「希死念慮は明日の向き」⑤

 整理をしようとしても体がそれを拒んだ。脳の命令を聞こうとしないのだ。あるいは、その脳でさえ。
 まさか彼の持つ敵意が、僕だけでなく家族全員に向けられていたなど知る由も無かった。母の浮気も父の自殺の真相も、彼が僕に抱く感情や評価さえ、想像だにしなかった。彼の口から出た全容は、理解や同情ではなく衝撃を僕に齎した。
 母が僕を呼ぶ声がする。磨硝子越しのように曇ったそれは、環境の音色に掻き消されてしまった。
 二人の映る鏡を見て、彼が言った。
「もしかするとよ、いや、忘れてくれ」
 頭の中に大きな鐘の音が響くのを感じた。ぐうらんと、実に不快な音が中を満たした。清峰も暫くの間、黙っていた。
「実はな。俺も読んだことがあるんだよ、あの本」
 恐らく僕が今読んでいるものを指しているのだろう。言葉の真意を探ることすら不可能だった。尤も、今の僕があの本に手を伸ばすかは疑問だが。
「あの主人公、最終的には逃げ果せるんだ。つまり、裁かれることなく物語は終わりを迎えるんだよ」

 真夏のアイスの如く時間を過ごした。非生産的で、ただ在るだけのものと化した。人間とは不思議なもので、そんな毎日も繰り返せば飽きが来る。三日程だったが一日はこんなにも長いのかと驚いた。澄んだ空気は健康に良いと聞いたことがある。外に出て何も考えずに景色を眺めることに決めた。
 十二月三十日。
 何も持たず家を出た。空の容器を揺らし、風の向きに従う。今なら出家だって容易だろう。
 誰にも会いたくはない。肺の凍るようなこの冷気で閉じ込められたい。ゆらゆらと流氷の上を漂っていたい。一つ建物を横切る度、一人の視線を後ろに飛ばす度、自分が徘徊する老人へと成り下がったような感覚に陥った。
 閑散とした街並みに佇む薬局の前だった。
「綿貫くん?」
 清廉な響きが耳に入り込んでくる。聞きたくはない調べと言えた。
「おはよ。こんなとこで会うなんて、奇遇ね」
「おはよう」
 藤代さんは以前のようにばつの悪い表情をしていた。彼女と関わることを避けていた僕のせいだ。自分の傷を大きくはしたくなかった。
「私、何か気に障るようなことでもした?」
 謝罪の言葉に胸がずきりと痛む。反対に怒りが湧き上がるのも感じた。彼女の顔を見る度、奴の顔を思い出す。自分を保っていられるのがやっとだった。
「あいつはやめときなよ」
 意図せず言葉は漏れ出た。
「え?」
 彼女の顔を見ることは出来なかった。しかしながら僕の口は吐く毒を堰き止めはしない。
「佐山だよ。知ってるよ、好きなんでしょ」
 地面で視界を覆う。棘の生えた空気が肌に纏わりついている。口の中の苦虫に思わず顔を歪ませた。
「ど、どうしてあなたが」
「そんなことはどうだっていい。正直趣味が悪いよ。僕をいじめていた人間。ろくでもないし、情け無い男だ。大体なんであんな奴を好きになるんだよ」
 言葉を紡いでいる内に感情が昂ってきた。憤る自分のブレーキが無いことに気付いた頃には、後悔などの憂慮は思考から外れていた。
「佐山に惚れるのはおかしいよ、矛盾してる。いじめを傍観していた自分を責めていながら、いじめていた当人に惹かれるなんて」
 藤代さんは見るからに困惑していた。
「さ、佐山くんは本当は優しい人なの。中学一年で同じクラスになった時は私に良くしてくれた。それに、道端の猫に餌をあげるくらい純粋なの」
 彼女の発する音が耳障りになる日が来ようとは。随分と佐山は想われているようだ。黒板に爪でも立てたような囀りは、単調で希薄な賛美だった。価値無き言葉の羅列に辟易する。
「よく見てるんだね。観察は興味のある証拠だ。同時に、君の脳味噌の小ささの証明でもある」
 歯止めは効かず、どす黒い鉛のような感情を赴くままにぶつけた。まるで麻薬に溺れる中毒者だ。知性を宿す人間の所業とは思えなかった。ましてやそれが自分の仕業など。
「ひ、ひどいわ。どうしてしまったの」
 今は姿を見せていない清峰よりも、彼女が腹立たしかった。
「僕の台詞だよ。僕はこんなにも想っているのに」ぼそりと呟いた。落ちた針の如き小さな音であったが、彼女はそれを拾ったらしかった。
