短編小説|アリアドネの花
アリアドネの花
アリアドネの花が咲いていた。
毎年春になると、アリアドネの木は細い枝先から薄紅色の大ぶりの花びらを天に向かっていっせいに咲かせ、穏やかな風とともに街中に甘いにおいを漂わせる。
私の名前アリーネは、春の女神からつけられた。
女神アーヴェスリーネは、春を告げるアリアドネの花びらのドレスを纏っていることから春の女神と呼ばれている。黄金色に輝く豊かな髪と薄紅色の唇をもつ美しい女神は、美の女神とも言われている。
その名をもらった娘は、美しく育つと言い伝えられているが、残念ながらわたしには女神の加護はなかったようだ。
学校の男の子達は、わたしの赤茶けた髪の毛とそばかすがにじむ顔を指差し、朽ちたアリアドネだとからかう。
若いころ街では評判の美人だった母は、わたしの顔を見るたび、残念そうな表情でため息を漏らす。わたしが母と同じような美しい娘であったなら、父は家を出て行くことはなかっただろうか。
家の近くの曲がり角にも、アリアドネの木があった。
男の子達にからかわれるたび、母がため息を漏らすたび、わたしは曲がり角にあるアリアドネの木の下でひっそりと泣いた。
この木だけがわたしの味方に思えた。
一変する日常
その日、わたしは母に強く手を引かれながら石畳の街道を進んでいた。
この街を離れなければいけなくなった。
街道には不安そうな表情の人々であふれ返っている。その中を足がもつれそうになりながら進んでいると、ふいにアリアドネの花の甘いにおいがした。
気づくとわたしは母の手を振り払っていた。
最後に一目だけでもアリアドネの花を目に焼きつけておきたかった。
足が向かうまま来た道を戻りはじめ、手にしたお気に入りのクマのぬいぐるみを落とさないよう抱きかかえて、わたしは走っていた。
しばらくして、家のそばのアリアドネがある曲がり角まで戻ってきたとき、それは起こった。
突然響いたのは、大きな爆音だった。
後ろを振り返ると、はるか向こう側からは黒い煙が立ち上っていた。
「お、お母さん……!!」
わたしは駆け出していた。背中にくくりつけた荷物が左右に揺れる。
逃げ惑う人々に何度もぶつかりながら途中まで戻ったとき、下り坂の先にある広場に母の姿が見えた。母はあたりを必死で見回している。
母が無事だったことに、わたしはほっと胸をなで下ろす。
しかし次の瞬間、けたたましい銃声が聞こえ、母は真っ赤な血を流して倒れた。
母だけではない、広場にいた人々が血を噴き出しながらズシャリズシャリと地面に突っ伏していく。
なにが起こったのか理解できなかった。
建物の向こう側から出てきたのは、銃を手にした大勢の軍隊だった。
なおも激しい銃声が続く。人々は悲鳴をあげ、我先にと逃げ惑う。
わたしは母に駆け寄ろうとした。
しかし誰かに手をつかまれ、逃げろ、と建物の間へと引っ張られた。
どのくらい走っていたのか、街中を抜け、いつの間にか手を引いてくれていたその人はいなくなっていた。
それでもわたしはみんなと同じようにただひたすら前だけを見て走っていた。
どこへ向かっているのかもわからない。これからどうなるのかもわからない。
涙があふれ、視界がにじむ。冷たい空気を吸い込みすぎたせいで、肺が苦しかった。
あっと思った瞬間、わたしは地面に倒れていた。
なにかに足をとられたらしい。
手はすり傷だらけだった。握っていたはずのクマのぬいぐるみは、いつの間にかなくなっていた。
ちらちらと雪が降りはじめる。日が暮れかけていた。
「どこへ行けというの……」
母の手が小刻みに震えている。両手で顔を覆い、押し殺した声で涙を流す。
「いったい、故郷(ここ)を出てどこへ行けというの……」
街を出る前夜、持てるだけの大事なものや衣類を手提げに詰め込みながら、母は誰に言うでもなく言葉を吐いた。
母を慰めたかったが、幼いわたしがかけられる言葉はなにひとつなかった。
恐ろしい隣国の侵略者達はある日突然、国境を越えてわたし達の国に侵攻してきた。
なんの前触れもなかった。前日まではいつもと変わらぬ日常があった。
