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「われ広告の鬼とならん 電通を世界企業にした男・吉田秀雄の生涯」 (船越健之助)<読書ノート・広告ビジネスの歴史篇>
国内では最大、世界でも屈指の広告代理店、電通。
その歴史はそのまま日本の広告代理店ビジネスの歴史と重なります。
本記事は電通四代目社長、通称広告の鬼・吉田秀雄氏の生涯が記録されている本書の読書ノートです。
吉田秀夫氏の生涯をなぞりながら、日本の広告ビジネスの歴史を紐解いていきたいと思います。
(とても内容が厚くなってしまったので、目次を使って適宜読み飛ばしてください。。)
「広告屋は勝手口から」という時代が続いた。
いまでこそ電通と言えば、名だたる企業のマーケティングパートナーとして不動の地位を築いています。
しかし、はじめは文化水準を低く見られ、「広告屋は勝手口から」という侮蔑される立場から出発したと言います。
電通五十一周年記念の挨拶で、吉田は次のように語ったといいます。
「広告屋は勝手口から、という時代がつづいた。そうした社会的な侮辱と軽視の中にあって、広告ならびに広告活動の地位の向上のための努力をつづけながら・・・」「先輩諸氏のご苦労は、諸君の想像を絶するものがあった」
モノすらが貧しい時代にあって、まして目に見えないサービス、特に人間の認知、認識の範囲で効果を及ぼすような広告というサービスは、その価値が理解されるまでに苦労があったのかもしれません。
戦後もしばらくは俗に言われる「ゆすり、たかり」と同様の扱いを受けることもあった。(中略)企業によっては「広告お断り」の張り紙が受付に掲示してあった。吉田は「泥沼の時代」とも言った。
p16
屋上にハト小屋。通信社が主力事業だった
電通はもともと広告ビジネス専業ではありませんでした。
むしろ通信事業がメインだったようです。
通信事業とは、いちはやく情報を入手して、新聞社にニュースを提供することでその情報量を得るというビジネスです。
電通は通信部が看板であった。財政面から日本広告株式会社として出発したが、光永は通信事情の夢を切り離せなかった。やがて一方で通信社を起こしてニュースを提供し、他方、広告代理業で広告面を供給する考えとなった。新聞社から受け取る通信料と、新聞社へ支払う広告料を相殺するという方法で、あとは広告主からの掲載料や製作費を収益とすることになる。
p27
①新聞社に対して情報を提供することで通信料を得る。
②新聞社から広告枠を買う。その時の購入代金を①と相殺。
③あとは広告主から「掲載料/製作費」を得て、電通の収益とする。
とてもうまくできたビジネスモデルだなと驚きました!
そもそもこういう仕組みを考えること自体が商才を感じます。
また、ここでわかるのは、広告のメディアは新聞からスタートしたということです。ラジオ広告が登場するのはもっと後になります。テレビはもっと後です。そう考えると、テレビCMはまだまだ歴史が浅いのだと感じました。
また、びっくりしたのは、その通信事業の為に「軍から伝書鳩を買い、本社の屋上のハト小屋で飼育していた」ようです。
ニュース報道は機械化時代に入って、各社の速報合戦が出現していた。取材活動の戦力に、オートバイや鳩が使用されだしたのは、この頃のことである。(中略)屋上には鳩舎があり、陸軍の中野通信隊から二十羽を昭和三年に買い入れたもので、吉田たちと同期であった。
p28
伝書鳩って本当にいたんだ!と思ってびっくりしました。
陸軍から購入したというのも驚きです。
広告理論を独学。押し売りではない、理論的サービスを確立することを目指した。
普通、会社に入ったら先輩から仕事を学びます。
しかし吉田が入社した時、そもそも広告ビジネス自体が日本で理論的に確立されていませんでした。吉田たちは先輩から習うでもなく、自ら勉強会を立ち上げて広告理論を独学していきました。
「広告代理業は何をすればよいのか」ということを、吉田は同期入社の者や、後輩などと話すことがあった。そんなことが同期となって、仲間を集めて広告の研究会を開こうということになった。しかし集まっても自分たちがどのような仕事をしているのか、他社の動きはどうかなどの話題はあったが、テーマとするべき広告理論の知識がない。まわりにそれを語れる者もいないので、外国の書物を教科書にせねばならなかった。
日本橋の丸善に行って広告と名の付く本を漁った。だがすぐには見つからなかったので、アメリカ発行の広告についての本を注文して教科書にした。
p75-76
マーケティングの発祥はアメリカだと言われています。そのアメリカから理論を独学したようです。なんだか、明治維新の志士たちのようです。
