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哲学の実践について〜徒然話

「皆さん、哲学してますか?」

という、謎質問から今回は記事を始めたいと思います。

とまあ、こう聞かれて、「はい、やってます」と答える人はほとんどいないでしょう。普通、哲学へ触れる機会が少ない方は、この質問に答えるのが難しいでしょうし、そこそこ訓練を受けた哲学科で思索を深めている方なら、自分が普段している思考・思想活動を「これは哲学なのか?」と、むしろ疑問に思うでしょう。
(もちろん、自信をもって「はい」と答え、自らの思う「哲学」を語る方々もいらっしゃると思います。そして、私はそれを非難する立場にはありませんので、ご了承ください。)

ということで、この質問で何が考えたかったのか、というと「哲学の実践」というテーマについてです。

哲学の名を冠するものは様々ありますが、例えば、大学の哲学専攻、書店に並ぶ数々の「哲学」本、哲学カフェ、〇〇さんの私の哲学みたいなやつなど、多様な哲学が巷には溢れているようです。

私としては、今のところ「これが哲学だ」とはっきり言うつもりはありません。

ただ、もともと専攻だった古代ギリシャ哲学研究の文脈で言えば、東大の納富先生が、ソクラテスやプラトンら哲学者が、ソフィストと対決して自らを区別しようとする中で自らの立場を示してきた事を述べていますが、それと同じように、「哲学の実践」を称するとき、他の思索と区別する必要があるように思います。

しかしながら、この問いは基本的には哲学の実践を目指す人の問いであり、そうでない人たちにとっては関心と意義の薄い問いでしょう。それでも何か重要な意義を持つとすれば、なにかの間違いで「〇〇とは何か」とか、「私たちはどこから来たのか?」といったいわゆる哲学的な問いに導かれ、哲学をしなければと意気込み始めた時くらいでしょう。

さて、私自身はといえば、思い浮かべる哲学の実践のモデルは基本的にソクラテスです。彼は市井で、若者や高名な弁論術師や政治家たちを捕まえ、「徳とはなにか?」などのような、人々が普段価値判断につかう概念を具に検討していきました。結果はご存知の通り、ソクラテスの対話相手が「知らないということを知る」(無知の自覚)か、怒って退場するかのどちらかです。

このモデルに近いといえば、哲学カフェですが、創案者のマルク・ソーテ自身もソクラテスの姿を思い浮かべていたそうな。実際のところは、ソクラテスのように「怒って退場させる」ような運営はしないんでしょうが…。

さて、そのどちらにせよ、その対話内容自体にある程度の論理的な妥当性が必要です。ソクラテスにおける基本的な推論の形は、「〇〇であるとすれば、〇〇ということが言える」→「〇〇が言えるとすれば、〇〇ではない」ですが、一般的には、もっとざっくばらんに飛躍も含みつつ、自分たちがどんな前提を持っているか疑いながら、様々な事象と思考を向かい合わせるような形になるでしょう。

これは、考えるときのごくごく基本的なプロセスですが、最近思うのは「哲学を実践する」ための基本姿勢として、それを持っていればいいんじゃないか、ということです。少なくとも、この姿勢を持ち、他の人の考えに耳を傾けることができるのならば、対話が成立し、その中で既存の哲学的な発見を凌駕するものも生まれてくるかもしれません。(もちろん、優れたものを対話の中だけで生み出すのは非常に難しいでしょう。ふつう、多くの哲学者はどこかで着想を得たアイデアを、自らの継続的な思索によって豊かなものにしていきます。)

というわけで、私としては、案外みなさん「哲学してる」かもしれませんよ?と言いながら哲学に誘おうとする、少し強引な締めくくりです笑

それでは。


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