マガモ

2-4 人間に戻れたかな?大学院時代

 さて、話を大学に戻すと、ネトゲ廃人は修士課程一年生まで続いた。世間体が冷静に気になった私は、一日の大半をネトゲに捧げていたものの、必要最低限だけ大学に行き、勉強や研究もして、何とか別のテーマをもらって無事に卒論を書き上げ、修士課程への進学も決めていた。アルバイトもそれなりにしていた。大学院からは同じ大学内だけれど、違う研究室に移籍した。より自分の希望する研究(=野生哺乳動物の生態)がやりやすい環境に移ったのだ。

 大学院の研究室内の先輩や同期は明るくて楽しい人が多く、波長も合い、環境は格段に良くなったものの、まだ私のネトゲ生活は続いていた。大学四年生の時よりはプレイ時間が減ったけれど、ゲーム自体がそもそも楽しいし、ゲーム内での人間関係も捨てがたく、止められなかった。私は毎日、フワフワしている感じがした。地に足がついている感じが全くしなかった感覚は、今でも覚えている。今、目の前の現実が、本当に現実なのか、ゲームなのか、時々分からなくなった。「そろそろ止めなければ」私は何度もそう思った。


 転機は修士課程の二年生に入ってすぐ訪れた(ちなみに、修士課程は通常二年間)。修士論文(通称、修論)の研究テーマがなかなか決まらないでいた私に、担当教官が「君がやりたがっていたことをやってみるか?」と言ってくれたのだ。私には、どうしても研究してみたい野生動物があった。けれども、かなり根深い大人の事情により、その研究ができないでいた。そのせいで、私は若干やさぐれていた。「一か八か、やってみるか」と初めて言ってもらえたのだ。私はその場で泣きながら、「やります!」と答えた。ようやく、自分のやりたいことができるのだ。

 私はその日のうちに、ネトゲを「卒業」することを決めた。何年もやりたいと思っていたのにできなかったことをできるチャンスが、ようやく目の前に転がってきたのだ。今を逃したら、多分一生できない。一生後悔する。もう、「ネトゲ」どころではない。

 私はゲーム内で仲良くしてくれていた仲間に事情を説明した。プレイ日記を書いていたブログにも、自分の心情を綴った。たくさんの人が、私の「卒業」を歓迎し、見守ってくれた。その後も、「ゲーム内の友達に会う」という目的だけで、数回ログインしたことはあったが、積極的なプレイにまでは至らず、私はリバウンドすることなく、すんなりと二年に及ぶネトゲ生活に終止符を打つことができた。


 こうして私は、ネトゲに別れを告げ、「野山を駆けまわり、野生動物を追いかける」という高校生の時から夢見た研究生活をし、案の定上手くいかなくて惨敗して号泣するという青春の日々を送った。結果は惨敗だったけれど、やりたいことがやれて良かった。私は「これだけやって駄目なら、諦めがつきました」と素直に負けを認め、担当教官に頼んで別のテーマをもらい、毎日すごい勢いで実験をした。深夜12時に帰ろうとする同期を捕まえて、「もう帰るのかい?まだまだ夜はこれからだよ。共に過ごそう、オールナイツ!」と絡んでいたので質が悪い。

 そんなこんなで努力の甲斐あって、私は無事に修論を書き終えた。しかし、私は卒論、修論と約3年間の研究生活を通じて、自分には研究が向いていないということを痛感した。そのため、大学院の博士課程まで行くつもりがなかった。つまり、修士課程が終わったら、就職しなくてはならない。

 実は、やりたい研究ができず、修論のテーマも決まらず、いじけてネトゲばかりしていた修士一年生の冬に、世間体を冷静に気にする私は就職活動を開始していた。しかし、そんな状態なもので、「私は一体どんな仕事をしたいのか」かなり迷走した。

 農学部は理系ではあるものの、工学部のような技術系ではないので、「就職先と言えばこれ」というものがないのだ。食品関係や製薬会社と言った、大学での知識や技術が役立つ企業に就職する人もいたが、流通系など、全く関係ない業界に行く人もかなりいた。

