「希死念慮は明日の向き」④

 綿貫は寝たようだ。
 随分と落ち込んでいた。初めての失恋は奴に大きな影を落としたらしい。人生の坂を登る瞬間など、奴に訪れる事は無いのだろう。
 あの後、人が居なくなるのを待っていた藤代をそのままに一人で帰りやがった。腹が捩れるようだった。
 自分を支えていた唯一の光。俺が消えたことで均衡は傾き、奴の視界は眩い輝きに埋め尽くされていたに違いない。それが一瞬にして奪われ、闇が世界を支配すれば、誰だって精神を病むことになる。本も読まず飯も食わず、寝具に体を委ねていた。さながら勤続三十年の壮年サラリーマンだった。
 綿貫は朝、陽の光で起床するため窓のカーテンを開けて寝ている。登校する際はそのままにして、学校を終えて帰宅。自室で寛ぐ時にのみ閉め、電気を点ける。
 すぐに寝入ったせいでカーテンは開いたままだった。月明かりで窓に反射する室内。そこに綿貫は居ても、俺は居なかった。

 冬休みに入った。あの野郎、藤代とも葦科とも話そうとしないままでいるときた。連絡先すら知らねえだろうから期間に入ったら終わりだったってのに。いや、そもそもケータイを持っていなかったか。
 綿貫が心ここに在らずという状態になってから、俺は一度も話しかけてはいない。観察に努めた数日だったが、もはや屍と化している。何か外的要因がなければ動きはしないだろう。ひどく諧謔的な風体だ。俺が亡霊ならば、ここで呪い殺すが定石なのだろうが、そんなつまらない事をしても俺の溜飲は下がらない。
 俺はというと、自身の現状の理解を深める時間に充てることにした。綿貫に話しかけるばかりで顧みることを忘れていたからだ。
 煙たい景色から一つ瞬きをした時には奴の近くで形を為した。今では綿貫の行動範囲が俺の存在圏内なのだと推察出来る。存在、というよりは顕現という方が正しいか。
 意識ははっきりしている。触れたり認識されたりという事が出来ないだけで、感覚としては生前と然程変わりはなく、主観的に死んだ自覚というものが薄かった。しかし体は違う。形而上とも形而下とも呼べる狭間の存在。食事も睡眠も必要ない。三大欲求のうち二つが無いなど、人ではなくなったかのようだ。見てくれだけが俺を人間のままでいさせてくれる。
 身寄りは少なく、気にかける人間も多くはない。そんな中、一つだけ知りたい事がある。父だ。俺の夭折を知り、父が何を思っているか。涙の一つでも流してくれているだろうか。まあ、大方の予想はついているのだが。

 突然、インターホンの音が俺達二人の意識に流れ込んできた。
「ん」
 まるきり全てを無視はしない。奴は母親の居ない状況で居留守を決め込むような人間ではないらしい。大衆向けの恐怖映画に出てくる腐った死体のように玄関へ近づく。死んでいるのは俺の方だろうに。
 扉を開けると、見知った顔があった。
「あ」
「よ、綿貫。元気してたか」
「ま、まあぼちぼちです」
 清田とかいう三年生だ。こいつの父親が激しい剣幕で家に来た時は驚いた。鬱陶しい正義漢を痛めつけ調教したと高を括っていたが、親子してしつこい性格をしていた。
 そういやこいつ自身は、俺が死んでから綿貫に会うのは初めての筈。真面目すぎるきらいがあると記憶していたが、どういった了見だろう。ぎこちのない顔で作り笑いを日に晒している。
「遅くなって悪かった。お前に気を配ってやれるほど余裕が無くてな。父さんは平気そうだったけど、俺には少しきつかったんだ」
 なるほど。声色と表情から清田の意図は伝わった。自分が俺を殺した原因だと思っているらしい。見上げた良心の呵責だ。実際のところ無関係とは知るまい。
「俺がやったことが間違ってたのか。もっと平和的な解決方法があったんじゃないのか。清峰に寄り添うことで見えた筈の景色を考えなかったのか。後悔しない日はないよ」
 実直な人間ゆえに過度な加害者意識に苛まれる。善悪の指針や正義の物差しというものは、如何様にも自らの首を絞めるものなのだろう。
 矜持に縛られて生きる。余白を塗り潰された人生は息苦しいものになると知っていても、それは変えられない。選択の自由はあれど、若くして夢見た憧憬は絶対を誇る。残るは、付け焼き刃を弄するちっぽけな未来の訪れだ。
 こういった人間には反吐が出る。
「お前だってかなり参ってる筈だ。見ればわかる」
