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自分の一番のファンは自分だから~人に読ませる前に自分で何度も読むことの大切さ

私の作品(中~長編)は、出来たらすぐにメンターさん(お世話になってるカウンセラーさん)とアシスタントさん(エブリスタに掲載するのを手伝ってくれている)に送って読んでもらっているのだが、すぐに読んでくれて感想をくださるので大変励みになっている。

創作活動において、学校でノートに書いて回し読みをしていたようにすぐに読んでくれて感想をくれる存在というのは大きいものである。

だからこそなのかもしれないが、なるべく読みやすいように黙読して引っかかる場所を書き換えたり、目で見て変なところは変えたりしている。(それでもおかしいところは出てくる。人間だもの)

創作するときに勢いというものは必要だと思うのだが、勢いが引いてきたときに初めて見えてくるものがある。
長編だと設定の誤りとか(大きな矛盾)、名前の変換間違い(私の場合だと君枝さんが君江さんになってるとか)、私とわたしの違いとか(漢字の開き方)。
名前の変換間違いに関しては、一つ見つけたらワードの検索機能で探して潰す。(他のソフトは知らないけどたぶんアプリとかあるはず)
漢字の開き方も検索して潰す。

設定の誤りは読み返すしかないので、1週間以上寝かせて読み返す。短編はまずそこまで書き込まないから気にしないが。


先日も宣伝用に記事を書いた作品。
エブリスタで(15回)連載をしていたのだが、上下巻でトータル19万文字弱(番外編含む)の本である。

まあまあえぐい量であるが、トータル100回は読んだと思う。

自分の作品だ。結果はもちろんわかっている。
だけど面白いと思うし大好きだ。
読むたびに知らぬ間に回収している伏線とか、設定とかにびっくりしたり。

しかし、たまにひどい間違いを見つけたりもして、その時は印刷する前で良かったなとホッと胸をなでおろしたりもしている。

そうやって本気で練った物語は、たくさんの人に読んでもらえなかったとしても自分が満足するし、お金を出して買いたいと思ってくださった方に対して誠意を見せる意味でも、きちんと読み返してこれ以上ない!と思うくらいのものを出したいと思うのだ。

それはネットで出すときもそうだけど、お金を出して紙の本を印刷する場合は特にそう思うし、校正する力もいつもの何十倍ものパワーを発揮する。


とまあ色々ごちゃっと書いたけども、自分という一番のファンを満足させるためにも最後まで心を尽くして校正し、納得のいくものを作ることは大切だと思っている。
それはお金を出して読もうとしている人に対しても同様だ。

そこに(読者や作品に対しての)愛はあるのか?常に問いたいと思う。

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