理論的な「広告計画」をもとにサービスを提供することこそが、ゆすりやたかりと侮蔑されている状態から脱却する方法だと吉田は考えていたようです。
吉田は社長になってからも、朝会議で部下たちに向かって広告の理論を教え込んでいきました。
ラジオの民間放送の設立を目指す
それまでラジオはNHKのみでした。
つまり、広告料を収入源とした民間ラジオ放送は無かったのです。
吉田は、初の民間放送、つまり広告料金を収入源としたラジオ放送の設立を推進していきました。
ラジオは、受信機がすでにNHKの放送で聴取加入数が百十四万二千人(二十年十二月)いるし、またGHQは三年簡に受信機を読んは四百万台製造する指令を出しているのが最大の魅力だった。これは結果的には三年間で二百二十一万台が生産された。民衆放送の構想は、東京を中心に、大阪、名古屋、福岡、札幌などの全国五大都市に放送局を設け、NHJに対抗できる放送網を作ろうということであった。
p182
吉田は、こうしたラジオ普及の流れを読み、民間ラジオ放送による広告代理ビジネスを成立させることを目指して突き進みました。
こうしたラジオ広告のビジネスがうまくいくかどうかについて検討する為に、吉田はアメリカのラジオ広告放送、台湾と満州の広告放送などを調べていたようです。
難航するラジオ民間放送の実現
しかし民間放送の実現は難航しました。
GHQは昭和二十年十二月十一日付けの「日本放送協会再組織に関する覚書」を発表しました。これは、「日本の放送はNHKの民主的改組で十分である。民間放送は不要というよりも、むしろ占領政策を遂行するうえで支障をきたす。」という趣旨であり、すなわち民間放送の設立を拒否するものでした。
それでも民間放送を実現しようとする運動は続けられました。
そんな中、NHKで放送ストライキが起きました。
これをみてGHQは、「日本に一社しかないラジオ局がストライキされたら困る」と思って、新放送局の必要性を認識していきました。
それでもまだ認可はされませんでした。
そんな中、公職追放によって、民間放送設立を推進していたメンバーが追放されてしまいました。設立発起人であった船田氏も去り、吉田がリーダーにとって代わりました。
阪急社長で宝塚歌劇団の創設者・小林一三には「吉田くん、民間放送はとてもだめだよ、民間放送を発足させる前に、NHKが独占している受信料を分配させるように法律を変えるべきだ」と言われ、
のちの日本テレビの創業者・正力松太郎からは「きみはラジオ、ラジオと言っているが、もうラジオの時代ではないぞ」と言われました。
それでも吉田は諦めませんでした。
吉田の作った電通鬼十則にこんな条文があります。
三、大きな仕事と取り組め。小さな仕事は己を小さくする。
四、難しい仕事を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。
六、周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは永い間に天地の開きができる。
七、計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と、工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。
十、摩擦を怖れるな。摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は未練卑屈になる。
民間ラジオ放送実現に向けて、吉田はまさにこの十則を体現しているように感じました。
参議院電気通信委員会から放送法案審議に関する公聴会に呼ばれると、放送法案の内容について抗議をするなど、まさに「摩擦を怖れず」に挑みました。
そうした幾多の折衝と努力を忍耐強く乗り越えて、長期の計画であった民間放送を実現します。
ちなみに、初期のラジオCMに関する消費者のアンケート結果は以下のようなものだったと言います。
初期のラジオCM調査では、無関心が五十%、反感を持った人が十パーセントいたが、三十%の人が「関心を持った」と答え、CMを聞いて「買いたくなった」が四十%、「実際に買った」が二十三%にも達した。CMが予想以上に受け入れられた背景には、NHKによって培われた信頼があったのかもしれない。
p258
以外にも40%も肯定的に受け入れていたようですね。
テレビ放送の誕生と発展
一方で、正力松太郎はテレビ放送の実現に向けての計画を進行していました。
吉田ははじめ、テレビは時期尚早であると見立ててテレビには消極的でした。ラジオは既に受信機が多くの家庭に普及していましたが、テレビはそれほどでもなかったからです。