 綿貫の憔悴は一目見れば瞭然だった。
「そう、ですね」
 下唇を噛む綿貫。清田は察するように明るい声色に転じさせる。
「とは言え、お前が今後の人生ってのを謳歌出来れば、俺も父さんも少しは救われるよ」
 瞳を大きく見開いた。他人には分かるまい、綿貫改の置かれた状況は。
「それならどれだけ良かったか。清峰は、死んでませんよ」
「は?」
 こうして二人の中学生の会話を傍から見聞きしていると滑稽極まりない。一方は勝手に私情を挟み苦悩している。そしてもう一方は己のこと、己の身辺のことを知らな過ぎる。無知は罪とはよく言ったものだ。
「失礼します。気にかけて頂いて感謝はしてます。けど、今は立て込んでて人と会いたくないんです」
「ちょ、待てよ綿貫」
 清田の制止を聞き入れぬ扉の音が静寂に残響した。

 綿貫はその足で浴室脱衣所の洗面台へ向かった。一歩一歩、まるで徘徊する老人のように鏡を目指す。気温は低いが今日は散歩日和と言えただろう。二階の自室以外の電気は消していた為、昼間ながら家全体が少し仄暗くなっている。向かう先から、綿貫が俺を呼んでいるのは明白だった。
 奴は頭(こうべ)を垂れ、洗面台の天板に両手を付けていた。気配を察知したのか、ゆっくりとこちらに目を向ける。
「久しぶりに姿を見せたね、清峰くん」
 清田がインターホンを押した時点で、無意識に可視化させてしまっていたらしい。先輩とのやり取りも、さぞ居心地の悪いことだったろう。
「もう現れないかと思ってた」
 おかしなことを言う奴だ。それともただの希望的観測なのか。綿貫はそのまま続けて私見を述べた。
「君は、僕が希望に満ち溢れている時にのみ現れた。つまり、ずっと闇の中を彷徨っていた僕が見せた抑止的な装置だと考えたんだ。盛者必衰。自壊を防ぐ制御機能としてなら、幻覚を容認出来た」
 べらべらと探偵でもなった気の饒舌ぶりは鼻についたが、中々の推理だと思った。しかし所詮は自分の思慮。都合の良い解釈とは真理には程遠い。
 綿貫はまだ何か言いたげだったので、黙って次の言葉を待った。
「けどそうじゃなかった。幸せに浸かっていけないという戒め、それは常時の軛だったんだ。今までの長くない人生で得た教訓を踏まえれば分かったことさ。僕は幸せになれない。なっちゃいけないのかも」
 悲観的とも思える自己分析は拍手に値した。よくぞその答えまで辿り着いた。何も知ろうともせずのうのうと生きて、激情の渦に居ても気づかない。そのくせ他人を見下し胸中で嘲笑う。
 どうしようもなく、俺を苛立たせる。
「良く分かってるじゃねえか。お前は生涯苦しむべきなんだよ」
 瞳から光は消えていた。俺の言葉を否定せず、甘んじて受け入れる綿貫。鎮火した炎に何をやっても無意味だ。それはもう炎ではないからだ。それでも、奴の顔を見ていると嗤わずにはいられなかった。
「藤代の好きな人が自分じゃなくてムカついたか?」
「うるさいな」
「しかもよりによってあんな小間使いのような人間など、見る目が無いと失望した?」
「黙ってよ」
「俺に当たるな。お門違いだ」
「黙れ」
「まあお前には同情するが、俺にいじめられてた時に比べりゃ屁でもないだろう」
「口を閉じろよ!」
 激昂した声や表情とは裏腹に、奴の瞳は深淵のようだった。ニーチェには頭が上がらない。瞬間、奴の中に潜む怪物が萌芽しかけているのを感じた。もう一押しというところまで来ていた。
「君はもう『終わったこと』なんだ! 僕に構わないでくれよ!」
 随分なことを言ってくれる。触れられない俺に対しての度胸はあるらしい。「他」と違いこいつの尻尾を振らないところだけは評価していたが、噛み付く勇気は知らなかった。余裕を崩さず、毅然とした態度で聞き入れてやるとしよう。
「君という人間が分からない! 人を痛めつけることでしか存在理由を見出すことの出来ない加虐性愛者だ! 可哀想な人間だよっ。誰からの愛も貰えずに育ったに違いないっ」
 何だと。目の前の愚者は世界の知見だけでなく、物事を俯瞰で見る視点さえも持ち合わせていないのか。理解に労力を割こうとすらしない奴の言葉は理解に苦しむものだった。それは俺の逆鱗に触れた。
「くそ! なんだって僕が選ばれたんだ!」
 自分が最たる被害者であることを疑わない。そのくせ捻じ曲がった人生観は生来のものだ。綿貫改が涅槃に至ることは無いだろう。
