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笑いと距離感

過去のどんなに辛い、恥ずかしい経験でも、ある程度時間が経ってから思い出すと笑いに昇華されることがある。

なぜ時間が経つと笑って思い出すことができるのだろう。

おそらくその答えは、「笑い」は出来事と自分の間に一定の距離があって初めて成立するものだからだ。

すなわち、「笑い」とは主観的にならざるを得ない状況では、発生し得ない。言い換えると、自分との距離感が近すぎると笑えるほどの余裕が生まれない。

ともなると、距離感が遠ければ遠いほど、客観的に見れるものほど、笑いが生まれやすいのか。

おそらくそうでもない。
笑いが生まれるには、自分と出来事の距離が近すぎても遠すぎてもいけないと思う。

例えば、距離感が遠すぎて笑えないものの例として、昨日や一昨日の面白かったテレビ番組の内容を友人から聞く、などのことがある。友人は楽しそうに話しているのだが、自分は何のことだかわからず入り込むことができない。

この友人にとっては自分の文脈の中に位置付けられている話でも、聞き手からしたら距離が遠すぎる。そのため、「自分ごと」としての距離感を保つことができず、あまり面白いと感じることができない。

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漫才などが笑えるのは、この絶妙な距離感(近すぎも遠すぎもしない距離感)があらかじめ作り手によって意図的に設定されているからだ。漫才師と観客は、ステージと観客席という物理的なものによってまず隔てられる。これにより、主観的すぎる状況からは脱却できる。しかし、客は漫才を見に来ている以上、多かれ少なかれ自分の文脈の中に取り込まれ、距離が離れ過ぎてしまうことはない。

自分ごとでありつつ客観的であれる、という一見矛盾した二つの状態が混ざることによって「笑い」が生まれる。すなわち、「笑い事」は「自分事」と「他人事」の中間に位置する。

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「積極的に笑ってみること」が問題解決につながることがある。これはおそらく、時に「自分ごと」として取り込みすぎているものに「客観的な視点」を提供してくれるからだ。

つまり、客観と主観が入り組んだ状態から生まれる「笑い」を逆に利用し、「笑い」によって、主観的すぎる状況から主観と客観が入り組んだ状態に移行できると言うことだ。

思考が煮詰まり切っているときは、問題に目を向けるあまり視野が狭くなっていることが多い。
一度笑ってみることで、客観に立ちかえることができる。
自分の中で重大だと思っていた問題が、あまり大きな問題でないことに気が付けたりする。

自分の身の回りのことが何一つうまくいかなくて「もうだめだ」と思った時は、無理にでも一回笑ってみよう。
それによって、今自分が抱えている問題がそれほどまでに深刻ではないことに気がつけるかもしれない。

今は「全て」だと思えてしまうことも、おそらく大したことではない。

Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot.
人生は近くで見ると悲劇だが、遠くで見ると喜劇だ

チャーリー・チャップリン



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