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ガラクタ集めと調べ物を栄養として生息しています。「風景印と記念碑」と言うマガジンを始めました。 そこになんでこんなものがあるのだろう、と疑問に思うことを掘り下げて見ると、色々な人の思いを知ることができ、人生を豊かなものにしてくれます。

マガジン

  • 風景印と記念碑

    風景印は郵便局で使われる絵入りの消印で、各地の名所や特産品が描かれています。その土地の記念碑がデザインされることも多く、地域の人が何を誇りにしているかを風景印からうかがい知ることができます。

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速達料金はなぜ30円も値下げされたのか

 この記事は2021年10月1日の速達料金改定について述べたものです。2024年10月1日の料金改定については、末尾に【追記】として記載しました。 1. はじめに  2021年10月から、日本郵便のサービスに大きな変更がありました。普通郵便は土曜日の配達を止めました。(ゆうパックなどの荷物サービスはこれまで通り土日も配達します)  普通郵便はさらに配達日を1日繰り下げたために、土日を挟むと配達がずいぶん遅くなったという実感があります。(事実、北海道から東京への郵便を水曜

    • 柳原一里塚跡 風景印と記念碑

       福井県越前市にある芝原郵便局の風景印には柳原一里塚跡が描かれています。風景印には地域の誇りとなるものが描かれているものが多く、この場所がかつて北陸道沿いで栄えていたことを一里塚が伝えてくれています。 一里塚 江戸(東京)の日本橋を起点として、主要な街道の両側に1里ごとに築かれた塚(土を盛り上げて作った丘)のことを「一里塚」と言います。  全国規模で設置を命じたのは江戸幕府を開いた徳川家康で、1604年(慶長9年)のことです。一里塚には松や榎がうえられていましたので、遠く

      • 島木赤彦生誕地 風景印と記念碑

         長野県諏訪市にある諏訪角間郵便局の風景印には島木赤彦生誕地碑が描かれています。風景印には地域の誇りとなるものが描かれているものが多く、島木赤彦はアララギ派の歌人として有名な方です。 島木赤彦(1876-1926) アララギ派の歌人です。「アララギ」は1936年に創刊された短歌の同人誌です。同派の代表といえば斎藤茂吉がまず挙げられます。  島木赤彦は諏訪郡上諏訪町(現在の諏訪市)に生まれました。1898年(明治31年)長野師範学校(現在の信州大学)を卒業し小学校の教員、校

        • ポートタワー・セリオン 風景印と記念碑

           秋田県秋田市にある土崎郵便局の風景印にはポートタワー・セリオンが描かれています。  風景印にはその地域の誇りとなるものが描かれることが多く、港に建てられた展望塔は、秋田を代表する高層建築物として親しまれています。 秋田港 現在の秋田港の前身は雄物川の河口にあった土崎湊でした。河川改修により南側に流すよう雄物川の流路を変更し、旧雄物川の河口が秋田運河となり今日の秋田港ができています。  当時の運輸省では1986年(昭和61年)「ポートルネッサンス21」の名前で各地の港湾

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        • 風景印と記念碑
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        記事

          名寄岩顕彰像 風景印と記念碑

           北海道名寄市にある名寄駅前郵便局の風景印には左に力士「名寄岩」の像(名寄岩顕彰像)が描かれています。  風景印にはその地域の誇りとなるものが描かれることが多く、名寄岩関もその名の通り、名寄の生んだスターといえます。立浪部屋三羽烏の1人ですが、後の2人の双葉山と羽黒山が横綱だったので、知名度が高くないのはちょっと残念です。 名寄岩静男(1914-1971) 岩壁静雄が本名。名寄市出身の関取で、最高位は大関。昭和7年に初土俵、昭和29年に引退。  真面目、頑固一徹、一本気の

          名寄岩顕彰像 風景印と記念碑

          忠盛塚 風景印と記念碑

           三重県津市にある津櫛形郵便局の風景印には忠盛塚が描かれています。横には「平氏発祥伝説地」と書かれた柱も立っています。 平忠盛(1096-1153) 平忠盛は桓武平氏(桓武天皇に遡ることができる)高見王の血統で、939年の平将門の乱平定後、1006年に平維衡が伊勢国に所領を得た伊勢平氏に連なります。平正盛の子。平清盛の父。  忠盛は、検非違使や播磨・伊勢・備前の国守、追捕使などでの活躍が認められ、白河上皇、鳥羽上皇に重用され、武士の中で初めて昇殿を許されることとなります。

          忠盛塚 風景印と記念碑

          福島第一原子力発電所 風景印と記念碑

           福島県双葉郡双葉町にある双葉郵便局の風景印には福島第一原子力発電所が描かれていました。双葉郵便局は東日本大震災により長らく閉鎖されており、2024年3月に再開しましたが風景印は使用されなくなってしまいました。  原子力発電所はもちろん記念碑ではありませんが、この風景印は発電所が地域を代表する施設であったことを示しており、大地震による過酷な災害の象徴となってしまったものです。 福島第一原子力発電所 1967年(昭和42年)に大熊町北部の夫沢地区と双葉町にまたがる海岸に東京

          福島第一原子力発電所 風景印と記念碑

          山崎宗鑑句碑 風景印と記念碑

           京都府乙訓郡大山崎町にある山崎郵便局の風景印には山崎宗鑑句碑が描かれています。山崎宗鑑は俳諧の始祖とされている人です。 山崎宗鑑 山崎宗鑑は室町時代後期の連歌師ですが、生没年はわかっていません。志那弥三郎範重が本名。  室町幕府の第九代将軍足利義尚に出仕,のち出家して山城国山崎に対月庵(妙喜庵)を結び、俳諧の始祖とされています。山崎の地には1489年から1523年にかけて住んでいたと考えられ、この時期に宗鑑と名乗るようになりました。山崎を去ったその後は香川県観音寺市の興

