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終わりゆくものの生について。行きずりのフィールドワーカーになれるか

終わりゆく社会はどのように終わるか、また、まだ終わらないのか、
現代に生きる私たちが過去に向かって走ったところでもう間に合わないものとまだぎりぎり間に合うラインの、つまり終わったかあるいは終わりそうなものの「生」について思いを馳せる。
そこにはかえって「生」が強く表出するように感じられるからである。

篠島にて


日々スクラップアンドビルドを繰り返す代謝の良い都市よりも、限りなく誰にも気づかれないまま閉じていくだろう過疎の山村に美しさを感じる。若く勢いがあり前途洋々の人より、人生の総括を始めたかあるいは終わったような人にも。

王滝村にて

金銭的な安定を捨て、その美しさの源泉を訪ねて地域に入っていく。
今の自分の状況は、町村*が言うところの、経験豊富で高い能力を持った観察者や記述者ではなく、何らかの条件を欠いたまま現場に入っていくにわかの「行きずりのフィールドワーカー」だ。

とはいえ、日銭を稼ぐためそこ(地域)で働く。他の可能性にも開かれておきたいから。
しかし開かれていくためにやったことによって閉ざされることも多い。次第に日常に埋没していき観察者であり続けることを困難に感じるようになる。

町村が「現場(地域)」について、「観察者の眼差しにさらされるだけの単なる受け身の存在ではない。それはまた、行きずりのよそ者である調査者を、その世界の内側へと取り込み、ゆっくり変身させていく生きた力を持った場所でもある」と指摘する通りだ。
行きずりのよそ者であってもひとたび現場で生活が始まれば一人の生活者になるのである。
調査の原点は、「見る」という行為にあり、「すべての作品は自分という起点を抜きにしては成り立たない」が、「起点であるはずの自分自身は、対象との関わりの中でその位置をしだいに変えていってしまう」。

また、どこに自分の軸を置いて人生を進めるかの決断を先送りにしているために、一旦、自分は「行きずりのフィールドワーカー」だと自身に言い聞かせているところがある。
しかし「行きずり」なので本格的に問いを練って仮説を立て調査研究に至っている訳ではない。
だから、これは単なる観光として消費するようなものではなく、まだ芽を出さない蕾を育てていると信じることにして移動を旅を意味あるもの、価値あるものにしようとする。

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町村は、都市や地域の研究においては、固定、定住しているものや長くそこにあるものこそが「本物」 だという見方を前提としてしまうことに注意すべきだとも説明する。自由な移動が当たり前になってから、固定した場所に対する思い入れはノスタルジーとなり、移動や変化の体験は、むしろ移動しないものや変化しないものの神話を創り出したのだという。
終わりゆくものは変化しないものと言い換えられるため、そこに美しさを感じている時点で、心当たりがありすぎる。

耳が痛い指摘はほかにもある。
フィールドワークそれ自体が 「ものがたり」の形を取ってしまう傾向がある一方で、現場はフィールドワーカーのつくる感傷的な「ものがたり」とは無関係に存在すること、
社会科学者は想像力よりも現実の豊かさを信じ、自分が常に現実により裏切られる事実を受け入れる勇気を持つことが大事だということ、など。
たしかに、所感を書き留める時は物語調にならざるを得ない。想像力を信仰し、それによる創作を生業にする作家や詩人を夢見る節すらある。
それゆえにどこまでも現実と心中する覚悟を持つ社会科学者にはなれないのかもしれないし、「行きずりのフィールドワーカー」とも言えないかもしれない。

それでも行きずりのフィールドワークの効用は、「自らを傷つきやすい異邦人の位置にあえて置かざるを得ないという点にある」というから、都市から出てきてどこにも埋没する決心がつかない自分は、それを信じて「余所者としての違和感を持ち続けること」を努力するしかないのだろう。当面はそう思って自分を保つことにしている。

とはいっても最近は、「行きずり感」のほうは板に付いてきたようで、出会う人出会う人、話が早い。居候はさることながら、バックパッカーと呼ばれても仕方がないくらいには。

こんな感じで歩いたり止まったりしながら、楽しくい続けられたらいいな。

*町村敬志「行きずりのフィールドワーカーのすすめ一社会学的に<見る>ということー」

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