しかし正力の天才的な構想を知ってから、吉田はすぐにテレビにも取り組み始めました。
正力の構想を知って、吉田の変わり身は敏速だった。日本テレビ放送網に予備免許のおりた翌月の二十七年八月には、本社ラジオ局および大阪支社ラジオ局にテレビ部をそれぞれ新設、名古屋、北海道、九州支社においてもテレビ広告放送に備えての準備を一斉にはじめた。また本社内にはテレビ研究会があり、これまで、さまざまな人材をアメリカの広告界に視察させていた。
p263
こうした判断の早さ、舵を切る早さによって時代の波に乗っていけたのかもしれません。
海外視察。AE制の導入によるマーケティング・サービス業としての転換。
吉田は入社した頃からアメリカの理論を取り寄せて、最新の理論、知見を学んでいました。社長になってからも、前述の通り、社員にその広告理論を説いてきました。ついに、海外へ視察にいくことになります。
「終戦後、電通の復興を練っていた時、一度行かねばいけないと思っていた。しかし、今日まで、電通づくりに無我夢中であった。終戦後、十一年経った今日、一度、回ってこないと新しい頭脳の入れ替えができなくなると考えた。(後略)
p339
具体的には以下のような訪問内容でした。
吉田の視察の主な所は、アメリカ広告協会(現在のアメリカ広告連盟)年次大会、アメリカ広告代理業ネットワーク連盟、世界屋外広告会議、国際広告協会年次大会、国際商業会議所総会、国際マーケティング会議、世界ABC大会などの、これからの日本のマス・メディアと広告代理業に最も必要な国際会議であった。
(中略)
吉田の主な訪問地は、香港、バンコク、ローマ、ベルリン、コペンハーゲン、パリ、ロンドンそしてニューヨーク、アメリカ各地、そのほかであった。
p340-341
吉田は、この視察で強い衝撃を受け、たくさんの学びや課題の発見があったようです。
・国民が広告を情報としてみていること、
・アメリカの経済計画は十年先を見越して行われていること、
・またその計画をもとに、毎年9%という具体的な割合での人員増加を行っていること、10年後には現在の倍の人材にしなければならないなど具体的な計画がなされていること
・広告代理業の手数料は何パーセントが的確であるかということ
・広告代理業のサービスの範囲は何であるか?ということ
吉田は、広告代理業の本質について、「サービスの質」であると感じていたようです。
吉田「手数料を割引いて、値引きして広告をとることがサービスではない。深い専門知識を提供するかわりに、定価取引ということが絶対の前提条件となる。」
p345
この問題へのアウトプットとして、吉田は、「アカウント・エグゼクティブ(AE)制度」を導入しました。
「アメリカでは連絡部(営業)というものはなく、アカウント・エグゼクティブ(account exective)という副社長級あるいは局長級の大外交がいる。その下にコンタクトマン(contact man)が五、六人と秘書、タイピストというような者がついている。それほど広告代理業の仕事はむずかしく、一定水準以上の天分がいる。(後略)
吉田は意気込むようにアカウント・エグゼクティブの武器となる構想を語りだした。これまであまり光の当たらなかった調査部の質的強化を述べ、さらに宣伝技術部、制作部の充実を宣告した。
p345
まさに現在の広告代理店の基本形態がここで原型を現しました。
こうして吉田は、かつて、「広告屋は勝手口から」と侮蔑・軽視された時代から、「アカウント・エグゼクティブが主導のもと、広告理論、市場調査にに基づきながら、専門性の高いクリエイター、スタッフらから編成された、『有機的な組織』によって高品質・効果的なサービスを提供していく」という近代的広告代理店のモデルへと脱却、転換させることを実現したのです。
おわりに
本記事では、吉田の功績からかなり抜粋して、ダイジェストとして記載しております。吉田秀雄の功績はとても大きなものだったと思われます。
いまの日本の原型を作った昭和の巨人たちのストーリーは壮大で、そのまま映画になりそうなほどです。なにせ全体で500ページ以上もあり、読むのも書くのも骨が折れました・・・。
長編小説を読み終えた感じです。
ところで、こちらの本ですが、連続ドラマ化もしくは映画化されたらすごく面白そうだなと思いました。
ちなみに、違う視点から構成した別篇も書いておりますので、よかったらご覧くださいませ。
・人材集め、人材教育など会社づくりの観点から構成した、「会社作り篇」
・吉田秀雄の無類のバイタリティに焦点を当てた、「その働き方篇」
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