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短編小説|桜の木の下の微笑み

──なにかがかすかに唇に触れた。

ぼんやりとまぶたを開くと、彼女の微笑みが目の前にあった。

僕はうつろな瞳であたりを見渡す。

春のあたたかな日差しが降り注いでいる。

太陽の向きはそう変わっていなかった。うたた寝してしまったのは、ほんの少しの時間だろう。

僕は再び彼女に視線を戻す。

かすかに口角を上げた品の良い唇、きれいな弧を描く眉、わずかに細められた黒い瞳には、対する僕の姿が映っている。

いつもの彼女の微笑みだった。

サーッと風が吹いて、満開の桜の花びらが頭上からひらひらと舞い落ちる。


「……今年も来たんですね」


僕は寝起きの少しかすれた声で言う。

彼女は依然として微笑んでいる。


「来るわ、必ず……」


静かで、それでいて澄んだ声色は、はっきりと僕の耳に届く。

そのくせ確固たるはずの言葉は、どこか空虚な響きがあり、


「そうですか」


とだけ僕は返す。

彼女の言葉の中には、未来を感じさせるものはどこにもない。淡い期待はもうとっくに捨て去った。

そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、


「ええ、そうよ」


風に揺れる長い髪の毛を耳にかけながら、彼女が答える。

やわらかな日差しを受ける彼女の微笑みは、息をのむほどきれいだ。

しかし微笑んでいるはずの表情は、ある瞬間には悲しんでいるようにも見え、また別の瞬間にはあざけりを浮かべているようにも見える。



亡き祖父が所有していた山の中、少し開けた場所には、一本の古い桜の木があった。

祖父に教えてもらったその場所は、とても静かだった。

聞こえてくるのは、木の葉が風に揺れる音と鳥がさえずる声だけで、幼いころの僕にとって日常起こる嫌なことを忘れるためには最適の場所だった。

成長するにつれて訪れる機会は減っていったが、それでも桜が満開になるこの時期だけはなんとなく足が向いていた。

そしてある日突然、彼女が現れた。六年前のことだ。

その女性は、二十代か三十代くらいの年上に見えた。

そもそも人と出会うことがめったにない場所だっただけに、驚いた僕はかろうじて会釈をしたあと、逃げるようにその場を離れた。

祖父の生前の知り合いか、もしくは僕が知らない遠縁の人だったのか、どこか不思議な雰囲気をもつきれいな女性は、僕の中で深く印象に残った。

ただそれでも、そのいっときだけなら、いつか忘れていただろう。

しかし彼女は、次の年も、その次の年も、桜の時期にふらりと現れた。

そして桜が咲いている数日間だけ、なにをするでもなく、ただ桜を眺め続ける。

いったいどこの誰なのか、僕は尋ねてみたが、彼女はただ首を振って、祖父の知り合いでも遠縁でもないと示しただけだった。

もしかしたら僕は夢でも見ているんだろうか。それほどまでに彼女は現実味がなかった。

でもある年の別れ際、微笑む彼女がじっと僕を見つめたことがあった。まるでさよならを惜しむようでいて、永遠の別れを告げるような微笑みに僕は目が離せなかった。

そしてゆっくりと彼女の顔が近づき、僕の唇に重なる。

そのやわらかな感触は、紛れもなく現実だった。

それからも何度か春を迎え、僕と彼女は満開の桜を眺め、花びらの散り終わりとともに別れるということを繰り返した。


「大切な人のためよ」


あるとき、思い切ってなぜここに通っているのか尋ねてみると、彼女はそう答えた。

僕にとってお気に入りの場所は、彼女とのふたりの場所になっていた。

でも彼女にとっては、そうではなかった。じわりと仄暗い気持ちが染み出すような気がした。

それでも僕はなにも言えない。なにか言ってしまえば、もう彼女がここには来ないのではないか、そう感じた。



そして今年もまた彼女が現れた。


「……今年も来たんですね」


僕はかすれた声で言う。


「来るわ、必ず……」


彼女は、あいかわらずの微笑みを浮かべて答える。

僕はその表情をじっと見つめたあと、立ち上がると、


「今年が最後です」


と告げる。

彼女は微笑みを絶やさず、小首をかしげる。

僕は続けて言った。


「僕がここに来るのは、今年が最後です」


祖父から譲り受けたこの山を、父は手放すことを決めた。

話を聞いたとき、僕は何度も考え直してほしいと訴えたが、なぜそこまでこだわるのかと問い返されればなにも言えなかった。

いつかは終わりが来ると思っていた。それが来ただけだ。うなだれた気持ちは、時間の経過とともに納得に変わっていた。

風に舞う桜の花びらが一枚、彼女の長い髪の毛にすっと落ちる。

彼女の唇がゆっくりと弧を描く。


「ここにいるの……」


「え……」


彼女は珍しくふふふと声をあげて微笑み、あたりに目を向ける。

その視線を追うように僕もぐるりと見回す。僕たち以外には誰もいない。

頭上からは見ごろを迎えた桜の花びらがはらはらと風に舞っているだけだった。

僕が怪訝な視線を向けると、彼女はそっと目を伏せた。

いや、地面に視線を落とした。その先をたどると、桜の木の下に立つ僕の足元だった。散った花びらが幾重にも広がっている。

そういえば周りの地面に比べて、ここだけ少しでこぼこしているように感じたのはいつごろだったか。

ぞわりとなにかが背中をなでていった気がした。

彼女が一歩を踏み出す。彼女の髪の毛についていた桜の花びらがはらりと落ちる。

ひだまりのようなおだやかな微笑み、そのわずかに細められた黒い瞳の奥には見たことのない冷めたい光が差していた──。


*最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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