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あの音楽が聴きたくなる短編小説5

甘いミルクと シナモンシュガー -Forget all-



「太陽が昇ったからと言って、ベッドから出なければならない法はない」

 十九世紀の詩人オズワルド・ホーンズビーが自宅のトイレットペーパーに書き記した言葉だが、実際のところ彼はそのころ鉄道会社に勤めていて、週の半分は日の出とともに起き、十キロ先の仕事場まで重いワークブーツを引き摺りながら出勤していた。

 時は流れて二十世紀半ばのある朝、モーテルの一室。ダニー・マクベインはベッドではなく、毛のまばらなカーペットの上でその言葉を思い出していた。

 彼はお気に入りの表皮のはげたエンジニアブーツを右足に履いている以外は全裸で、あとは体のごく一部分の根元に、女物の細身の革のベルトがぐるぐると巻かれていた。自分がそういう状態であることをなんとなく認識しながら、彼は床に脱ぎ散らかしていたツイードのジャケットから煙草を一本抜き出してくわえ、ナイトテーブルの上のマッチを探った。

 起き抜けの一服は、吸い込むとのどの奥に貼り付くような痛みを感じたが、構わずもう一度深く吸い、吐き出す。煙と目ヤニでぼやけた彼の視線が、壁にかけられたマチスの模造品を通り過ぎ、その下の、ベッドからはみ出している白い脚のところで止まった。

 目を細めて煙草を左手に持ち替え、カーペットの跡がついた尻を浮かしてベッドの上を見ると、そこには昨日の夜のお相手が仰向けに、片ひざを立てて眠っていた。

 彼の根元のベルトの持ち主であろう彼女は、銀行の窓口係がよく着ているようなベージュのブラウスを着て、ボタンを襟の一番上まできっちりと留めていたが、ヘソから下はカーテンから射し込む朝日だけをまとっていた。角度といい、光の具合といい、なかなか悪くない。

 立ち上がったダニーは煙草を指ではじいて花瓶の中に入れ、自分の尖ったアゴをさすりながらベッドの端に座り、女のひざの奥にむかってゆっくりと手をのばした。



 その女はエミルと名乗った。ある男と、ある街の酒場で知り合い、一晩を過ごし、いつでも頼ってこいという彼の誘いを真に受けて家を出てきた若い田舎女だった。何のいたずらか、誘った男(彼女はトムと呼んでいたが)は、偶然にも長く尖った顔をしていて、そいつから聞かされていた連絡先というのがダニーの行きつけの店だったのだ。

「そこに面長のダンディはいるかしら?」

 彼女がかけてきた電話を店員の早とちりで取り次がれたダニーは、気まぐれにその男になりすまし、待ち合わせた駅に車でむかった。

 ロータリーのバス停前、艶のある黒髪と大きなエメラルド色の瞳を持つエミルの美しさに、ダニーは心を奪われた。驚いている彼女を黒いキャデラックの助手席に引っぱり込むと、待ち合わせの目印だったカゴいっぱいのオレンジが青空に舞った。



 チェックアウトを済ませた二人は、モーテルを出て、通り沿いのドーナツショップで少し遅めの朝食をとっていた。シナモン・シュガーとフレンチ・クルーラー。エミルはミルクを、ダニーはセイロンがなかったのでダージリンを頼んだ。

「昨日も訊いたけど、私の頼みは聞いてくれるの? 考えてくれるんだったら、ねえ、私、別にあなただっていいのよ?」

 アゴヒゲについた砂糖を手で払いながらダニーが言う。

「別にあんただっていい、なんてのは、あまりうまくねえ言い方だな。口からでまかせだって、あんたがいいんだって言って欲しいもんだ」

「うふふ。男心ね」

 エミルは長い前髪を耳にかけながら笑った。

「ああ、こう見えても繊細なんだぜ。ここのウェイトレスのお茶の運び方くらいな」

 そう言うと、ダニーは受け皿にたまったお茶を派手にすすった。その下品な音にとなりの席の老夫婦が眉をひそめる。

 エミルが言う。

「無茶なことだっていうのは、よくわかってるつもりよ。だから、断るなら今断ってちょうだい。他を探すにしたって、もう時間がないんだから」

「はっきり訊いてなかったが」

 ダニーが言葉を強く区切った。テーブルにヒジをついて身を乗り出す。

「あんたの頼みを引き受けたとして、俺にはどんなメリットがあるんだい?」

 ミルクに四杯目の砂糖を入れていたエミルの手が止まる。

「それは報酬、ってこと?」

 にやりと笑うダニー。

「ああ。俺も大概のことはやってきたつもりだが、こいつぁ、おいそれとやれるヤマじゃねえ。まあ条件次第では考えないこともないんだが、会ったときからほとんど手ブラみたいなあんたが、それに見合う何かを持ってるとは思えなくてね」

「あら、もう払ったじゃない」

 エミルは、釣り人がすくい網を手に取ったときの顔をした。

「昨日の夜、いえ、ついさっきまで、たっぷり前払いしたわ」

 そして甘いミルクを一気に飲み干す。

「私って、そんなに安い女かしら」



 二日後、とある街で行われた結婚式で花嫁が誘拐された。花嫁の名は、エミル・フランシス・ベッカー。新郎になるはずだった市長の一人息子は、銃口をのどの奥まで突っ込まれ、白いスラックスの前を黄色く濡らした。

 タイトな黒のスーツにピンクの目出し帽をかぶった犯人は、その足で廃屋になっていた花嫁の生家に火を放ち、ナンバープレートのないキャデラックで逃走。市警察による懸命の追跡をかいくぐって姿を消した。後日、電話にて提示された犯人からの要求は、ただひとこと。

「すべて忘れろ」



 最後のサイレンが聞こえなくなったころ、ダニーは片手でハンドルを持ったまま目出し帽をとり、汗まみれの髪を風にさらした。

「なあ、なんでこんなことをしようと思ったんだ? 結婚するのがいやだったら、やめればいいだけの話じゃねえか。ご丁寧に家まで燃やしちまわなくても」

 真っ赤に灼けたシガーライターで、ダニーは煙草に火を点けた。助手席のエミルは純白のウエディング・ドレス姿。美しい肩のラインの上を半透明のベールがはためく。

「いやだったのは結婚だけじゃないわ。あの街の、何もかもがいやだったのよ。空も、森も、血も、それから、男たちの指の毛や、冬の影の長さもね」

 そう言うとエミルは、窓から身を乗り出し、手に持ったブーケを空にむかって放り投げた。強い風の中で乱れ舞う花びら。地面にバウンドして砂埃にまみれ、バックミラーの中で小さくなっていく幸福の象徴。

 ダニーは口の端から煙を吐いた。体をシートに戻し、前を見るエミルのまつ毛が、窓から射し込む光で輝いていた。

「さあ、ダニー、どこか静かなところへ入りましょう。うまくいったから、残りの報酬を払ってあげるわ」

「いいねえ。未払いの分があるとは知らなかった」

「でも、あのベルトは教会の控え室に置いてきちゃったの。代わりにこれを巻くってのはどう?」

 たくし上げられた純白のドレスの裾。あらわになった太腿と、レース編みのガーター・リング。

 ダニーはまぶしさに目を細めて言った。

「悪くないね」

 黒いキャデラックは地平線を目指して加速する。

 奇妙な二人の喜悲劇(トラジコメディ)、今日のところはここまで。



甘いミルクと シナモンシュガー -Forget all-

Thanks For Inspiration,
TOM WAITS『One From The Heart』(1982)


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