「黙って聞いていれば。お前は何を知ってる。一体何を」
「何をって」
「藤代にしろ、少し話しただけで小説の主人公にでもなったつもりか。お前だって気付いてはいたんだろう? あいつの親切は恋愛感情ではなく、贖罪としてきているということを」
 眼前で腕を振るう綿貫。何度も俺の体を通過する。人を殴ったこともない男の攻撃は、蝿を取り逃す猫のようだった。
「いじめの主犯格が死に、好きな子が実は両思いだった。そんな都合の良い話は無え」
 願望と事実の齟齬は綿貫の防波堤を壊した。感情が顔の中で掻き混ぜられている。最高の見世物だったが、至上の喜びよりも先に、瞋恚が脳内を漆黒へ染め上げた。
「教えてやる。お互いの業ってやつを」
 汚れた血は簡単には浄めれない。濾過することは難しいのだ。この世界の隅までが濁っているのだから。

 父は市長だった。たったそれだけで家は裕福な筈だった。ごく普通の生活を送っていれば。
 家は寂れた二階建てのアパート。懐は常に寒く、収入に反して生活は困窮していた。程無くして母は蒸発することとなる。
 虐待をされたことは無い。暴言を吐かれたことも。加えて、期待をされたことも無く、父の笑顔を見たことも無かった。
 時折ベランダで小さく愚痴を吐きながら煙草を吹かす父の背中が印象強い。薄い豆電球の明かりの下、目を擦りながらその姿を見たのを覚えている。金は全て女遊びに消えていた。
 綿貫改は小学五年の頃、夏休み明けくらいに転校してきた。市内には幾つもの小学校がある。中学校は少ない為、進学すれば転校前の同級生とも会うことになる。引越し程度でわざわざ転校してくるとは、学校は少しでも家から近い方がいいのだろう。クラブや習い事の所属も含めれば、学校が違えど知り合いに出くわす。決して奴は社交的ではなかったが、馴染むのに時間がかかったというわけでもなかった。
 問題は母親の方だった。既に出来上がった保護者間のコミュニティに中々入れなかったのだ。その中で孤立することは親として避けたい筈。父は綿貫の母親と親しくなっていた。後から知った時、その外見を目にし納得した。
 父は善良な人間ではない。下半身でしか物事を判断出来ぬ木偶だ。ある日、俺は現場に遭遇した。学校からの帰宅時だった。家で女性を見ることは少なくなかったが、その顔を見てぎょっとした。参観日で見たことがある、転校生の美人な母親だったからだ。父が家を空けることが多くなった。元より無かった俺への関心は完全に消え去った。
 友人と公園で遊んでいた。家では父の書斎だけが唯一の遊び相手だったが、外は違う。六年にも上がってサッカーに耽っている仲間はそう多くなかったが、体を動かしている間だけは柵(しがらみ)から解放された。
 ファストフード店に寄って帰ることにした。ほんの四人しか残っていない状況で、所持金を合わせてポテトのLサイズを二つ頼んだ。店内のテーブルに座ると、ある夫婦が視界に入った。綿貫の両親だった。
 上手く溶け込めていない現状を嘆き相談しているようだった。父親は「心配無い」と宥めている。その中で父の名前が出てきた。するとどうだ、母親は父を罵った。裕福な人間はどうとか、どうせろくでもない人間だとか。ここが住みづらいのはあの男のせいだと。聞くに堪えなかった俺は意識を友人に集中させ、冷えて萎びたポテトを口に放り込んだ。
 家に帰った。動き周り、腹も膨れた。じゃがいもは溜まりやすいのが庶民的で助かる。疲れから俺はすぐに寝てしまった。変な時間に寝たからか、夜中に目を覚ました。物音がうるさかったのも理由にある。夜の雑音には慣れている筈だった。情事はいつものことだからだ。しかしその日は少し違った。薄く目を開けると、夕暮れ頃、父を謗っていた人間が跨っているのが見えた。用を足しに起きることは叶わなかった。みっともない姿で喘ぐ母親は、性に奔放な父と同じ醜い表情をしていた。鳥肌が立つ程の嫌悪感が全身を蝕んだ。
 俺は綿貫一家に目をつけた。他クラスにいる息子、綿貫改の行動を観察する。特段おかしいところはない。
 帰り道を尾行した。何かが得られれば良し、そんな浅い考えだけで決行した。結果は最上を示すこととなる。
 家に到着すると同時に、父親が帰ってきたではないか。車をガレージに収めている。何やら綿貫改に身振りで合図をしている。駆けてきた父親は、硬直した息子の肩に手を乗せた。小さな体がびくりと動くのが見てとれた。綿貫の住まいは一軒家だった。