 目を丸めこちらを見ている。
「なんだか気分が悪いわ」
 彼女は踵を返し薬局を後にした。高まった体温が下がるのを感じながら、小さくなっていく彼女の背を見つめた。
 軒下に居た猫と目が合う。猫はぷい、とそっぽを向いて僕を一蹴してしまった。

 僕はその足で学校に向かうことにした。ある人に会うことが目的だ。それが逃避であると理解はしている。褒められた行為でないことも。けれど今の僕にはそれ以外に精神を安定させる方法が思いつかなかった。変わっている彼女なら、こんな小晦日にも学校に顔を出しているのではないかと思ったのだ。
 校門は開かれている。敷地内に足を踏み入れて中を覗いた。校舎は閉まっていた。うちの学校は二十九日から三が日まで完全に閉めると聞いたことがある。
 しかし部室棟は違う。平行に位置する二つの校舎とは別に、部活動の為の施設が端に建てられている。そこなら部室の鍵さえ持っていれば中に入れる。写真部を目指し、目的の扉を開けた。飛び込んできた甲高い声に僕も驚いてしまった。
「良かった。無事だったんだね」
 開口一番、僕を想った言葉を発してくれた。ぐちゃぐちゃに混濁していた脳内に、少しばかり規律が戻っていく。
「今の君、さながら彼女に会いに来た彼氏のようだよ。どうしてここが?」
「部活に精力的な葦科さんならこんな日でもここに居るかと思って。それに、部長だから鍵も持ってる」
「暇だって言いたいの」
 軽口でおどけてみせる彼女。部室には部員が撮ったであろう人物や植物、建物に風景が並んでいた。
「違うよ」
 そう言って作品を視線でなぞる。あまり写真というものに造詣の深い方では無かったが、不思議と興味を惹かれた。彼女はそんな僕をしばらく黙って見ていた。
 これは私見だが、写真には技量だけでなく審美眼が要求される。写真とは「瞬間」を切り取るもの。被写体一つを選ぶのにもセンスと才能が問われるのだと思う。きっと、時間という不可逆的なものの中で瞬間を吟味するからこそ心を動かされるのだ。
「いじめを受けて、解放されたかと思えば、好きな子に告白する前に失恋する。君なら自殺でもしちゃうのかと思ってたよ。まあ、清峰高貴のいじめを耐え凌いだ君がそれくらいで死んじゃうとも思えないけど」
「改めて言わないでよ」
 言語化されると自分の惨めさに嫌気が差した。ここへ来たのは不遇を反芻する為じゃない。同情でこの身を包んでもらいに来たのだ。共感と慰めの言葉が欲しかった。
「彼女。藤代さんは、僕を笑い者にするのが目的だったんだ」
 僕は、怒りに任せ感情を焚べた。
「初めから僕を笑う側の人間の一人。佐山のような人間を好きになり、僕のような底辺の人間を共に貶す。そこに喜びを覚えるんだ」
「ち、ちょっと」
 居ない人間への愚痴がとめどなく溢れ出る。
「彼女を好きになった、罠にかかった馬鹿な男さ。清峰が死のうが彼女に関係は無い。いじめが終わって、かえって自分が近づく余裕が出来た。僕をその気にさせて、再びどん底に突き落とすことを至上の幸福とするんだ」
 そして佐山と共になる。最高の「商品」として、僕を二人の供物にするのだ。
「それは飛躍し過ぎ。被害妄想じゃない」
 彼女は愚かにも口を挟んだ。
「それならどれだけいいか」
「藍ちゃんと少し前に綿貫くんのことを話したことがあるんだ。自分じゃ何も出来ないってとっても嘆いてた。それに、藍ちゃんが佐山くんを好きになったのは綿貫くんをいじめる前だよ。いじめをするなんて思っていなかっただろうし、彼流されやすい人間でしょ。だから清峰くんとかに逆らえなかったのかなーって。だからこれとそれとは別問題」
 藤代さんの肩を持つような言葉に少し苛立ちを覚える。佐山に関しての評価は概ね一致していたのもその要因と言えた。
「随分詳しいんだね」
「え? えと、あの、ほら! 清峰くん達七人のグループってさ、みんな女子に人気だったから」
 人気者はそれだけで許されるのか。顔や頭に運動神経。生まれや運といった要素が免罪符になると。ならば凡人はどうなる。叛逆の機会を与えられる事はなく、標的にされればそれだけで人生は取り返す事の出来ないところまで落ちてしまう。下克上の無い物語に、一体どんなカタルシスがあろうか。
