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探究学習は、ファシリテーションの熟達で発展可能か【vol.1】

今年度、県内4校(公立2校・私立2校)の高校において、探究学習のコーディネーターをさせてもらっていまして、タイトルの問いについて私見をまとめたいと思います。

一昨年度から高校で始まった「総合的な探究の時間」ですが、まだまだ学校内外への浸透が不十分で、担当教員や先頭に立つ役割の人が孤軍奮闘しているようです。

どうやったら探究学習が上手くいくのか

という再現性の課題について、「学校主導になっていない(コーディネーターにフリーライドしている)」「校内の先生の理解が得られない」などの問題に焦点が当てられることがままあります。

それはたしかに実情を捉えている一方で、焦点の当て方としてはどうでしょうか。この問題への解答は「教員の意識改革」なるものに収斂するきらいを感じます。しかし、本当にそうだろうか。ということで、

探究学習は、ファシリテーションの熟達で発展可能か。

という問いを立てます。暫定的かつ個人的な結論を先に述べておきますと、ファシリテーションだけでは不十分ではないかと考えます。

プログラムデザインとファシリテーション

まず、探究学習を「プログラムデザイン」と「ファシリテーション」に分解します。

探究学習は、①問いを立てて②情報を収集し③整理・分析して④まとめて表現するサイクルだと言われているので、これをプログラムデザインと仮定します。

このプログラムデザインを実際に現場で運用する(授業を行う)先生たちの授業スキルを「ファシリテーション」とします。この点について、福島県立ふたば未来学園高校の林先生の整理を引用します。

・モチベート(火をつける・土俵に乗る)
・インストラクト(ゲームのルール・プレイ方法が分かる)
・ファシリテート(自律的に学習を進められるよう促す)
・メンター(学習を支える)

先生は生徒の状態を見立てながら、以上4つの役割を適宜スイッチしていきます。

探究学習における学習者(生徒)側の課題として「生徒がやる気になっていない」「調べ学習に終始してしまっている」などがよく聞かれます。

では、これを解消するために改善すべきは「プログラムデザイン」でしょうか?「ファシリテーション」でしょうか?

おそらく、ファシリテーションだけでは不十分でしょう。良い実践が生まれたときに「あの先生だからできた」とされる事例があります。これは、プログラムデザインの解像度の低さを先生のファシリテーションによって補完している状態であり、プログラムデザインが変数になっていません。プログラムデザインを改良する余地があるのに、先生の属人性が高いとするのは早計なのです。

アウトプットイメージの固定化

そこでまず、プログラムデザインに焦点を当てていきます。①問いを立てて②情報を収集し③整理・分析して④まとめて表現という一連の流れから想像される学習は、そりゃ調べ学習だろうとも思います。ゆえに、調べ学習としては優良なデザインである、地域の(学校外の)人たちを招いてのポスターセッションなどの発表方法が伝播・スケールしています。

こうした調べ学習に終始してしまう現象は、プログラムデザインの解像度の問題です。

学習はゴールであるアウトプットを目指して進められます。この場合のゴールは「プレゼンテーション」であり、アウトプットは「プレゼン資料」だと解釈することもできますが、プレゼンが上手くなる学習=探究学習ではないはずです。

③整理・分析の段階、あるいは③整理・分析と④まとめ・表現のあいだに「アクション目標」として、新しくアウトプットを設定することが必要です。以下の3パターンに類型します。

・調査研究
・ものづくり
・イベント等の活動

調査研究は理系(とりわけSSH)高校生の実験がイメージしやすく、それを文系に転用したとき、なぞのアンケート調査活動に矮小化されてしまうケースもあるかと思います。

アウトプットはけっこう何でもいい。それくらいで取り組むのがよいかもしれないと思っています。

進学校と多様校

僕がコーディネーターとして関わる高校の1つは進学クラス、あとの3校は多様校と呼ばれる高校です。進学校と多様校というクラスターで分けることが正確ではないと感じつつ、対案がない現状なのでご容赦ください。

僕はこの2つのクラスターでも、適当なプログラムデザインに差異があるように感じています。

進学校の場合、プログラムデザインが①問いを立てて②情報を収集し③整理・分析して④まとめて表現くらいの粗さでも、自律的な学習態度がある程度身についているため、学習がなんとなく進んでいきます。それは、学習内容として説明される指示の行間を読み取り、自分なりに解釈しながら、行動を自己決定しているのです。

つまり、プログラムデザインの解像度の低さを生徒の力によって補完しているのです。したがって、同様のことを多様校で行った場合、全く違う結果になるのは自明です。

差異となるポイントは以下の2点だと考えています。

・自律性
・他者性

自律性とは、自律的に学習を進める態度と定義しますが、
・学習の指示を理解できる
・自分の感情をある程度コントロールできる
このあたりの力をここでは指しています。

とりわけ多様校においては、自律性や他者性の獲得を暗黙のものとせず、プログラムデザインに明確におとしておくことが必要だと考えます。そうしないと、先生と学習者の自明性のギャップが学習に現れてしまう(要はうまくいかない)のです。

自分の課題か、社会の課題か

「生徒がやる気になっていない」という課題について、自分の興味の範囲と実社会における事象の連関とにギャップがあることを考えます。

チョコレートを例にすると、チョコレートを食べるという行為とカカオ原産地の生産者の労働環境という2点は、チョコレートという媒介を以てつながっています。

しかし、チョコレートを食べることには当事者性を感じられても、カカオ原産地の生産者の労働環境には思いをはせることができない生徒もいます。この生徒に対して、「なぜ、カカオ原産地の生産者の労働環境は改善されないのか?」という問いを立てて探究を進めても、ネットで調べた内容をまとめて終わるかもしれません。

自分の課題か、社会の課題か。
僕は、とある生徒(1年生)と話をしていて、彼は「今は自分のことで精一杯なんでよね」と言っていました。それを聞いて僕は「そりゃそうだよね」と思いました。

僕の高校生時代を思い返したって、自分のことで精一杯でした。そう考えると、社会の課題よりも自分の課題の方が解決したいと思う熱量は当然強いはずです。(もちろん、社会課題に関心をもっている生徒もいますし、社会課題をテーマとして与えられて取り組むことで芽が出る場合だってあります。)

僕は、自分の課題を解決したい、自分がやりたいと思うことをやりたいというエネルギーを(始めのうちは)探究のエンジンとすることにしました。

出典:浦崎太郎「 高校で実施されている“探究”の類型化 ―「総合的な探究の時間」の目標をブルームのタキソノミーから捉え直す―」

▽【vol.2】に続く


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