見出し画像

日曜日のnote:噂話に慣れる日は来ない


この日曜日のnoteでは、Aセクシャルな私の悩み・経験・過程等、様々な支えと共に今、そしてこれからのことを記録していきます。同じ悩みを抱える人の目に偶然止まった時、どこか楽な気持ちになれますように、そして読んだことをすぐに忘れられるくらい優しい日常になりますように心を込めて。



===


子供が大人に憧れるのは長く生きている分の尊敬と「格好いい」と思うからであり、大人は「格好つけること」が上手くなっただけの生き物だということまでは見破ることが出来ない。本当は精神的大差はないはずなのに、そのメンツを保たなければならないのが大人としての役割なのだとすれば、私はそれをしっかり果たせているのだろうか。


多分その答えは「ノー」。自分の欲望のままだ。人のことを大切にしたいと思っているのにすぐに傷つけてしまう。恋愛関係を望むことなくこの人と一生友人でいたいと思ってもどちらかに恋心や欲が芽生えた段階でその関係性は一方通行で終えてしまう。そういう生活をしてきた時間が長過ぎたのかもしれない。元恋人達はとても優しい人たちばかりで、私のことを決して悪く周囲に言わなかったけれど、全く関係ない人たちが話を飛躍させてしまうのはどうすることもできなかった。



昔から噂を立てられることが多かった。ヒソヒソとしたその空気感に気が付かないほど鈍感ではなく、面白おかしく誇張された会話に馬鹿にするような笑顔、汚いものを見るような目。何度経験してもそして、幾つになっても慣れないものだ。学生の頃に比べて露骨な状況はなくなったけれど、噂話が好きな人間はどの場所にもいるもので。行く場所行く場所で苦しむことは「仕方ない」と言う言葉で済ませていいはずがないのに。


===


YoutubeやInstagram、Twitterは多くの人が利用する媒体で、誰でもリアクションを残せることが大きな魅力だけれども、私はそのコメント欄が嫌いだ。良いリアクションの中に必ず傷つけるコメントをわざわざ残す人がいる。顔が見えない分、リスクが少なく気が大きくなっている人たちが多く住んでいる。その発言がいかに空気が読めていなくて、普通に考えればダサくイタく、汚い流行り言葉。どうしてわざわざその言葉を置き去りにしていくのか理解しようにも出来ないけれど、そう言う人がいると言うことも受けれなければいけない時代だ。


弱い私にとってちょっと前ならお酒を飲み歩くことが一番早い解決策で、そこで同じような人たちとの繋がりが生まれて安心できたけど、このご時世、夜中に開いているお店はない。誰かと優しさを分け合うことが難しくなってしまった中で、今私に出来ることといえば、批判されることを恐れてるのではなく、自分は絶対に人を批判しないと誓うことなのだと思う。


元々、特定の人を批判しないように気を付けてきたけれど、今まで私自身の行動で多くの人を傷つけてしまってきたことは消えることがない事実。それでも沢山の人の優しさに包まれて守られてきた。それは家族であり友人であり元恋人達であり、その日知り合った人達でも関係がなく人としての心の繋がりを持つことが出来た人達に感謝をしている。多くの噂によって痛みを経験してきた分、そして大切な人たちが多くいるからこそ、こうして嫌な言葉を安易に紡ぐ私にはなりたくなかった。そんなことをして折角出来た繋がりを幻滅されるようなことをしたくない。私の発言で不快にさせることはしたくない、と人一倍強く思うのかもしれない。



綺麗な人達だけが報われて、一生懸命に溺れながら生きているマイノリティ側の私達は素直に生きることが認められるのにまだまだ時間がかかるだろう。それでも、人を憎むことなくいられることが、周囲への恩返しになるのかもしれないと、最近思っている。噂話になれることは決してない。傷つくことも多いだろう。それでも私は大切を守りたい、それだけなのだ。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?