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探究学習は、ファシリテーションの熟達で発展可能か【vol.2】

今年度、県内4校(公立2校・私立2校)の高校において、探究学習のコーディネーターをさせてもらっていまして、タイトルの問いについて私見をまとめたいと思います。

▽【vol.1】はこちら

学習者の影響を質量あるもので捕捉する

学習を始める動機(きっかけ)は、自分の課題を解決したいだったとして、学習を継続する動機は何でしょうか。僕は「積み上げたものの手ざわり」なんじゃないかと思っています。

従来の座学で考えてみます。僕は中学生の頃、学校の中では勉強ができる方でした。毎回、テストの学年順位を友達と競争していました。中学時代の僕にとって、テストの順位が学習の積み上げを感じられるものだったのです。

ところが、高校に入ってから、僕はあまり勉強をしなくなりました。1・2年生の頃は学年で下位10%でした。テストの順位が学習の積み上げを感じるものとして捉えられなくなり、それを代替するものさしを見つけることもできませんでした。

このエピソードからの問題提起は、座学のような知識(無形財産)の獲得は、その積み上げを実感することができるのか、ということです。探究学習に話を戻して考えると、

「自分の探究が進んでいる」という積み上げは、実感可能なものなのか

ということです。

無形財産の獲得を、即時的に獲得していると感じられるのは本人の想像力・抽象的思考力によるものだと思います。(時間軸をずらせば、あの頃のあれが今役に立っているというのは当然あるのですが、「今・ここ」で学習を継続する動機としての積み上げとは異なります。)

かたちないものを自分で想像して積み上げを感じるという方法に加えて、かたちあるものにして、積み上げたものを手ざわりを以て感じられる方法を用いたいのです。

つまり、質量あるものを学習で取り扱うということです。

自己原因性感覚をデザインする

チョコレートの例えを再び使います。「チョコレートを作りたい」というテーマで探究学習を進めるとして、まずは情報収集だし、地域に出すことも大切だからと、チョコレート工場の見学に30人で行くとします。

チョコレートを作りたいと言っていたはずの生徒が、工場の人の話をあまり聞いていない(話半分で聞いている)ということもあるかもしれません。

この現象に僕は、自己原因性感覚のものさしを用います。自分が思いをもってはじめることが外部に変化を及ぼすという発見と、自己を出発点とした行動を心理学者のリチャード・ドシャームは「自己原因性」と呼びます。

「自分がその場にいたことで、場の展開が変わった」を体感できる

そんな感覚だと僕は理解しています。

つまり、チョコレート工場の人の話は自分がいてもいなくても、きっと同じ展開で進んでいくので、自分が場に影響を及ぼす余地は少なく、自己原因性が低いと捉えられます。これは、学習場所が変わっただけで、教室で行われる旧来の座学による知識の獲得とさほど変わらないのかもしれません。

自己原因性感覚をもつ学習として、さきほどの質量の捉えも含めて考えると、自分でつくる行為がデザインされた学習を考えます。チョコレートの場合であれば、まずは自分たちで見よう見まねでつくってみるということになります。

つくってみることで分かることがある。その日その瞬間の学び、自分だけの学びが生まれることは、学びの内容もさることながら、学びの創出そのものに喜びが持てるような気もします。

探究学習の学問横断性

やや余談となる前提ですが、探究学習は、細分化された現代の学問分野を探究テーマを媒体に再統合するプロセスを持ちます。

この点において、「チョコレート」という存在は正確に言えば、学問領域をつなぐ媒体にはならないのです。

チョコレートには「食べる」「つくる」「売る」などの行為が考えられ、これが媒体となります。例えばですが、チョコレートを食べるであれば栄養学、チョコレートをつくるであれば調理学、チョコレートを売るであれば経済・経営・商学といった学問分野にリンクします。

さきほどのチョコレート工場の例で言えば、チョコレートを自分でつくってみる行為の後に、工場見学に行くという手順によって、工場を調理学のものさしで見学することができます。

出典:ベネッセ教育総合研究所教育イノベーションセンター 主席研究員 山下真司「あらためて『探究』とは?」

他者性の拡張可能性を考える

別にこの手順が前後してもいいかなと思ったりもするのですが、こうした自分⇔他者のつながりは共通言語・共通イメージを以て強く結びつくことができるのではないかと思うのです。

チョコレートの例でいえば、学習者と工場の人はチョコレートをつくるという行為でつながっています。しかし、この行為は「知っている」と「やったこと」があるに差分があります。

「出産・子育て」はその好例ではないかと思います。僕は今までニュースや周りの人の情報から「出産・子育て」というものを知っていました。しかし、最近子どもができて実際にやってみると、やはり初めて分かることばかりなのです。また、知り合いの子育て経験者に「最近、子どもが産まれまして」と話をすると「じゃあ、○○だね」と、相手方が共通言語を話せる人として自分を認識して話をしてくれているような感覚を得たのです。僕もまた、その知り合いの人を認識する目線が変わったように思えました。

チョコレートをつくる前に工場見学に行ってもいいです。ただ、その段階ではチョコレートをつくる行為(があるということ)を知っている学習者とチョコレートをつくる行為をやったことがある工場の人という立場であり、その差分がつながりを十二分まで高められない要素になるかもしれません。

この「やったことがある行為」を身体知として抽象化し、

身体知を媒介に他者とつながりやすくなる

という公式を暫定的につくります。とすると、

・チョコレートをつくるという行為から、チョコレート製造者と
・チョコレートの原料を仕入れるという行為から、フェアトレード実施者と
・チョコレートを売るという行為から、海外の輸入品販売者と

というように、学習者は自らの行為の発展とともに関わる他者を拡張していくことができるのではないでしょうか。

ファシリテーションを考える

例から想像できるように、探究学習はやりながら進む方向性が変わるフォアキャストの性質を一部持ちます。対照的に、これまでの教育は最終的な目標に向けて手順を決めて進むバックキャストでした。ゆえに、「手順が分からないと難しい」「ゴールが分からないと難しい」と先生の困惑の原因になっているようにも思います。

次回からは、こうした探究学習のファシリテーション(現場運用)について考えていきます!

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