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短編小説|指先の絆創膏


「よろしくお願いします」



 ──今日からバイトの奥野美月さん、高校一年生。

 そう店長から紹介されたあとで、わたしは緊張しながら勢いよく頭を下げた。

 邪魔にならないようにと結んだ三つ編みが、肩から滑り落ちて、視界に入る。 

 人前はとても緊張する。しかもわたしにとっては人生ではじめてのバイトだ。

 なんとか緊張をはねのけながら顔を上げると、目の前に並ぶスタッフの人たちの中のひとりに目が留まる。

 はじめて正面から見る彼の姿に、わたしの鼓動がどくっと大きく跳ね上がった。


 駅裏の路地にあるカフェダイニングは、落ち着いた雰囲気と自家製パスタが人気のお店だ。

 お店の前を通り過ぎるたび気になっていたが、中に入ったことはなかった。

 そんなとき、アルバイトを募集していると知ったわたしは、何とか家の許しを得て、夏休みの間だけバイトできることになった。


「ええと、奥野さん、だっけ?」


 はっとして、声のするほうを見上げる。


「は、はい。よろしくお願いします」


 いつも遠くからしか見たことがない彼が、目の前にいる。

 メモ帳を持つわたしの手は、かすかに震えた。


「俺は高階です。いま大学一年。慣れるまで大変だろうけど、よろしく」


 初対面が苦手なわたしとは対照的に、彼はとても気さくに自己紹介してくれた。

 わたしはこれまで何度もつぶやいた彼の名前を、心の中でまたぽつりと繰り返す。

 お店のスタッフの中では彼が一番若く、他の人よりもわたしと年が近いという理由から、教育係として教えてくれることになったらしい。

 何という偶然だろう。


「じゃあ、まずはお店の中を案内するから。ついてきて」


 そう言うと、彼はやさしく微笑んだ。

 思わずわたしは目を細めて見入ってしまう。

 

 彼はわたしのことなんか知らない。

 でもわたしは、彼のことを一年前から知っていた。


          ***


「あ、ちょっと待って」



 バイトをはじめて三週間が経過し、やっと注文を取ったりすることにも慣れてきた頃、彼に呼び止められたわたしは、出来立てのランチセットを運ぶために急いでいた足を止めた。

 ランチタイムに入り、忙しさはピークだった。

 彼は、わたしが持っているトレイを指さして、


「そのランチセットには、このスプーンもつくよ」


 あっ! とわたしは口を開く。

 忙しくなると焦りが出る。だからこそ注意しなければと思っていた矢先だった。


「すみません、ありがとうございます」


 わたしは肩を落として謝る。



「お互いさまだよ。俺も最初の頃、周りからよく助けてもらったから」


 彼は何でもないように笑いながら、両手がふさがっているわたしの代わりに、トレイ上にデザート用の小さいスプーンをのせてくれる。

 こうしてフォローしてもらうのは何度目だろう。

 席待ちのお客さんがいて、空いた席のグラスや食器をわたしが無理してたくさん片付けていたときには、持ちすぎだと言って、手助けしてくれたこともあった。

 からかい半分でちょっかいをかけてきたお客さんがいたときには、対応を代わってくれたこともあった。

 バイトをはじめてから知った彼は、とてもやさしく、気遣いができて、人を和ませる雰囲気を持っていた。

 遠くからただ見ているだけでは気づかなかっただろう。

 知れば知るほど、内気なわたしとはこんなにも違う、そう感じてしまう自分がいた。


 
 来客のピークもやや落ち着きはじめると、わたしはカウンター前でお客さんの動きに目を配りながら、トレイを拭いていた。

 窓際のソファがある席には、小さな女の子と母親が座っている。

 女の子が少しぐずりかけると、その横をちょうど通りかかった彼が、女の子の目線に合わせるように膝を折り、何か話しかける。とたんに女の子は機嫌を直して笑いはじめる。

 彼は、えらいね、というように女の子頭に手をのせ、そっと撫でた。

 その一連の動作に、わたしの視線は釘付けになる。


「あいつ、子供の扱いうまいでしょ?」


 いつの間にか、男性の先輩スタッフが横に立っていた。


「小さい妹がいて、よく遊んで慣れてるらしいよ」


 そう言う口調は、親しい友人をからかうような響きがあった。

 そういえば、この先輩スタッフと彼は大学が同じで、仲もいいと聞いたことがあった。


「そう、なんですね」


 わたしはトレイを拭く手が止まっているのも気づかないまま、彼から目を離せなかった。


「ところで、奥野さんて、お嬢様が通うあのセントカレア女子高なんだって? なのにバイトしてるなんて珍しいよね」


 突然話題を変えられ、はっとして先輩スタッフに顔を向ける。

 先輩の表情と口調からは、嫌味というよりも、ただの興味本位で問いかけている感じだった。


「あ、えっと……」


 どう答えればいいのか、わたしは言葉に詰まる。

 言われたとおり、わたしが通っているセントカレア女子高は、いわゆる富裕層のお嬢様が通うような学校で知られている。そのため校則で禁止されているわけではないが、クラスの中でもバイトをしている子の話はあまり聞いたことがない。