「帰るよ」
 ここにも、僕の居場所は無かった。
「ちょっと」
 葦科さんは僕の腕を掴んだ。反射的に、僕はその手を払ってしまった。尻餅をついた彼女の腕が傍の鞄に当たる。衝撃で中身が散乱した。
 床には、加害されている最中の僕が広がっていた。遠くから何枚も、恐らく半年以上の期間に渡るであろう醜い情景がそこには収められていた。絶句した。
 僕は彼女を一瞥し、外に向く。
「待って!」
 大きな声で一瞬体が固まった。止めてやる義理など無いというのに。
「私は代替品じゃない。綿貫くんの言葉は撤回させないから」

 家のリビングで静寂と向き合う。母は年越しに備えて買い出しへ行った。テーブルがひんやりと冷たい。暖房は点いている。
 清峰が現れた。今日初めてのことだった。しかし常に側にいる事は分かっている。藤代さんや葦科さんとのことも把握している筈だ。
 何も言わず、時折くすりと笑う声だけが聞こえた。テレビは消し、外に風は無い。きっと僕以外には暖房の音しか聞こえないのだろうと思うと羨ましい。
 やがて彼は、閉ざしていた口を開いた。
「お前は、あの女の『小説』だ」
 泥のような心をどうにかする術を知らなかった。黙っていることが事態を好転させることは無いと知っている。沈黙は金にはならない。清峰の戯言が、僕という死屍に鞭を打つことは必然だった。
「どういう意味」
 思わず不可解な言葉の真意を聞き返した。
「はあ。タイプライターの悪魔だよ。その主人公。お前は葦科の異常性癖の消費に使われてるってこった」
 葦科さんの盗撮のことだった。性的趣向は人となりが如実に反映される。たしかに、好奇心の旺盛さが狂気じみた方向へ走っている彼女をよく表していると言えるだろう。
「お前の不遇があいつの栄養源ってのは笑える」
 清峰の言葉はどれも否定したくなるようなことばかりだ。だが合点はいく。世界という不条理なものに対して、彼は答えとも言えるようなものをいつも提示した。発端は彼だといえる事象でも。
「お前に味方なんていない。この世界にそんなものなんて存在しないし、何よりお前自身が信じていない。望んでいない」
「何を」
 僕に追い討ちをかける為の言葉。それでも聞き流すことは出来ない。
「いじめられてる時だって助けに来た友達は居たか? 吹奏楽で一緒の奴だってすぐに知らんぷりだったろ」
 受け入れ難い現実をこれでもかと突きつける。
「結局、お前は独りぼっちなんだ。この世は冷たいもんさ。俺やお前みたいな『人間失格』にはな」
 尻窄みの声は上手く聞き取れない。彼が行う耳元での演説は、罵倒というよりは叱責という方が近いように思えた。
 逃げようと必死にテーブルの感触を求めた。ゆっくりと木材を撫でる。肌が擦れる音が静かな空間に響き、冴え渡った。末端冷え性なので、特段不快に感じる程の温度差は無い。冷たいことは分かっても、不思議と手が吸い寄せられた。
 がちゃり。
 扉の開く音、靴を脱ぐ音、リビングへ向かってくる足音が立て続けに聞こえた。
「お帰りだ。近くの安い店なら一時間は掛からないもんなあ」
 清峰が何か言っていた。
「ふーん、ふん。あら、びっくりした。居たの」
 両手いっぱいに買い物袋を下げた母が帰ってきた。そのまま荷物を僕の目の前に置く。ごそごそと、中身を冷蔵庫に移し始めた。
「話があるんだけど」
 話を切り出すことに躊躇いは無かった。数々の事実を知り、もはや自分に失うものなど何も無いと理解していたからだ。それよりもし、未だ知りえぬことがあるのなら、全てを把握しておきたい。欲が僕を駆り立てた。
「ん、何? あ、ちょっと待ってね。これ入れたら着替えてくるから」
 母はそう言って事を終えた後、自室へ行った。清峰は図々しくもテーブルの上に座って足をぶらぶらさせている。僕の様子を横目で窺っているのが分かった。
「コミュニケーションが少ない方だと思ってたが、わざわざ断りを入れてから話すなんてよっぽど大事な話か? 俺の信憑性でも確かめようって腹か。はは」
 何も間違ってはいない。大方そんなところだ、そう心の中で呟いた。同時に、一つだけ先に小声で彼に聞いた。