 翌日、俺はあることを確かめることにした。次の授業が体育の時を狙う。休み時間の内に着替えを済ませる必要があるからだ。貴重な時間を消費し、隣へ出向く。予想は当たってしまった。注視しなければ気づかないだろう。服を脱ぐ僅か一瞬、体表にある薄い暴力の痕。皆と同じ振る舞いをし、その異物を風景の中に溶け込ませていた。水泳はどうしているのだろうか。献身的な夫に見えたが、子に見せる表情は違ったらしい。
 綿貫の尾行を繰り返し、ついに父親との接触に成功した。俺は問いただした。息子である綿貫改の体にある痣の理由を。父親は何一つ顔色を変えなかった。それどころか、戦慄するような瞳を向けてきた。何も言葉が出てこなかった。俺は自分がこんなにも非力な人間だったのかと失望した。父親は何やら言っていたようだが断片的にしか思い出せない。利害の一致がどうとか、これが円滑な家庭の利口な運営方法だとかほざいていたのを覚えている。コーヒーの香りが鼻をついた。
 学校で放心状態になりながらも、綿貫に目をやった。この時気がついたことがある。奴も、同じ「瞳」をしていた。
 自分以外の生物を「下」に見ている。親子が互いにでさえ、そうであるのだ。周りが笑っている状況で笑わず、楽しんでいる状況で楽しまない。張り付いた愛想笑いは剥がれることのない瘡蓋のようだった。そしてそれを甘んじて受け入れているように見える。
 無性に腹が立った。不満を募らせているのに、現状を変える気概が無い。どうにかするではなく、どうにかなる。他力本願で人生を凌いできた人形。どこかで見覚えがある。
 父子は理解した。ならば母親はどうか。一縷の望みを抱き、母親に接触した。学校を休み、家に一人で居るところを狙ったのだ。初めは探偵気取りの子供と笑っていたが、俺の連ねる言葉を聞くほどその様相は変わっていった。そしてある瞬間、荒げた声が玄関先に響いた。
 本能のままに近づいた父。困っていたところに現れた救世主へ縋るように仲を深めた母親。そういう図式だと思っていた。だが違った。ここで俺は、女が父に近づいたことが全て計算ずくだったことを知った。カーストのトップを手玉に取れば有象無象の支配は容易だと踏んだのだ。事実、女の予想は的中した。金にしても、父は崇拝したようにつぎ込んだ。
 話す限り、母親は父親の虐待を知らないようだった。不可解に思ったがこちらから開示することは止めた。あれ以上、気味の悪い女と関わることは避けたかったからだ。
 父と綿貫の母親は長続きしなかった。父が興味を無くした人間への扱いは無慈悲なものと言えた。今までの関係が嘘のように「他人」へと姿を変えるのだ。執着は母親の方が強かったようで、父に涙の懇願をしていた映像は鮮明に焼き付いている。地位に金。父の付加価値に目が眩んだ女は、いつしかその恩恵に依存していた。
 三者三様。歪な家族だった。父親も母親も息子も、皆が身の毛のよだつような人間性を有していた。
 二人の関係が終わり、以前と同じ日常が戻ってきた。しかし同級生である綿貫改との関わりを完全に絶つことなど不可能だ。腐りそうになる視界に耐えながら日々を過ごした。そして一つ、自分の中で興味が湧いた。父親を殺したらどうなるか。脅威を取り払う。日毎、新しい痣を増やしている綿貫改に変化があるのか見てみたくなった。
 以前の尾行が役に立った。一家の話している内容を擦り合わせた結果、父親が不動産管理会社に勤めていることは分かっていた。この付近ではそう多くない為、しらみ潰しに当たることにした。子供だからと一蹴されても、しつこく綿貫という名前を出す。やがて願いは成就した。
 もちろん俺が赴いたわけではない。顔が割れているからだ。俺は仲間を使った。息子と同じクラスの友達を装い、父親に質問させた。「大人の使っているお薬とそのしくみ」というタイトルで自由研究をしており、その材料としてクラスの保護者にインタビューをして回っている。こういう筋書きだ。父親は特に不審がることなく答えた。「僕は至って健康体だよ。そうだね、強いて言えば最近寝付きが悪いってことくらいかな。使ってるのは」とべらべら不用心に言葉を並べた。ストレスの為不眠症らしく、睡眠薬を服用しているらしい。これを利用しない手はない。