 本来であれば、わたしもバイトなどする必要はどこにもない。

 わたしがバイトをしたいと言い出したとき、厳格な祖父はいい顔をしなかった。

 会社をいくつも経営している祖父にとって、学生なら学業に専念しろということだろう。

 もう一人の家族である母は、祖父には逆らえない。なぜなら、猛反対された父との結婚だったにもかかわらず、わたしが生まれてすぐに離婚して出戻ったという負い目があるからだ。

 今暮らしている母の実家でもある大きな屋敷には、祖父と母、わたしのたった三人しか暮らしていない。会話が少ない屋敷の中は、どこかがらんとした感じが漂っている。

 祖父の意向に沿わないことはほとんどしてこなかったわたしだったが、バイトは社会勉強になるからと何とか理由をつけて、夏休みの間という期間限定で許可をもらったのだった。


「何、話してるの?」


 気づけば彼が目の前に立っていた。視線を先輩に向けると、やや呆れ口調で、


「先輩、奥野さん困ってるのわかってます?」


「やだなあ、ただの世間話だよ」


 先輩スタッフはおどけて肩をすくめる。

 わたしはどう反応したらいいのかわからず、戸惑ってしまう。学校でもクラスの子達との冗談話でさえ、うまく対応できない。ますます面白みのない人間だと思われてしまいそうで、自然とうつむいてしまう。

 そのとき、入店してきたお客さんを案内するふりをして、わたしはその場を離れた。


***


 夏休みも残りわずかになるにつれ、わたしの気持ちは沈んでいった。

 この週末で、わたしのバイトが終わる。


「痛っ」


 思わずわたしは声を上げる。

 朝の開店時間前、不注意で割ってしまったお皿を片付けようとしていたところだった。

 見れば、人差し指からじんわりと血が滲んできている。

 お皿を割っただけでなく、けがまでするなんて、情けないにもほどがある。

 ため息をつきかけたとき、


「大丈夫? 血が出てる。あとは代わるから」


 駆け寄ってきた彼は屈み込むと、わたしの代わりに割れているお皿に手を伸ばし、片付けようとしてくれた。でも、


「──っ!」


 彼の息をのむ音が聞こえて見れば、今度は彼が指をけがしていた。

 大丈夫ですか、と焦ったのもつかの間、わたしは一瞬、違うことを考えてしまった。


 あ、同じ──。


 彼のけがした箇所を見つめて、わたしは思わず心の中でつぶやいていた。


「おいおい、何で高階までけがしてんだよ」


 救急セットを手に現れたのは、呆れ顔の店長だった。

 彼とわたしを交互に見て、


「しかもふたり揃って、同じ右手の人差し指をけがするって」



 ほら手を出せ、と言って、ぞんざいな言葉とは反対に、やさしくわたしたちの指をそれぞれ消毒をして絆創膏を貼ってくれる。


「あれ?」


 店長は唐突に、わたしと彼の顔を何度か見比べながら首を傾げた。

 顎に手を当て、ほんの数秒考えていたかと思うと、


「なんかおまえらちょっと似てるなあ、ほら、目元とか。そういや奥野が面接来たとき、誰かに似てるって思ったけど、高階だったのかも」


 わたしは思わず立ち上がっていた。

 そんなわけないじゃないですか、言おうとして声が出なかった。

 ”似ている”という突然の言葉に、驚くほど胸を熱くする自分がいた。

 しかし、彼はまったく気に留めていないかのように、


「何、冗談言ってるんですか」


 と店長に言ったあと、


「間に受けなくていいからね」


 屈んだままの姿勢でそう続けて、気遣うような笑みをわたしに向けた。


 ──やっぱり彼は知らないのだ。


 わたしは、かろうじて微笑む。

 彼に気づかれなかったことを安堵する一方で、本当は気づいてもらいたかったという淡い期待が芽生えていたことに、激しく動揺していた。 


 ──半分、同じ血が流れてる。

 ──あなたの妹はここにもいる。


 そう言えば、彼はどんな顔をするのだろう。

 わたしは指先の絆創膏を握りしめた。



*最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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