見出し画像

海の向こうの、あの子へつながるパスポート


バスからバンに乗りかえ、ホテルまで帰った。
その道中、私たちは静かだった。
聞こえるのは、鼻をすする音だけ。みんな、涙が止まらなかった。

私たちは気づいていた。元気もらったのは、私たちの方だった。

-----
私は10年前、病院や孤児院を尋ねるボランティアツアーでベトナムに行った。

きっかけは、その当時のyahooのメニューにある「クリック募金」で、
テレビか何かをきっかけに途上国支援の存在を知った私は、何かできたらと思っていたところだった。

自分のパソコンを立ち上げるたびにその募金をすることを習慣にしていた私は、
これで子どもたちのためになってたらいいな……
そう、思いながら日々クリックしていた。

ある、寒かった日。
私は急に強い違和感を感じた。

その日も募金をしていて、その画面のサムネイルには、ヨレたタンクトップのような薄着を着た子どもがにこりともせずこちらを見ているのが写ってる。

私はというと、買ってもらったパソコンで夜になっても明るく暖かい部屋。

あれ? なんだこの感じ。

違和感がゾワゾワと私の胸を覆った。
今まで嬉々とクリックして来た自分に、居心地の悪さを感じるようになった。

私は暖かい部屋にいて、何をこの子たちのためにやってる気になってるんだろう。
本当は、彼らはどう過ごしているのだろう。

そう思ったら止まらなくなった。
当時フリーターをしていた私は、2〜3ヶ月バイト代を貯め、ボランティアツアーに申し込むことを決めた。

夜中じゅう、どのツアーに申し込むかチカチカ光るパソコンの画面を食い入るように見つめ、アドレナリンを大放出させながら、申し込み確定のボタンをクリックした高揚感を今も覚えている。

これでやっと子どもたちに会える!
あの違和感の正体を知れる。
そしてあわよくば、あのサムネイルの子どもと同じような子に、元気をあげたい。

そう思った私は出発当日、成田で他の参加者と合流し、ベトナムへ発った。

ボランティアツアーという個性的なツアーに集まったメンバーだからか、合流した他の男女4人の参加者とはすぐに気が合った。

到着してからは、子どもたちと触れ合ったり、戦争資料館、ゲリラ戦の跡地、「ベトちゃんドクちゃん」のドクさんに会うというプランの合間に、老舗のフォー店や市場などに行き、独特の賑わいがあるベトナムの、すっかりファンになった。

それからは行くことができていないけど、人生のうちあと何度かはベトナムに行けたらいいなと思っている。

でもそれは、あるパスポートを得ることができたら。

ツアーの中で、今もしこりのように心に残る2つの出来事があった。


奇形などがある子どもたちが入院をしている病院を訪れた時のこと。

子どもたちは、私たちのような訪問者が来ることには慣れているようで、
駆け寄ってきたと思ったら、あれよあれよという間に私たちの手を引っ張って、遊びに連れてこうとしていた。

みんなすごい元気で、20歳前後の私たちは早くも息切れをしていた。

その中で、一人、椅子に手足を固定されていた女の子がいた。
顔や服から覗く全身の皮膚がただれていて、見るからに痛がゆそう。
肌を掻きむしってしまうのかもしれない。手はタオルで巻かれていた。

