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夏の休日

漸く自宅待機解除まで、あと3日となった。することがなくゴロゴロと日々過ごしているものだから、体中がカチコチである。結局今月の整体は断ることになってしまったし。今はただ人気の無い山奥の小さな天然温泉で、1日ゆったりと湯治したいものだ、と思っている。

朝風呂にまず浸かって体を洗い流し、豊富な温泉の溢れる音と、鳥や虫の鳴く声にのみ囲まれる。田舎の奥地なので、平日は通る車もごくわずか。休憩所の広間は貸し切りで、贅沢にその真ん中に火照った体を預けて大の字になる。い草の心地いい匂い、一層、静まる世界にとろりとそのまま床がとろけて沈んでいく感覚。味わっては、ゆっくり目をあける。ゆっくり起き上がる。

「おばちゃーん、瓶ビール1本頂戴」

「あいよ」

愛想は悪いが人間味のあるいいおばちゃんだ、おばちゃんというかもうおばあちゃんだ。夫婦2人で切り盛りしている。じいさんは受付の椅子に座りながらずっとテレビを見ている。誰もいないので、それが広間まで届く。高校野球だ。若い歓声に、ふと目を閉じて、なにかが心をよぎるのを待つ、楽しむ。

「はい」

キンキンに冷えたビールが届く。山奥の温泉なので、大広間には時折涼しい風が吹く。体が冷えたらもうひとっぷろ浴びるのもいいかな、じかんはまだまだある。ミンミンゼミが鳴いている。近くを、小学生くらいのこどもたちの列が通った。広間のど真ん中に一人でいるので目立つ。「こんにちはーー」と挨拶される。僕は何となく照れて頭を低くちょい、と下げては苦笑いをする。思いのほかそのこどもたちの列は長く、そのあとは飲んで酔っ払ったふりをして横になってしまった。

ほろ酔いになった。緊張の汗で一時熱くなったが、すぐに寒くなった。くしゃみが出た、しかしまだ面倒だった。このまま夏の森に溶け込んでしまいたい、そう思った。「そうだ、そうしろよ」と言わんばかりに、ミンミンゼミやニイニイゼミがひと際大きく鳴いた。ほどなくして眠りに落ちた。

「はっ、くしゃいっ!」

自分のくしゃみで起きる。寝冷えをしたか。しかし日がだいぶ高くなり、縁側から日差しはだいぶ内側まで伸びていた。誰もいないことをいいことにしてそそくさと席を移す。日差しが強い。まるで部屋は分断されたかのようにはっきりと、白と黒に分かれていた。汗がすぐにじわっと流れたが、より激しくなったセミたちの鳴き声に囲まれて、なんだか、どうでもいい気持になっていた。

しかし汗ばむ。持参した手ぬぐいももう、手ぬぐいの意味をなさなかった。それをそのまま畳や机の上に置くわけにもいかなかったので、結局風呂に向かうことになった。脱衣所の水道で手ぬぐいを簡単に洗い流しては、絞ってタオル掛けに干した。体を軽く流して、頭だけシャンプーをつけて軽く洗う。「メンソールシャンプー、家からもってくればよかったなぁ」と、頭を洗いながら独り言を吐く。湯船も窓側から3分の1が直射日光に支配されていた。「っあーー。」と湯船につかる。お湯につかるとおなかが鳴った、太陽も高い、昼時か、と思った。

風呂を上がって、広間の窓際に手ぬぐいをほした。ハンガーなんてなかったから適当に机の脚にかけたが見る見るうちに乾いた。僕はもう汗をかくのは面倒なので、再び内側の席に移動した。荷物を置きなおして受付にいく。

「すみませーん、味噌ラーメンいいですか?」

「はーい、あ、今野菜きらしちゃっててね、具なしでもいいかい?」

「全然、大丈夫です」

「ごめんねー」

そんな会話をしながらもじいさんは高校野球に夢中だ。しかも耳が遠いので音量がでかい。果たしてちゃんと味噌ラーメンは届くのかと不安になったが、野菜の話をしていたので、とりあえずラーメンは届くだろう。それならいいやと思った。

広間に戻る途中、今度は自販機でビールを買った。アサヒの生だ。ぼくは夏にはアサヒをよく飲む。銀色の缶が涼しく見える、それだけの理由だが。そして即座に火照った額や頬につける。この時の快感といったら無い。そして夏にいることを感じるひと時でもある。

しかし1度2度にしておかないと、今度はビール自体がぬるくなってしまう。心地いいのを諦め、すぐ広間に戻って座り、「プシュッ」と開ける。あとは喉の欲するまま、ぐびぐびと飲むだけだ。「っあーー」

缶を持ったまま腕で額の汗を拭う。くらっとしそうなほどの午後の日光がまぶしい。それに併せて蝉たちも今だ!と言わんばかりにわんわんと鳴く。ぼくはまた一口ごくんとビールを飲みながら、ただただ鬱蒼とした木々を見つめた。

じいさんが危うい揺れとともにお盆でラーメンを持ってくる。

「ありがとうございます」

「あいよ、あついなぁ?」

「あついっすね」

汗でくたくたの下着で。じいさんはまた受付の小さな丸椅子に戻っていく。

丁度12時過ぎ。

きっとニュースの時間を見越して来たのだ。またすぐ高校野球は午後の部が始まる。ぼくは具なしのインスタントラーメンを頬張る。また汗が出る。昼寝したらまたひとっ風呂浴びるか。


_________夏の休日。


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