♪おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるなぁ~♪
『聞くと、きっかけはほんの些細なことだった。たまたまタイムラインに私のツイートかあるいは記事が流れてきて、その内容が気に入らなかったから、ひと言コメントを入れたのだそうだ。最初はまったく反応がなかったが、そうした批判コメントを数回繰り返したところ、ある日、同じく私の「アンチ」をやっているであろう別の人から「褒め」られたり「共感」されたりするようになっていったのだという。そしてその時に、得も言われぬ嬉しさを感じたのだと彼は話した。「共通の敵をつくって、だれかと悪口を言い合うことがこんなに楽しいのだとはじめて知った」――と。以来、彼のなかで私の存在はどんどん大きくなっていったという。私のような人間がいるから、自分はこの社会で生きづらさを感じているのだと、その時は本気で思うようになっていたと彼は話してくれた。彼にとって私はもはや「この社会でまともな市民権を保ってはいけない人間」と見えていたらしい。彼は自分自身のことを誹謗中傷の加害者ではなく、私のような人間によって生きづらさを与えられている被害者であり、その被害を自分で救済するための戦いをしているつもりだったというのだ。私を中傷すると、複数の人が褒めてくれたから、それが「間違った行為だ」などとはまったく考えもしなかったという。むしろ「大勢が褒めてくれるのだからただしい」と思っていたようだ。御田寺をバッシングすれば、大勢の人に応援される。こんなに大勢の人から嫌われている御田寺は、間違いなくとんでもない悪人であり、生きるに値しない人間の屑なのだ。そう思い込んで疑いもしなかったようだ。いわく現実の彼は、だれからも褒められたり、共感されたり、応援されたりすることのあまりない人生を歩んできたのだそうだ。だが、SNS空間では違った。ここでは「自分のことを評価し、支持してくれる人」がたくさんいた。その人たちの期待に応えることは楽しいし嬉しかったから、私の「アンチ」を熱心に続けたのだという。やがて、自分のことを褒めてくれていた人たちから見捨てられるのが不安になり、その不安を解消したいという欲求が、私に対するさらなる敵意へと変換されていった。そうしているうちに、私は彼にとって「四六時中言動を監視し、いつか倒さなければならない(社会的に死んでもらわなければならない)巨大な敵」に見えていたという。しかし、アンチ活動自体は楽しいことばかりではなかったらしい。むしろ、自分の人生が私によって振り回されるような感覚が、たまらなく不愉快でさえあったようだ。ツイッターで、私が楽しそうにゲームをしている報告をしたり、新しい記事や仕事について発信したりする様子を目の当たりにした日は、それだけで一日中憂鬱になり、死にたくなるくらいの気分になってしまったのだという。「憎む」ことによるつながりで得た仲間は、「憎む」ことによってしか保てない。だが「憎む」という行為にかかる「コスト」を、彼は認識していなかったように思う。「憎む」とはノーコストでできる営みではない。それどころか、むしろたいへんな精神的リソースを求められるし、「憎む」その相手の存在が、脳の処理容量をつねに圧迫する。「憎む」とはとてつもなく燃費の悪い営為である。疲弊して当然だ。だれかを「憎む」ことで得た仲間を失いたくないという不安が強まり、また「憎む」ことによる認知的コストでほかのことがなにも考えられなくなり――彼はもはやSNSに自我を乗っ取られていた。自分ではなく「SNSのなかにあるもうひとりの自分」のために生きるようになっていた。~たしかに、一時の仲間や自己肯定感が得られるならば「アンチ」活動もまったくの無意味であるとは思わないし、その意味では一定の効用があるのかもしれない。だが、トータルでみれば、それは現実の自分とSNSの人格とを遊離させ、SNSの人格に自分の人生を委ねる、本末転倒な状態に陥るリスクもともなう。私は彼の告白を聞いて「インターネットで他人を憎むのはやめよう」とますます考えるようになった。なぜなら、だれかを憎むということは、その憎んでいる対象に自分自身の人生を預けることにもなりかねないからだ。憎んでいる他人がいまどう過ごしているかによって、自分の機嫌が左右される。自分の人間関係が揺れ動く。憎んで、侮蔑して、見下しているはずのその人間に、あたかも自分自身の人生や幸福感の「裁量権」を与えているような、わけのわからないことになってしまう。だれかを憎めばその瞬間、あろうことかその憎んだ相手が、自分をコントロールするようになってしまう。自分の人生のステークホルダーとして、よりにもよって憎き相手を任命してしまうのだ。これ以上にナンセンスという形容が相応しいことはない。自分の人生の主導権の一部を、憎くて仕方ない他人に委ね、しかも最悪の場合、民事・刑事の法的リスクまで発生する――そうまでしてだれかを誹謗中傷する価値は本当にあるのだろうか。いま、もしこの文章を読んでいるあなたが、ほんとうの顔も名前も知らないネット上のだれかを憎悪してやまないのであれば、もういちど自分自身に問いかけるべきだ。自分の人生を、本当にその相手に委ねてしまってもよいのかと。あなたの人生は、あなたしか歩めず、しかもたった一回しかない。』
このテキストを読んでいて「♪おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるなぁ~♪」という歌詞を思い出した。宙船/TOKIO(作:中島みゆき)
「私の暴言は『正当な批判』です」そう強弁する人びとの内面
「アンチ」との対話でわかったこと
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/75266
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?