しかしたった一日で穏やかな日々は跡形もなく消え去り、人々の営みがあった建物や家を次々と破壊し、逃げ惑う人々に向かって容赦なく銃弾を浴びせ、平和な光景を根こそぎ奪い去った。
悔しい。悔しい。許せない──。
わたし達がいったいなにをしたというのだろう。ただ平穏な日常を送っていただけではないか。
薄れゆく意識の中で、わたしはただただ嘆いた。涙を流す気力は残されていなかった。
ふいに、アリアドネの花の甘いにおいがした。
わたしの意識はそこで途切れた──。
少女と老婆
「起きたかい」
老婆のしわがれた声がする。老婆は後ろを振り返ることなく、戸口に立つわたしに向かって声をかける。
「あたたかいスープでも飲みな」
ぶっきらぼうな口調。この口調に最初は叱られているような気持ちになったが、数日経ったいまでは、その中にやさしさがにじんでいるとわかっている。
わたしはうなずくと、台所へと入り、老婆の向かい側の席に座る。
「いただきます……」
湯気が立つスープをかき混ぜ、スプーンでそっとすくう。
数日前、目が覚めたわたしは、見知らぬベッドの上に寝かされていた。
道端で行き倒れているところ、この老婆に助けられたようだった。
そのおかげで、わたしは凍え死ぬこともなく、こうしてあたたかいスープを口にできている。
薄汚れたガラス窓から外に目を向ける。
向こう側には街があったはずだ。しかしいまは見る影もなく、建物はことごとく崩れ落ち、がれきと化していた。人々は長い列を作って他国に逃げ延びたが、年寄りや病気で身動きが取れない者はどうすることもできず、恐怖と隣り合わせで留まり続けるしかない。
老婆の家は、街から外れた森の入り口にあったため、かろうじて最小限の被害で済んでいた。
「どこかに行くならいまのうちだよ。ここもいつまでもつかわからない」
老婆がわたしの視線を追い、窓の外を見たあとで言った。
わたしはスープに視線を落とし、首を振る。
行くあてなどどこにもない。
「ここにいては、だめ?」
わたしはそっと顔を上げ、老婆に訊ねる。
出ていけと言われれば、厄介者のわたしは出ていくしかない。
「……勝手におし」
老婆はそっぽを向いて言う。
その言葉にわたしは今日もほっと胸をなで下ろす。
このやりとりは、わたしがこの家で目覚めた日から毎日続いている。老婆の答えはいつも決まって同じだ。それでもわたしは毎日訊かずにはいられない。
老婆の気持ちはいつ変わってもおかしくないのだ。明日こそ、出ていけと言われるかもしれない。
そもそも老婆こそここを離れるべきなのに。そう訊ねたことがあったが、離れたくないと頑なだった。
老婆の視線が向かった先、チェストの上に置かれていたのは、数年前にこの世を去ったという旦那さんの写真だった。きっと思い出が積もるここを離れたくないのだろう、そう感じた。
しかし日に日に攻撃は激しくなり、だんだんと食料も底をついてきていた。
老婆は「どこかに行くならいまのうちだよ」と、変わらずわたしに訊ねるが、わたしは首を横に振る。
母がいなくなってしまったいま、老婆だけがわたしのよるべになっていた。
恐れと裏切り
その日は、どんよりとした灰色の雲が空を覆い、昼を過ぎても凍てつくような寒さだった。
そんな中突然、空気を震わせるように、けたたましく外の門扉を叩く音が響いた。
老婆は、わたしに向かってしわがれた手のひらを広げ、ここにいるように合図した。
わたしはこわばる顔でうなずく。
丸まった背筋をわずかに伸ばした老婆は、重い足取りで玄関から外へと出ていく。その背中をわたしは祈るように見つめた。
張り詰めた時間が経過し、しばらくすると、言い争うような声が聞こえた。
わたしはもつれそうになる足に力を入れ、急いで裏口から外に出る。いてもたってもいられなかった。
回り込むようにして表側の玄関へ向かうと、聞き慣れない言葉が耳に飛び込んできた。
わたしはひゅっと息をのむ。
侵略者だ。ここまできてしまったのだ。体が小刻みに震える。
そっと建物の影から向こう側をうかがう。
視界に映ったのは、軍服姿の侵略者達だった。その前に立ちふさがるよう見えるのは、老婆の小さな背中だ。
