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第二戦国時代の終結から75年、これからの日本は第三戦国時代となってしまうのだろうか?

『このキリスト教の広がりは、じつは大きな利権が絡んでいた。天下人や戦国武将たちにとって、ポルトガルやスペインとの交易は、大きな旨みをもたらしていた。が、それには必ずキリスト教の布教が付随していたのである。15世紀から16世紀にかけ、ポルトガルとスペインは、世界各地への航路を開拓し、手広く貿易をおこなったが、この貿易には、キリスト教の布教がセットになっていた。ローマ教皇は、ポルトガルとスペインに対し、キリスト教を布教することと引き換えに、世界をポルトガルとスペインで二分する許可を与えた。この命により、両国は世界中に植民地を持つ代償として、各地に宣教師を派遣し、教会を建設する義務を負ったのである。ポルトガルとスペインの交易船には、宣教師も乗っており、新しく交易を始める土地では、必ず布教の許可を求めた。布教を許可した土地のみと、交易を開始したのである。彼らが日本に来たときも、取引をおこなう条件として、キリスト教の布教許可を求めた。諸大名たちは、南蛮船と交易をするために、キリスト教の布教を認めた。そのため、戦国時代にキリスト教が爆発的に広がるのである。当時の南蛮貿易は、西洋の珍しい文物を運んでくるだけのものではなかった。というのも、日本に来る南蛮船のほとんどは、マカオや中国の港で積んだ物資を持ってきていたからだ。~家康は、天下人になって以降、諸大名の軍事力を削減させようとしてきた。築城や城の改築などは原則禁止で、特別な理由があるときだけ幕府が許可した。また、慶長14(1609)年には、500石積以上の大船建造が禁止され、諸藩が所有している大船は没収された。このように、諸藩の軍事力を削減させようとしているなか、ポルトガルやスペインとの南蛮貿易は害が大きかった。しかも、ポルトガルやスペインは、軍事的にも不穏な動きがあった。長崎はイエズス会の領地のようになってしまっていた。またキリスト教徒たちが、日本各地の寺社を破壊することもたびたび起こっていたのである。スペインにいたっては、日本への武力侵攻を検討したこともあった。当時の日本は戦国時代で、大名たちの戦力が充実していたために、侵攻を断念しただけだったのだ。もし、日本が戦国時代ではなかったら、ほかの東南アジア諸国のように、ポルトガルやスペインから侵攻されていた可能性もあるのだ。それらのことを総合的に判断し、キリスト教全面禁止に踏み切ったものと考えられる。~日本にいたスペインのイエズス会の宣教師たちは、リーフデ号のことを聞きつけ、家康に処刑するように注進した。イエズス会は、カトリック・キリスト教の修道会であり、当時はプロテスタント・キリスト教と激しく対立していた。リーフデ号の母国オランダは、プロテスタントの国である。だから、日本在住のイエズス会としては、プロテスタントの勢力が日本に及ぶことを非常に恐れていたのだ。しかし、家康は、イエズス会の宣教師たちの注進は聞き入れず、リーフデ号を浦賀に回航し、乗組員を江戸に招いた。家康は、リーフデ号の乗組員から海外情報などを仕入れ、一部の乗組員は家臣として取り立てた。幕府の要人となったオランダ人のヤン・ヨーステンや、三浦按針の日本名で知られるイギリス人のウィリアム・アダムスは、このリーフデ号の乗組員だった。このヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムスから、家康は当時の西洋の国情や宗教事情などを詳しく聞いたようである。当時のキリスト教世界では、ルターの宗教改革から生まれたプロテスタントが、急激に勢力を拡大している時期だった。プロテスタントは、免罪符に象徴されるような教会の権威主義、金権主義を批判し、純粋な信仰に戻ろうという宗派である。そのため、旧来の教会であるカトリックと、新興宗派であるプロテスタントは、激しく対立していたのである。ポルトガルやスペインは、カトリックの国だった。彼らが、大航海をして世界中に侵攻していたのも、じつはカトリックとプロテスタントの対立が影響していたのである。プロテスタントに押されていたカトリックは、少しでも多くの信者を獲得するために、積極的に世界布教に乗り出したのだ。戦国時代に日本にやってきたポルトガル、スペインの宣教師たちは、皆この流れに沿ったものなのである。が、一方、オランダはプロテスタントの国だった。オランダは、新興海洋国でもあり、ポルトガルやスペインに続いて、世界中に進出し、貿易や侵攻をおこなっていた。オランダも、キリスト教の布教もおこなっていたが、それはメインの目的ではなく、金儲けが最大の目的だった。日本に対しても、キリスト教の布教を強く求めることはなく、貿易だけを求めてきた。つまり、オランダは、キリスト教の布教をしなくても貿易をしてくれるというわけである。家康はこの事情を知り、オランダとだけ貿易をすることにしたのだ。しかも、幕府が独占的にオランダと交易をおこなえば、貿易における旨みを幕府だけが享受することができる。そのため、江戸時代を通じて、オランダが唯一の西洋文明の窓口となった。オランダからの文物を学ぶ「蘭学」は、日本の最先端の学問となったのである。』

政治・経済に宗教が絡むと愛憎劇が繰り返されてしまう事を家康は戦国時代に学んだのだろう。第二戦国時代となってしまった1868~1945年の77年間は家康が恐れていた通りになってしまった。第二戦国時代の終結から75年、これからの日本は第三戦国時代となってしまうのだろうか?

徳川家康「キリスト教を徹底弾圧した」深い事情
日本がスペイン植民地になった可能性もある
https://toyokeizai.net/articles/-/355272

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