「何故清峰くんはお母さんを下の名前で呼ぶの」
 以前感じた違和感。死後急に現れた僕の家で、母を見る目が他人のようではなかった。
 誠子さんと呼んだのを耳にした時すぐには気づかなかったが、後に聞いた話である父を殺した際に、僕ら家族に接触する上での混同を避ける為に下の名前で区別していた。その時の名残、それなら納得出来た。
 だが、やはりそれにしてもおかしい。母に対しても少し不気味に思うことがあった。僕がいじめられている最中はあれだけ顔に皺を増やし、僕と同様の悲壮感を漂わせていた。なのに最近は憑き物が落ちたように生き生きとしている。当事者の僕よりもだ。これほどまでに変わるだろうか。子供一人が亡くなったことに対する後ろめたさのようなものを微塵も感じさせない。
「綿貫はよぉ、誠子さんがいじめに気づいた時のことを覚えてるか」
 おかしな質問に思えた。いじめをした当人が、当時の僕の母ことを訊ねている。あの辛い日々を鮮明に思い出すのは、今の僕でも苦しく感じる。
「初日からひどい怪我だったから、その帰りに気づいたよ。随分心配もされた」
 何も誇張せずに答えた。
「ああ、そうだろうよ。けど、何もしなかったろ」
 瞬間、清峰の顔が恐ろしく映った。周りの景色が澱んでいく。
「そ、それは僕が心配しないよう必死に言ったから」
 彼は遮るように言い放った。
「ふっ、それに大した効力は無えよ。お前の母親がついこの間まで憔悴しきった力のない母親であったのには、大きく分けて二つの理由があった。それは、『元の性格』と『俺』だ」
 清峰市長と不倫していた事を言っているのか。それが計算ずくだった事を糾弾しているのか。僕にはさっぱり分からなかった。
「おっと、噂をすれば」
 母が戻ってきた。薄手の楽な格好に着替え、エアコンのリモコンにある上方向に向いた矢印を二回押すと、僕の前に座った。
「なあに。話って」
 清峰は消えることなく僕らの横に立っている。話をそのまま聞くようだ。僕は彼の話の続きが気になったが、動揺を悟られないように母の目を見た。
「お母さんは、清峰くんと知り合いだったの?」
「え?」
 空気が変わったのが嫌でも分かった。知られたくない部分に土足で踏み入ったのだろう。あれだけの話を聞けば、それを息子に隠したいのは当然だ。しかし僕もここで退くわけにはいかない。腹を割って話し、最後には父は自殺ではなく他殺だったことを知らせ、犯人が清峰らだったことを明かす必要がある。僕が虐待を受けていたことは、言う必要は無いだろう。
「ど、どうしたの。改」
「聞いたことにだけ答えて欲しいんだ」
 寄り道をする気は無い。母の口から清峰の語ったことの真偽、そして僕のいじめに対する思いを聞きたかった。
「どこ、まで知ってるの」
 母が僕に鎌をかけている。僕もそうした。
「だいたいは」
 突然、母は頭を掻きだした。少しずつ呼吸が荒くなってきている。
「やべえ。久しぶりにまじまじ見ると、興奮してくんな」
 清峰の方を見る。彼は右手をポケットに忍ばせていた。
「し、仕方なかったの!」
 大声で肩が揺れた。
「初めて学校近くの地下駐車場で改が乱暴されてるのを見て、すっごく怖かった。あんな表情であんなことをする子供がいるなんて、恐ろしくて震えたわ。そんなの、逆らえないじゃない!」
 何を言っているのか分からなかった。
 駐車場付近での暴行は確かに何度かある。アスファルトで擦り傷を作ったのは一度や二度ではない。いじめの始まった序盤からされていたことだ。そんなことより、傍観していただけでなく、まるで自分も被害者かのような言い草だ。
「ひひっ、現場見られて通報でもされたら面倒だからなあ。近づいてくる大人には気をつけてんだよ。気の弱そうな奴は目で威嚇すりゃあ大体消えてく」
 清峰も息が上がっていた。
「誠子さんを見つけた時は驚いたよ。俺にも少しのトラウマが残ってたらしく、最初は小学生の頃会った時みてえに怒鳴られるんじゃねえかと。けどな、この人は俺のことなんか覚えちゃいなかった。集団でお前を痛めつけている俺を見て、恐怖で固まってたんだよ! ははっ」
 段々とパズルのピースが嵌まっていく感覚が奇妙だった。
