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「疑う」と聞いて、何を想像しますか?

「疑う」よりも、「疑われる」のを恐れていないでしょうか?

警察が犯人を見つけて解決する爽快なテレビドラマが
よくあるように、犯人ではないかと疑われてしまうと、
まるで悪者のような扱いをされてしまう。

疑われる対象になることは、悪者と同じをされるのではないかと
考えてしまい、保身のためについなんでも話してしまいがちですよね。

疑うことは、悪いことを見つけるかのような概念を
持ち合わせていませんか?

例え、疑われても悪いことも証拠もなければ、
恐れることはないですよね。
でも、疑われること自体に心が傷ついてしまい、
何も言えなくなってしまう。

本来のありのままではいられなくなったりして、
自分を押し殺してしまいがちですね。

疑うとは、一体どういうことでしょうか?

客観的に、相手や対象を善か悪か見極めることではなく、
捉え方を疑うこと。

これまでの哲学者たちは、目の前の事実を
疑い、現実と向き合ってきました。

哲学の父であるソクラテスが提唱した
『無知の知』では、自分の頭で考えることを
解いていたのです。

相手や事実の真偽を疑うことが、本来の意図であり、
善悪や正誤を導き出すことではないのです。

数学者でも有名なデカルトが、残した哲学の中に
「方法的懐疑」というのがあります。

あらゆるものを疑ってみたが、疑いの晴れないものがあった。

「我思う、故に我あり」

「疑う」とは、自分の頭で考えること。

この視点が、生きづらさを解消するヒントになる。

AIなるものが出来上がり、これまで以上に
情報が容易く手に入り、そして、巧妙に作り出され、
見極めることすら難しい時代になる。

テレビはもちろん、インターネットでさえ、
情報が常に作り替えられている。

もう少し広い視野で捉えると、瞬時に情報が変わる
私たちの世界には、正解が存在しない。

時の変化に合わせて、正解も変化している。
言い換えると、正解はないと言っても過言ではない。

これから、私たちが閉ざされた世界観に囚われず
心理的自由でいるには、正しく疑うことである。

疑うことを恐れずに、自ら考えていこう。


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