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2021年、冬の日。

11月、12月、
大切な人がふたり、立て続けに天国に旅立ちました。

まだまだ会えると思っていた。
自分の慢心が悔しいです。

そして、どちらもお見送りすることが出来なかった。
本当なら仕事のスケジュールの合間を縫って駆け付けるところですが、体の調子が悪くて動けませんでした。

「居場所」なんてただの幻想と思っていましたが、人こそが居場所で、私が失ったのは大切な人と、大切な居場所だったのだと感じています。


祖父のこと。

小学生の夏休み、家族はそれぞれに忙しく、私だけが新幹線に乗って祖父母の家に泊まりに行くことがよくありました。

駅の改札で出迎えてくれた祖父母。

車高の低いオートマ車。小さい兎柄の茶色のクッション。
ハンドルをぐるぐる手回しして窓を開ける。
どこからか出てくるドロップを、それぞれ口の中で転がしながら車は行く。

洋品店兼住居の3階建ての鉄筋コンクリートは、日が入らなくてちょっと暗い。
祖父母の匂い。

大きな神棚の黄色い灯り。
正座して、みんなで唱える祝詞。
と、その横に積まれた洋品店の在庫。

壁のハシゴで屋上へ登ると、祖父の植物園。
室内に馴れた目に眩しい空間。
姫リンゴのすっぱい味。

親指みたいなシルエットの、快活な祖父。


なんでも創意工夫するアイディアと、器用な手先から生まれるものを見るのが好きでした。
私の手は祖父譲りかな。

お通夜の日、私は体調が優れず、乗り物酔いをしそうだったので自分の車で向かうことにしました。…見事に途中でダウンし、翌日のお葬式には参列できるようにと、近場で宿泊しましたが回復せず。家に戻りました。

帰り道、祖父が火葬場に居るころの時間、空がものすごく綺麗でした。
祖父は世界のすべてになったんだなぁと。
これからは祖父がここに居てくれる。


大好きなおじいちゃん。
子供ながら実家に窮屈さを感じていた私にとって、おじいちゃんおばあちゃんの家で過ごす時間はのびのびと、幸せな時間でした。

鉄筋コンクリートのお家は何年か前に売りに出して、おじいちゃんおばあちゃんと3人で過ごしたあの時間も空間も、もう私の中にしか無い。

だけど、私の中にはずっとある。
おじいちゃんも、数年前に先立ったおばあちゃんも、ずっと。



師匠のこと。

初めてお会いしたのは、神戸での工房一門展です。

…「巨人」と言っても良いくらいの大きなかたで、「入門させてください」と言う私と話をするために、近くのカフェへ先導する先生の後ろに付いていったときは、逆に自分が小人になったような気がしました。

…先生は見た目通りに食べることが大好きなかたで、工房の10時と15時のお茶の時間にはたくさんのお菓子を用意して、先生と弟子でばくばく食べました。
その時間の他愛もない話。先生が外の用事でいらっしゃらないときは、少し寂しかったです。

…そんな先生の作品は、意外なくらいに繊細で色香漂うものでした。
ご自分の制作時間を削って、私たち弟子に指導してくださったこと、本当に感謝しています。
教えることは根気の要る仕事ですが、私たちがどんなミスを繰り返しても、怒ることはなく、とても優しい先生でした。

…工房に来られたお客様が、「弟子たちは工房を卒業したあとどうするのか」と、私が作業をしている斜め前あたりで質問をされたことがありました。
先生は人それぞれだと答えながら、「この子は続けます。続けるよな?」と私に。
驚きましたが、認めてくださっているのだと、嬉しかったのを覚えています。


先生。
電話履歴の10/9に残る先生のお名前が、最後の会話になってしまいました。私がテレビに出たのを見てお電話をくださいましたね。
私が頑張っている様子をお伝え出来て良かったです。でも、受けたご恩は全然お返しさせていただけていません。

先生の機音。
今も耳の奥に残るそのリズム。

私は、続けます。



私もいつか、いなくなる。
それなのに、いまはいる。

その日まで、日々がある。
だからこそ、いまはいる。




本当のところ、なんにも分かりません。自信もありません。
でも今、素敵な方々に囲まれていて幸せです。みんなが私に感じてくれる可能性に賭けてみる。

ただただ、思い切りよく!


◎作業風景Instagram
https://www.instagram.com/iwami_ori_yuy/

島根県石見地方、川本町という人口3500人の小さな町地域おこし協力隊として、染織をしています。協力隊の任期後に作家として独立し、「石見織」を創立するために、日々全力投球。神奈川県横浜市出身。