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永井隆頌徳碑 風景印と記念碑

 島根県雲南市にある出雲中野いずもなかの郵便局の風景印には永井隆頌徳碑が描かれています。永井隆は医学者として長崎の被曝体験から原爆廃止を訴えた方で、昭和歌謡のヒット曲「長崎の鐘」の元となった本を書かれた方です。

永井隆(1908−1951)

 永井隆ながい たかしは、1908年(明治31年)に島根県松江市に生まれ、父も医師でした。1歳の時に当時の飯石村(現在の雲南市三刀屋町)に転居し、小学校卒業までを過ごしました。

 1928年(昭和3年)医師を志し旧制長崎医科大学(長崎大学医学部)に進学、卒業後は放射線医学教室に所属しました。1933年(昭和8年)に兵士として満州に赴き、帰国後カトリックに改宗しました。1934(昭和9年)年には妻・緑と結婚しました。

 1945年(昭和20年)8月9日、長崎に原爆が投下され、隆は一命を取り留めたものの重傷、妻の緑は爆死、疎開していた子供は無事でした。隆はラジウムを長年取り扱っていたことから白血病を患い、余命3年とされていましたが、これにさらに原爆の放射線にも痛めつけられたことになります。

 重症の体で8月から10月まで救護活動に従事、1946年(昭和21年)に原子病の講演を最後に病床に伏しながら執筆の活動に専念しました。1949年(昭和24年)に発表された書籍「長崎の鐘」は自身の被曝体験や原爆の仕組みを著したもので、GHQの検閲を受け出版されたものですが、ベストセラーとなり、同年に発売された藤山一郎歌唱のレコード「長崎の鐘」(サトウハチロー作詞・古関裕而作曲)は戦後を代表するヒット曲で、翌年には映画「長崎の鐘」も制作されました。

 青空文庫で永井隆の「長崎の鐘」を読むことができます。

動画

 永井隆は1951年(昭和26年)に長崎で亡くなり、浦上天主堂で葬儀が行われました。
 後半生を過ごしている長崎市の風景印で永井隆を顕彰するものがないのは残念なことです。


記念碑の地図

 永井隆記念館前にあります。
 記念館は当時の三刀屋町立「永井隆記念館」として1970年(昭和45年)にオープンしました。2021年(令和3年)にリニューアルされていますが、風景印はそのままの様子です。


碑文

永井隆頌

如已愛人
わが身にたいするごとく人に
尽くし われを忘れて人のた
めに生涯を生きた 愛の人

平和を
人を愛するゆえに平和を愛し
重病の床から世界に平和を訴
えつづけた平和の使徒

亡びぬものを
学問芸術を愛し、信仰を尊び
つねにより高い真善美にあこ
がれて永遠に滅びぬ価値を追
求しつづけた努力の人

医学博士永井隆の人間性は
かくして人びとの心をうる
おし世に輝いた


出雲中野郵便局

 風景印は郵便局で押してもらえる絵入りの特別な消印で、色は赤茶色です。郵便窓口に「風景印を押して出してください」とお願いすれば、差し出す手紙やはがきに押してもらえます。また、63円以上の切手を貼ったカードなどに押してもらえます。その場合、差し出さずに持ち帰ることができます。

 風景印は1976年(昭和51年)7月20日から使用開始されたものです。郵便窓口は平日のみの営業です。

左側の建物が永井隆記念館です

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