その子が私たちが遊んでいるところへ、椅子を器用にガッタンガッタン動かしながら近づいて来る。

「一緒に遊びたいんだろうな」と、わかった。
わかったけれど、私はその子を避けてしまった。

ただでさえ言葉がわからない。だからどう接していいかわからない。
そう自分に言い訳をした。

でも、本当は違う。
言葉がわからない、接し方に戸惑うなら、他の子に対しても同じだ。

私はその子の様子に、怖気づいてしまった。
自分が遊びやすい子どもだけと、遊ぼうとしてしまった。

次から次へと子どもたちが寄ってきてくれるのをいいことに、
私は自分がツアーに参加した「子どもたちに元気をあげたい」という目的から目をそらしてしまった。

なんて浅はかだったのだろう。
その目的は子どもたちのためではなく、私がそういう人物になりたかっただけだ。
自分の情けなさが悔しかった。

そしてもう一つ。

帰国前日、孤児院の子どもたちと早朝から貸し切りバスで海へ遊びに行った。

前日に施設で一緒に遊んだ子どもたちは、みんな無邪気で、時々わがままで、泣いたり笑ったりするとても可愛い子たちだ。
海ではみんな水着もないのにびしょ濡れになって、私たちも海水に浸かって1日中遊んだ。

そして帰りは、大人も子どもも爆睡で施設まで帰った。
私の隣には、海で遊ぶうちに仲良くなった女の子が、手を握りながら寝ていた。

本当に時間があっという間で、とてもとても楽しかった。
帰り際は、子どもたちも私たちも泣きながらお別れをした。

そしてバスからバンに乗りかえ、ホテルまで帰った。
その道中、私たちは静かだった。
聞こえるのは、鼻をすする音だけ。みんな、涙が止まらなかった。

私たちは事前にガイドさんに教えてもらって、知っていた。
今日一緒に遊んだ子どもたちの中には、親をエイズで亡くしている子がいることを。

そして、エイズを発症するかもしれない子がいること。

数年後には死んでしまう子、それをすぐそばで知る子がいるかもしれないこと。

とても楽しかったこの時間は、彼らにとってかけがえのない貴重な時間だった。
彼らを元気付けたいと一様に言っていた私たちの方が、元気をもらっていた。
「またね」って言ってお別れしたけど、その「また」は来ないかもしれない……

元気をあげたいなんて、上から目線だった。

眩しいほどの子どもたちの笑顔が見れたこのツアーは、
自分本位な私をそのまま映し出した鏡のようなものとなった。

全行程の終わりに飛行機の時間まで、私たちはガイドさんと一緒にお酒を飲んだ。
すぐ横を排気ガスを吹き出すバイクが通る路上に、テーブルと椅子を置いただけの簡易居酒屋で、ビールを飲みカビの生えたスルメをあぶった。

一緒に参加したツアーメンバーの製薬会社に勤めてるお姉さんは、「新薬を開発して、苦しんだり辛い思いをする子を減らしたい」と語った。
その時私はなんて言ったか覚えていない。
けど、今の自分が歩んでる道と、そう遠くないことを言ったのではないかなと思う。

ツアーの後、私は途上国支援のNGOのインターンに参加し、さらに別の団体の寄付を募るバイトもした。その後国内のソーシャルビジネスの会社に入社し、今に至る。

学校を作るとか、井戸を作るとかはできていないし、
インターンを通して、自分のスキルではお荷物になってしまうこともわかった。
今になっても鏡に映る自分は、まだ胸に残ったしこりを抱えたままだ。

でも私は、その時々やれることをやると決めていた。

今乗ってる乗車率100%を超える通勤電車の乗客の、どのくらいの人が海外の状況に目を向けるときがあるだろうか。きっとそんなに多くはないのではないかと思う。
だから、私がベトナムなどで経験したこと、知ったことを発信して、少しでも多くの人が知る機会を得られるといいなと思う。

そうしたらその中の誰かに眠っている、起業家や活動家にまだできていない、子どもたちがより良い人生を生きられるアイディアが、目を覚ますかもしれない。

誰かが私の発信を読み、海外に興味を持ってくれた時、私はもう一度ベトナムに行ける気がする。

そのためには私の言葉を、より多くの人に読んでもらわなければいけない。
実は、そういう理由もあってラインティング・ゼミに参加した。

ゼミで得たスキルは、私にとってはベトナムへ行くパスポートだ。

そう信じて歩む道は、海を越えた向こうにいる、椅子に座ったあの女の子に続いてるだろうか。

いつか、鏡に映る自分は、彼女らと向き合ってその手を握っている姿だといいなと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?