          山崎宗鑑句碑 風景印と記念碑

          永井隆頌徳碑 風景印と記念碑

           島根県雲南市にある出雲中野郵便局の風景印には永井隆頌徳碑が描かれています。永井隆は医学者として長崎の被曝体験から原爆廃止を訴えた方で、昭和歌謡のヒット曲「長崎の鐘」の元となった本を書かれた方です。 永井隆(1908−1951) 永井隆は、1908年(明治31年)に島根県松江市に生まれ、父も医師でした。1歳の時に当時の飯石村(現在の雲南市三刀屋町)に転居し、小学校卒業までを過ごしました。  1928年(昭和3年)医師を志し旧制長崎医科大学(長崎大学医学部)に進学、卒業後は

          永井隆頌徳碑 風景印と記念碑

          最上川舟唄碑 風景印と記念碑

           山形県西村山郡大江町にある左沢郵便局の風景印には最上川舟唄碑が描かれています。 最上川舟唄 最上川は源流を西吾妻山に持ち、米沢市・山形市を通り日本海側の酒田市につながる一級河川で長さは229キロメートルと日本で7番目に長い河川で、その流域は山形県の大部分を占めています。  最上川の舟運は、江戸時代に米沢から酒田までが開通したことで、流域の年貢米を酒田を通じて「西廻り航路」で江戸に運ぶことができるようになりました。左沢から下流では船を変えるため積替が発生する重要な川港でし

          最上川舟唄碑 風景印と記念碑

          古関蹟 風景印と記念碑

           福島県白河市にある古関郵便局の風景印には古関蹟と書かれた碑が描かれています。「白河の関」の場所として紹介されることがある場所です。 白河関 「白河の関」は、江戸時代に設けられた街道筋の関所ではなく、古代の関所でした。  栃木県との境まで約3キロメートルの位置にある白河関の名は、「関の森」として、799年(延暦18年)の太政官符(国が発した命令書)に「白河・菊多剗守六十人」と記されており、少なくとも8世紀末には存在していたと考えられていますが、その後衰退し機能は無くなって

          古関蹟 風景印と記念碑

          広浦秋月 風景印と記念碑

           茨城県東茨城郡茨城町にある茨城郵便局の風景印には水戸八景「広浦秋月」の碑が描かれています。 水戸八景 「水戸八景」は、徳川斉昭が1833年(天保4年)に領内の景勝地を中国の瀟湘(しょうしょう)八景にならって選定したもので、すべてに斉昭の書とされる石碑が置かれています。 青柳夜雨(水戸市) 太田落雁(常陸太田市) 山寺晩鐘(常陸太田市) 村松晴嵐(那珂郡東海村) 水門帰帆(ひたちなか市) 巌船夕照(東茨城郡大洗町) 広浦秋月(東茨城郡茨城町) 僊湖暮雪(水戸市) 斉昭の

          広浦秋月 風景印と記念碑

          安井息軒先生誕生地 風景印と記念碑

           宮崎県宮崎市にある清武郵便局の風景印には安井息軒先生誕生地記念碑が描かれています。 安井息軒(1799-1876) 安井息軒は日向飫肥藩の古学派儒者であった安井滄洲の次男として生まれました。もともと学者の家柄だったことになります。  1824年(文政7年)に江戸に渡り昌平黌(幕府直轄の昌平坂学問所)で学びました。1827年(文化5年)には飫肥藩が藩校を開設するに当たり帰郷し、父とともに儒学の教授を務めました。1841年(天保12年)江戸に三計塾 (さんけいじゅく) を開

          安井息軒先生誕生地 風景印と記念碑

          玄黙口跡 風景印と記念碑

           静岡県浜松市中区にある浜松元目郵便局の風景印には玄黙口跡が描かれています。徳川家康の生涯で最大の危機だった三方原の戦にまつわるものです。 玄黙口 浜松城は三方原台地東縁の段丘を利用して築かれた城郭で、浜松市中央区元城町とその周辺に位置します。浜松城の原型は今川氏による引間城が基礎となっています。  岡崎を拠点としていた徳川家康(1542-1616)が浜松へ入ったのは1570年(元亀元年)のことです。このあたり一帯は「引間(ひくま / 引馬・曳馬とも)」と呼ばれ、今川系の

          玄黙口跡 風景印と記念碑

          パラボラアンテナ 風景印と記念碑

           沖縄県名護市にある羽地郵便局の風景印にはパラボラアンテナが描かれています。  パラボラアンテナはもちろん通信の設備であり、何かを記念して作られたものではありません。しかもこのパラボラアンテナは現存していませんが、風景印上の存在感は大きいのでご紹介しておきます。 多野無線中継所 本土と沖縄の間をマイクロ回線(電波)で中継するための設備として、1964年(昭和39年)9月多野岳山頂に作られました。パラボラアンテナはマイクロ波通信でつかう設備ですが、「見通し外通信」といって直

          パラボラアンテナ 風景印と記念碑

          新田義貞戦死地碑 風景印と記念碑

           福井県福井市にある丨福井新田塚《ふくいにったづか》郵便局の風景印には新田義貞戦死地碑が描かれています。 新田義貞(1301-1338) 新田義貞は、足利尊氏(1305-1358)と共に1333年(元弘3年)の鎌倉幕府の滅亡に関わった武士です。後醍醐天皇(1288-1339)とその皇子であった護良親王(1308-1335)が幕府に不満を持つ武士を糾合して討幕を進め、その中心として活躍しました。  後醍醐天皇による建武政権は1335年(建武2年)に足利尊氏が離反・挙兵し瓦解

          新田義貞戦死地碑 風景印と記念碑