侵略者達は筒状の長い銃を手にしていたが、かろうじて老婆に突きつけてはいなかった。
わずかに安堵しつつも、早鐘を打つ心臓に手を当てながら、わたしはじっと耳を澄ませる。
ところどころ声を荒げる侵略者。それに対し冷静な口調で気丈に振る舞う老婆。
お互いになにかを話していることはわかるが、言葉はまったくわからない。
ふと、わたしは違和感を覚えた。
どうして──。
次第に違和感は確信に変わる。
どうして、老婆は侵略者達の言葉を使っているの──。
わたし達の国と侵略者達の国は、大昔の戦を境に交流が一切失われていた。そのため、侵略者達の言葉を話せる人間はほとんどいないと聞かされている。
なのに、どうして──。
激しく混乱する。
ふいにやりとりする言葉が途切れた。
向こうを見ると、侵略者達の後ろからひとりの男が進み出ていた。ほかの侵略者達の一歩引いた態度からすると、上の立場の人間に思われた。
その男は、仲間達になにか言葉を発したあと、老婆に向き直る。
「この言葉で失礼します。彼らに聞かせたくないもので」
口を開いて出た言葉は、わたし達の国の言葉だった。
男は続けて言った。
「あなたは私達の指導者の母君です。手荒なことはしたくありません。この地から一刻も早く立ち去ってください。これは最後の通告です」
わたしは震える手で口元を押さえた。
いま、あの男はなんと言った──? 指導、者……?
わずかな間があって、老婆は静かに首を振った。後ろ姿のためその表情は見えない。
「……この国へ嫁いできてもう五十年以上になります。私にとっての故郷は愛する夫が眠るこの地だけ。去るのはあなた方のほうです」
しわがれた声で老婆が答える。
男は老婆を見下ろし、ややあって、帽子のつばに手をかけたあと、くるりと体の向きを変えた。
仲間達に声をかけ、引き下がっていった。
侵略者達の姿が見えなくなったあとも、老婆はじっと前を見据え、その場から動かなかった。
わたしの足も固まってしまったかのようだった。
ふいに老婆がふっと息を吐き、振り向いた。
わたしと老婆の視線がぶつかる。
わたしはとっさに家の中へ逃げ込んでいた。
あてがわれた部屋の中に入ると、ドアを背にずるずると床に座り込んだ。
動揺
コンコン──。
日が暮れてきたころ、静かにノックする音がした。
ベッドの上で丸くなっていたわたしは、びくりと肩を震わせ、ドアを見る。
ドアの前には、ふさぐように壁際から移動させたテーブルを置いていた。
老婆がドアに手をかけたなら、すぐにそのことがわかるだろう。
わたしは緊張しながら、老婆の次の動きを待った。
しかし老婆がドアを開けることはなかった。
少しの沈黙のあと、
「台所にスープを用意してるから。あとでお食べ」
老婆は静かに言った。
「わ、わかりました……」
かろうじてわたしは答える。
床がきしむ音とともに老婆が立ち去ると、はあと重苦しい息を吐いた。
先ほど視線がぶつかったときの老婆の瞳を思い出す。わたしが話を聞いていたことはわかっているはずだ。
まさか老婆が侵略者側の人間だったなんて──。
目尻にじわりと涙が浮かぶ。
ううん、それよりも、指導者と呼ばれる人間の母親だったなんて──。
母親が血を噴き出しながら倒れた瞬間が思い起こされる。
これ以上見たくなくて、ぎゅっと目をつむる。
しかし気持ちとは裏腹に、瞼の裏にこびりついた映像はより鮮やかに、何度も何度も浮かび上がるのだった。
選択
その夜、怖いくらいの静けさの中、わたしは足音を忍ばせながら部屋を出た。
向かう先は、ひとつしかなかった。
ドアの前で様子をうかがい、寝静まっていることを確認すると、そっとドアを開けて部屋の中へと体を滑り込ませる。
ほっとしたのもつかの間、部屋の中にある人影が視界に入り、心臓が止まりそうになった。
──老婆だった。
ベッドで横になっていると思っていた老婆は、窓際のカウチに身動きせず座っていた。
なにか言い訳を、とっさに思ったが、なにも言葉が出てこなかった。
老婆はこちらを向くでもなく、窓ガラス越しの夜空を静かに眺めている。