 かなり迷走した私は、ある日、ふと思い立って、「占いの館」的なところに行ってみた。久しぶりの怪しい(?)世界。お店に入るまでに30分もビルの前をうろうろするという挙動不審っぷりだったが、いざ入ってみると、中は明るく、「怪しい」イメージを抱いていた私としては拍子抜けだった。黒いベールをかぶって、重たそうな指輪をし、手の平大の水晶玉を持つ人なんていない。対応してくれたのは明るい30代くらいの女性で、手相を見てもらった。「どんな仕事が向いていますか」と聞いたところ、「頭の回転がとても速く、仕事も効率よくこなせるタイプ。マルチタスクもできるので、忙しい銀行員とか向いてますよ」と言われた。何となく思い当たる節もあり、その人の様子からも、「占いって、単なるオカルトじゃないなぁ。人生相談のカウンセリングみたい」と感じた。

 ちょっと占いに対するハードルが下がった瞬間だったが、私は「占いは所詮占い。そこまで信じてはいけない」と再び頑なに思い込み、せっせと「適性検査」に励み、自分に向いた仕事を探した。

 結局、私は「パソコンを触るのは好きなので(そういうアルバイトもしていた)、人手不足らしいIT業界なら行けそう」「人と話すコンサル屋みたいな仕事をしてみたい」「研究室の先輩も就職した」という理由で、プログラミングからコンサルまで幅広い仕事ができそうなSE(システムエンジニア)を志望することになった。

 大学のあった北海道は、不況の嵐が吹き荒れ、あまり就職先がなかった。実家は、嫌いではないのに、なぜか帰る気がしなかった。私は、「心機一転、大都会に行って、バリバリのキャリアウーマンになって、仕事に生きよう」と思った。就職先は、川崎に本社のあるIT企業に決まった。羽田空港から川崎へ向かう際、乗る電車を間違えて面接に遅刻した田舎者を採用してくれた、心温かい会社だった。


 修論も書き終わった。卒業旅行でトルコ女一人旅も楽しんだ。学生生活でやることはやり尽くした、かのように思えた。私はこれから、どえらい忙しいらしいSEとして働いて、ひとかどの者になるのだ。引っ越しの荷づくりも済んだ。後はこのアパートのカギを返し、あと腐れなく、北の大地を旅立つのだ…そう思っていた、飛行機に乗る数時間前、私は研究室のとある先輩に呼び出された。「好きなんだ。付き合ってほしい」そう言われた。

いまさらかよーッ!

 私は心の中で絶叫した。この話をすると、「映画みたい。ロマンティック!」と言われるが、私はロマンの欠片も感じられず、マジで「いまさら」と心中絶叫した(ここまで「いまさら」と思ったのも理由があるのですが、さすがに不特定多数の方に公にできないので、気になる人は個人的に聞いてください)。

 学生生活の青春でやることやり尽くしたと思っていたが、唯一、私は男性と「お付き合い」というものをしたことがなかった。「恋愛より研究」とか思っているお堅いタイプではなかったのだが、ただ単に「両想い」になったことがなかったのだ。

 実はこの先輩は前々から少し気になる人ではあった。しかし、私はもう北の大地に別れを告げて、大都会で仕事に生きると決めているのだ。先輩はまだ大学院博士課程の途中で、北の大地に残るじゃないっすか。いきなり遠距離にもほどがある。

 あっさり断ろうかとも思ったが、なにせこの先輩、料理が上手いことで有名だった。料理嫌いな私にはうってつけ。優しいし、何かといい人。あっさり断るのは、ちょっともったいない…3秒でこんな打算的考えを巡らせた私は、「もう空港に行かなくちゃいけないので、返事はまた今度します」と保留ボタンを押した。

 言うまでもなく、この先輩こそが、後にみんなに「料理とか家事も育児もしてくれるなんて、神だね」と羨ましがられる、現「旦那」である。あの時、あっさり断らなくて良かった。

 かくして、北の大地に特大の「あと腐れ」を残すことになった私は、川崎で「科学」とも「見えない世界」とも違う、「社会」という荒波にもまれてゆくのであった。

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