「息子を助けるかと思いきや、ゆっくりと後退りし始めた。見て見ぬふりを決め込んで逃げたのさ! だから、俺は一人で後を尾けた」
 清峰は嬉々として言葉を吐いた。
「中学二年生って、もう体も大人な子が多いのね。思い知らされたわ。そう、まるであの人の」
 母の虚ろな表情を覗き込むように前屈みになる清峰。
「犯してたんだよ! その日から! お前の母親を!」
 彼の声が刃物の如く僕の全身を切り刻んだ。刃は常に喉元に突きつけられていた。
「親子共々が手中に収まる感覚ってのは最高だったぜ! トラウマへの決別は俺を成長させた」
 何故母が今、元気な姿を取り戻したのか、その理由が分かった。僕と同じだったからだ。それでいて僕のように清峰の亡霊が付き纏うことはなく、悩みの種は人生から排除されたのだ。
「やっぱり、全部見てたんだ。それでいて、清峰に屈した」
 僕は視界に抵抗するべく目線を下げた。母が何か言っている。温度の上がっている二人に対して、僕は凍えるような寒さを感じた。
「別に頭が良いわけでも無さそうだったからな。写真を撮ってネットにアップするって脅したらすぐに大人しくなった。俺の素性だって明かした。かつて縋った男の息子に虐げられる。情けねえ話だよな。いじめの凄惨さに足が竦み、糾弾された自分に自信も持てないような人間なのさ! この女は」
 母も被害者だった。そう思えば、それこそここに自分の味方がいるではないか。清峰め、君も間違うんだな。そう思った。そして父の話をしようとしたが、母がそれを妨げた。
「でももういいのよ。二人で耐え忍ぶ日々は終わったんだから。じっとしてた甲斐があったのよ」そう弁解する母の顔は紅潮していた。
 どこか他人任せのように聞こえた。さっきの清峰の言葉、「何もしなかった」。
「私だって精一杯で。でもちゃんと改のことは考えてたんだからね?」
 本心で言っていた。それでいて、「何もしない」のだ。僕のことを本気で心配しているのに具体的な策を講じようとはしない。つまり、僕の身を案じることがこの人にとって「唯一の」出来ることだったのだ。正直、どうかしている。
「他の保護者とか知り合いに相談はしなかったの」
「え?」
「警察とかは」
「そ、それは改と一緒よっ。何言ってもあの子の父親の権力には敵わないでしょ? 誰に頼っても無駄だったのよ。でも良かった、高貴くんはもういないもんね」
「試したの?」
「え? だから」
「試してもいないよね。どうして? どうして僕の為に何かしようとしないんだよ! あいつらからいじめを受けてたのは僕だ! 体を見れば分かる筈だ! いつだって一番痛くて苦しいのは僕だった! 誰も助けてくれない! 現状が変わらないことは、いつだって辛かった! お母さんは、母親失格だ!」親に向かって声を荒げた。人生初めての経験だった。やっと僕の体温も上昇した。
 怒号を受けた後、母は自室に籠った。清峰は依然前屈みのまま、母を追うようにリビングから出ていった。
 母が座っていた椅子に目をやる。急いで出ていったので椅子がテーブルから離れている。座面の真ん中が少し湿っていた。
 この世界に自分の味方など居ない。虐待をしていた父と受動的だが狡猾な母。僕を嗤う女に僕を道具として活用する女。そして、僕を殺した男とその取り巻きの屑供。馬鹿で能無しの有象無象が蔓延る世の中で、僕だけが世界を俯瞰で見れていた。
 理解した。全容は分からずとも、少なくとも「僕の世界」に救いは無い。愛はその境界線を曖昧にし、絶望の輪郭は焦点を合わせた。
 死のう。そう思った。原点に回帰する形がベストだと。熟考の末、踏みとどまる。今知りえている現状として、清峰高貴という死後の世界の証明とも言える存在がいる。もし仮に死ぬことに成功したとして「彼と同じ世界に行ったとしたら」。互いに触れることが可能になり、生前と同じ目に遭うかもしれない。つまり、おろそかに死ぬことすら出来ない。自殺は断念せざるを得ないだろう。
 慟哭にも体力が要る。僕にそんな余力は無く、とうに疲れ果ててしまった。

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