ややあってから、
「来るだろうと思ったよ……」
老婆はそう言って、静かにわたしに視線を向けた。
わたしは背後に隠す拳をぐっと握りしめる。
抑えきれない気持ちに、体がわなわなと震えはじめる。
「お母さんは目の前で殺された! 家も故郷も、なにもかもめちゃくちゃになってしまった! あなた達侵略者せいで!」
堰を切ったように言葉があふれる。
「ついこの間までは平和だったのに!! なんで!? わたし達がなにをしたっていうの!? なんでこんなひどいことができるの!?」
もう後戻りできない。
老婆は、ギシリと小さな音を立てて、ゆっくりとカウチから立ち上がった。
わたしは身構える。それでも言葉は止められない。
「あ、あなたが指導者の母親なら止めるべきじゃないの!? それはあなたにしかできないことじゃないの!?」
息が苦しい。こんなにも声を荒げたことはこれまでなかったかもしれない。
「そうだ……」
老婆は苦しげに息を吐くと言った。
「本当ならこの老い先短い命を投げ打ってでも止められるならそうすべきだろうね。でももう……」
悲しげに首を振り、そしてゆっくりとした足取りでわたしに近づいてくる。
老婆の視線の強さにわたしは少し後ずさる。
「こ、来ないで」
わたしは背後に隠し持っていた果物ナイフを突き出す。
台所にあったものだ。老婆は隠すことなく、いつもと同じ場所に置いていた。
月明かりの下でナイフがキラリと怪しく光る。
老婆はちらりとナイフに目を向けたあと、わたしに視線を止める。
「私が憎いかい」
ただ一言つぶやいた。
わたしは震える唇をわずかに開きかけ、そして閉じた。
老婆から目をそらし、小さく頷く。
憎い。たしかに侵略者は憎い。でも──。
「そうかい……」
老婆のしわがれた声が聞こえる。
ぶっきらぼうな口調。それでいてひどくやさしい。この声に安堵する自分がいて、それではだめだと叫ぶ自分がいる。
突然わけもわからず恐ろしい目に遭い、母を失い、自分も死にかけていたところ、老婆に救われた。老婆の助けがなければあのまま行き倒れて死んでいたか、侵略者によって殺されていただろう。
だからこそ、この戦いが終わったら老婆に恩返しがしたい、そう強く思っていた。
──なのに!
胸が押しつぶされるように苦しかった。ぶつけようのない怒りと憤りが渦を巻く。
──裏切られた。
その言葉がより一層わたしを追い立てる。
ナイフを握った手がかすかに震える。
「……アリーネ」
静寂の中、老婆がわたしの名前を呼ぶ。びくりと肩が跳ね上がる。
日常でも数えるほどしか呼んだことがなかったのに。思わず憎まれ口を叩きそうになるのをぐっと堪える。
「春の女神からいただいた良い名だね。あんたに女神の加護がありますように」
老婆は、わたしのナイフを握る手とは反対側の手を取り、振り払う間もなく、なにかを握らせた。
ふいに懐かしいにおいが鼻口をかすめる。
思わず見れば、手のひらにあったのは巾着状の包みだった。
このにおい──。
「アリアドネはうちの旦那も好きだった花でね。毎年花を乾燥させたものを瓶に入れて保管してるんだよ。こうして袋に入れるとにおい袋にもなる。……持っておいき」
顔を上げると、そこには穏やかに微笑む老婆がいた。
「この家にあるものはなんでも持っていけばいい。……すまない」
苦しげに吐かれた言葉に、胸がずきりと痛んだ。
老婆はわたしに刺されることを受け入れている。その上で、わたしが困らないようお金になるものは持っていけばいいと言っているのだ。
喉の奥が熱かった。視界がぼんやりとにじむ。
老婆が悪いわけではない。それはわかっている。でも──。
母の鮮血が瞼の裏に生々しく浮かび上がる。激しい爆音と銃声、逃げ惑う人々の泣き叫ぶ声──。
ナイフを握る手に力が入る。
一方であふれ出た涙が頬を伝う。
わたしの心の迷いを見透かすように、アリアドネの花の甘いかおりだけが、月明かりの部屋の中に静かに漂っていた。
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