京都のメキシコ人。
「価値」の大きさは、そのとき人が抱えている感情に左右されます。
生き物のようなものです。自分が大きな働きをしたと思っても、相手にたいして喜ばれないこともある。その逆も然り。
“その逆”のお話。
ふと、思い出した。「京都のメキシコ人」とは何かというと、京都で出会ったメキシコ人のことです。そのまんまです。
名前も聞いていない。行動を共にしたのは正味30分くらい。
もうずいぶん前になるけれど、一人旅で京都に行ったときのこと。季節は秋に差しかかり、風の中に冷たさが一筋、二筋ほど混じりあってきた頃です。
突然思い立って行ったのですが…余談ですけど秋に京都に行くものじゃないと思った。観光客が多すぎて大混雑。自分も観光客の一人だったけど(苦笑)。
オホン、話を戻します。ある夜のことです。
鴨川の近くで早めの川床料理を堪能したあと、行ってみたかった温泉へ。レトロな文化遺産、「船岡温泉」。見事な彫刻やタイル絵があると知り、足を運びたいと思っていたのです。
前評判とは裏腹に、“良い意味”でこじんまりとした街の銭湯という趣。観光客より、どちらかというと地元の人が日常使いで来ていたように覚えています。
お風呂を堪能したあと、JR京都駅付近の宿に戻ろうとしていたときのことです。
記憶が定かではないけれど、明らかにソワソワとしながら困っている外国人の男性がいる。バスの路線図が掲示されていて、それを見ていたのかもしれない。
初めての土地をバスで移動するのってハードですよね。この船岡温泉には、バスで来るしか手段がなかったのです。
このメキシコ人も、たぶん僕と同じように宿に戻りたいのだろう。そしてどう帰ればいいか分からないと見た。
英語をろくに話せない僕が、どうやって声をかけてバス停まで連れて行ったのかはもう覚えていない。聞けば(だからどうやってだか覚えていない)、僕と同様、京都駅に戻りたいのだそうだ。
・・・それはちょうどいい。んじゃ、一緒に行きましょか。
そしてまた、どうやってコミュニケーションを取ったのかも覚えていないのですが、外国人の彼がメキシコ人で、家族がいること。年のほどは当時50歳前後。一人で京都に来てみたかったからやって来たなどなどを、バスの車内で聞きました。
バスに乗っている15分だか20分だか、終始彼は感謝し続けてくれていた。
そもそもどうやって船岡温泉まで行ったのだろう? と思いながらも、見知らぬ外国に一人やってきて心細さを感じていたのも理解できました。
心細い。でも楽しみたい。でも心細い。もう夜だし。そんな、ちょっとスリルにも似た感情。
京都駅でバスを降りたときも、やはり彼は精一杯、感謝の情を示してくれました。「ここからなら分かる」。たぶん、そのようなことをいっていたのだと思います。ハグをされたような、されなかったような(笑)。ともかく、そこで別れました。
僕のような国内の観光客なら、たとえ道が分からなくても、銭湯の番頭さんにも、他にいたお客さんにも、聞くことができたはずです。
だから感謝こそするけれど、バスの座席に座ったとたん、その感情を忘れてしまうかもしれない。
しかし土地勘がなければ文化も言語も違う国で、暗くなった夜、自分の居場所もよく分からず移動するにも移動できない人の感情を考えると…声をかけた僕の働きは、メキシコ人の彼にとって感動レベルだったようです。
今回、お伝えしたいことはこうです。
道を教える。付き添ってあげるという単純なことも、相手が抱える感情(不安、心細さ、痛み)によって価値の大きさが大きく変わるということ。
僕の方は、行き先がたまたま同じだっただけです。違っていれば、銭湯のなかの誰かに頼んだかもしれません。
しかしメキシコ人の彼は、僕との偶然に感謝し、単に付き添ってもらった以上の価値を間違いなく感じていたはずです。様子を見たところ。
・・・え、こんなことでそこまで感謝してくれるの?
本当にずいぶん前のことなのですが、書き始めたら鮮明に思い出すことになりました。そうか、あれが価値というやつか。
小さな行いで大きな感動を感じてもらえたエピソードを、寄せ集めてみてください。
価値という言葉、なんともアバウトでよく分からないものの1つですが、そんな作業で身近に感じられるようになると思います。
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