NHK大河「青天を衝け」! 読む感動と見る感動、物語の素晴らしさは役者によって倍増する
表情の変化だけで幕末における一人物の有り様を、テレビを見た者は理解できた。それほど秀逸の演技だった。
日も刺さない中、暗い狭い部屋で待つ渋沢篤大夫の前に現れたのは、かつての若々しくきびきびとしたイメージの慶喜とは全く違う、うらぶれてもぬけの殻のようになった生気のない慶喜であった。
9月12日放映のNHK大河「青天を衝け」第26話に登場した草彅剛演じる徳川慶喜は頂点から落ちた哀愁漂う男になっていた。着ているものは殿様の装いではなくかつての栄華はない。自身は新政府軍に敗れ駿府に蟄居する身、そこに弟である徳川昭武の渡仏に同行した渋沢篤大夫(後の渋沢栄一)が、パリでの昭武の日本側名代としての堂々たる姿を報告する。徐々に顔に緩やかな微笑みが戻ってきて、弟の活躍に微かな喜びを表すのである。
しかし、昭武が第16代将軍になることもなかったし、その外遊の経験と見聞、知識を生かして新政府に入ることはなかった。まして慶喜自身もである。全て歴史が証明するところである。叶わぬこととなった新たな時代における自身の夢が、脆くも崩れ去った後の心情が僅か1〜2分の演技で、全てを視聴者は感じることができたはずである。久々に見た名演技であり、草彅剛の演技力に脱帽する。本ドラマの中では、一時代に終止符を打った悲哀あふれる波瀾万丈の将軍として、草彅剛こそがはまり役だったと言えるかもしれない。
話は変わるが、どんな役者が演じるかによって、その映画やドラマが別物に変わることがある。そして、その役者はその映画やドラマと一体となって見た者の脳裏に焼き付き、いつまでも心に残る。様々な役者によって演じられたドラマは多いが、主人公と役者が視聴者のイメージの中で一体となり、切っても切れないものになることがある。
私のイメージでは、白い巨塔の財前五郎は田宮二郎、砂の器の和賀英良は加藤剛、横溝正史の金田一耕助といえば古谷一行、007のジェームズ・ボンドはショーン・コネリーが一番に思いつくしピッタリのはまり役だ(青天を衝けで土方歳三役をやっている町田啓太は、土方に風貌も似ている2枚目で今回まさにはまり役になっている)。坂本龍馬と西郷隆盛は、あまりに多くの俳優が演じており、誰もがぴったりだったような気もするが、私が選ぶキャスティングとしては、福山雅治と鈴木亮平が真っ先に出てくる。
一方、あまりにその役柄がはまり過ぎて、まるで同一人物の如くイメージされたのが、フーテンの寅さんの渥美清、トラさん以外の役柄は全く想像できない。風と共に去りぬのビビアンリーもスカーレット・オハラ以外の彼女は描けない。それぐらい適役でありすぎた。それ以外の役柄ではほとんど評判取ることもできなかったというのは彼らにとっては幸だったのか不幸だったのか。
徳川慶喜に話は戻るが、「青天を衝け」で演じられている姿と実際の慶喜は違ったかもしれない。司馬遼太郎も「最後の将軍」を書いているが、つかみどころのない性格であったようだ。周りの家臣たちも飄々とした態度に戸惑うこともあったようだ。実際は蟄居しながらも多彩な趣味を生かし、絵を描いたり、鷹狩りに勤しんだり、落ちぶれた精神や生活ではなかったという話もある。この何を考えているかわからないような性格だったからこそ、大政奉還という大仕事を成し遂げたのかもしれない。
ドラマはこれから明治に入って行き、いよいよ渋沢の本格的な活躍が始まる。日本の資本主義の父と言われる彼の後半生も見逃せず、日曜の夜はまたテレビの前に釘付けにならざるを得ないようだ。
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