 他殺が疑われると後々面倒だし、直接真っ向から殺すというのは現実的ではない。自殺に見せる必要がある。
 父親の休日を狙った。綿貫改は学校、母親は家の車で買い物に行っている。父のおかげで贅沢が肌に染み付いたのか、わざわざ遠くの高級店に行くことが多い。家族を調べていた時の平均を考えると、一時間もすれば帰ってくるだろう。迅速に事を進めなければならない。父親が、休みの日にテキパキと動くような人間でなくて助かった。
 自宅へ押し入った。先日の自由研究のまとめという口実だ。薬の現物も見せてもらうことが出来る。
 父親は客人に茶を出した。こんなものしかなくて済まないと前置いて。父親はコーヒーを飲んでいた。冬で、自宅であるのに、ホットではなかった。仲間には室内でも手袋をするように言っている。指紋を残したくはなかったからだ。冬なので手が悴むことを着用の理由にすると、父親は納得した。「君もか」と。
 ある程度話をし、薬を持って来させる。同時に俺へ携帯で連絡。外で待機している俺は薬の到着を待ち、家のインターホンを押す。すぐに隠れ、父親が玄関に行っている間に仲間が父親のコーヒーに睡眠薬を入れる。机の上の袋には一日一錠と記述されていたらしい。二錠多く飲ませろと言ってあるので、計三錠をなるだけ割ったり砕いてから溶かす。検死で成分が少々多めに出ても不思議には思われない。この後を考えれば尚更だ。冷えていた為、溶け切るかどうか不安だったと後から仲間に聞いた。帰ってきた父親と談笑しながら完飲させる。父親が眠りについたのは、家に上がってから実に三十分後のことだった。
 時間が無い。俺は仲間に鍵を開けてもらい屋内へ侵入。父親を二人で浴室へ運んだ。十一才の小学生二人、無理難題という程ではなかった。給湯器のボタンを押し、急いで湯を張る。服を脱がせるのに手間取った。
 持参したカッターナイフを取り出し手首を切った。致死性の低い方法だが、第三者が行う傷口の深さと万全の環境が整っていれば難しいことではない。もちろん両手首、方向は斜めだ。横なら橈骨や尺骨といった肘先からの前腕部にある骨に当たり刃を深くは入れる事が出来ない。縦なら血管に沿う形になる為、決定打になりにくい。俺達は斜めに交差するよう何度も、抉りながら力を入れた。
 手首だけでなく全身を浴槽に浸からせる。温水で血管を拡張させて出血量の増加を図り、浸けたままにすることで血液の凝固を防ぎ、長時間の失血を狙う。子供ながら鮮やかな手際と言えた。
 テーブルの上には母親が帰ってきた時の為、事前に用意した書き置きを置いた。父親は自室で寝ていることにし決して起こさないように。風呂は必ず夜の九時に合わせて沸かすように。
 翌日、微かな不安を抱きながら近くのコンビニエンスストアで新聞を確認した。作戦は上手くいったらしかった。
 同級生ということで、父親の通夜には顔を出した。綿貫の表情を見れることに期待が高まった。喜ぶのか悲しむのか、父の好きな競馬よりも予想は難しかった。
 結果は、そのどちらでもなかった。あの日の奴は何も感じてはいなかった。自らの人生の全てが些事であるかのような面持ち。それでいて、父親の死後も奴の性格は変わらず、あまつさえ奴自身に少しの影響を及ぼすことすら無かったのだ。
 やはり俺は苛立ちを覚えた。それも、以前とは比べ物にならない激しい嫌悪と拒絶。矛先の向く場所を探した。
 やがて一つの答えに辿り着き、それを二年半の後、実行することとなる。

「以上が事の顛末だ」
 言葉を失う、とはこんな姿のことを言うのだろう。絶句している綿貫は傑作だった。
 片親になった理由の真実を知れたのだ、無理もない。何故自分を虐待していた父親が自殺を図ったのか。当時は精神を病んでいてもおかしくない行動が多く見られた為、疑問にも思わなかったのだろう。子供二人の殺人にしては手際が良過ぎたと自負している。
 顔は青ざめ、震えている。怒りが動揺に包まれ
、自らの感情を縛っている。
 鍵の開く音が聞こえた。長話をしている内に日が沈んでしまったらしい。
「おら、誠子さんが来たぞ。俺の言ったことをよく反芻するんだな。ま、せいぜい楽しめや」
 奴の口は開いたままだった。

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