。

「清峰くんが、亡くなったって」

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