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読書日記『東京のぼる坂くだる坂』

星々ワークショップ第6回の課題図書。読書会用に印象に残った3箇所の抜き書きと、それに関するメモを用意したので、読書日記にも合わせて載せます。

機械で時を計るには時間というものが一定の速度で進んだ方が都合がいい。そうでなければ測れない。人が、時間は一定の速度で進むもの、と考えるようになったのも、時計ができたからなのかもしれない。(p.143)

主人公・蓉子は、亡くなった父から遺された「住んでいた坂リスト」をもとに、父親が住んだ坂をめぐっていく。その過程で父親の歴史や、自身の歴史の追体験、振り返りのようなものをしている。
しかし、特に住んだ順番に従っているわけではないので、回想する時間の流れは飛び飛びになっている。かつ、坂の長さや立地の状況などもばらばらなので、歩いている間の体感速度が一定ではないような感じがした。現に文章を読みながら、すっと先へ進めることもあれば、読み進めるのに時間がかかることもあった。

そもそも人生の体感速度も決して一定ではない。この文章は、時間は一定の速度で進んではいないということを暗に示しているようにも受け取れる。この作品全体に流れる時間の感覚を捉えた一文だと思った。

茶屋があったころ、桜が植えられたころ、いくつも時代を重ね、父がいたころ、わたしたちがいたころ、何枚もの薄い膜が重なっている。分厚い本のページのように。
風が吹いて、花びらが舞いあがる。本のページもぱらぱらとめくれ、花びらのように散っていく。桜の下にいるとき、わたしたちは時を旅するのだと思う。トシオさんの言葉が耳の奥でよみがえる。もうトシオさんもいない。(p.163)

最初の一文は、まるでこの本の構造を示しているようだと思った。この物語も、坂道の話を少しずつ積み重ねて一冊の本になっている。

その後の文章は、桜の散る様子と、人生が散る様子を重ねているように見えた。結局桜が散るという現象も時間経過によるもので、この表現を想像した時に非常に儚くて綺麗な映像が浮かび上がった。
また、時を旅するという表現が、この本を読みながら蓉子と共に人生を追体験している私自身とも重なり、とても印象に残る部分だった。

なんだか損をしている気がした。いろいろな坂をめぐってきたが、いつも地面に張りついて、ビー玉が迷路を転がるように坂を歩くだけだった。もし俯瞰できる能力があれば、あたり一体の地形の凹凸を思い浮かべ、坂と坂のつながりや川との関係もよくわかるにちがいない。わたしはいつも自分がどこを歩いているのかわからない。(p.203-204)

坂の描写を読んでいて私自身が感じた感覚を、そのまま文章にしてもらえたなという一文だった。この物語は蓉子の視点で描写が続いているので、坂に対する距離感がずっと寄りの姿勢で、実のところ読み込むのに時間がかかっていた。

しかし、この坂道をめぐる物語が人生を語っているのなら、この書き方には非常に意味があるのだと思う。自分の人生を俯瞰することなんて最後までできないわけで、後になってやっとわかることや、点と点が繋がって線になることもある。この物語を読むという行為を通して、人生について語られていたのだなと実感した。

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