終わりゆくものの生について。間に合わないもの編
時を進むものだとしたとき、今を生きる自分たちを起点に、もう間に合わないものとまだぎりぎり間に合うものに目がいく。
もう間に合わないものとはつまり生が終わってしまったもの、ぎりぎり間に合うものとは生が終わりに向かっているがまだ終わっていないものだ。
海士町を歩き回り遭遇したもう間に合わないものを以下に挙げる。
投棄されたようにしか見えない。人は誰も通らなさそうな山道の脇に隠れるようにしてあった。そのうち草が全てを覆うだろう。
海に浸かっている部分はかなり腐敗が進んでいる。現役船のすぐ近くにあるので、間に合わなさが際立つ。
この浅瀬でこの状態ということは船というより、持ち主か管理者の生が終わってしまったのかもしれない。
こんなに丸見えなのに引きあげられないということはもうこのままなのだろう。使える状態ではあるのかもしれないが、取り出されなければ役割は終わり。
一画にはほかにもいろいろな道具が土と同化しつつあった。道の真ん中だが廃棄場なのか。むしろここの土がこれらを食って生きているようにすら見える。
道はここで行き止まりだった。人間が切り開いたところを森が奪還しようとしているようだ。接している部分から家としての生が終わる。
木はカラカラに乾いて死んでいた。叩くと空虚な音がした。
土は流出しなくなったかもしれないがひとつの命は完全に終わった。よく倒れない。
少しドアが開いている。草がいまにも入り込もうというところ。臨場感があるが、住民は居なくなってからしばらく経つのだろう。
竹やぶの上から家を建てたのではないかというところまできている。既に人がとやかくできる状態ではない。
人間がだいぶ前に間に合わなくなってから、森の生態系が新しい命を吹き返したよう。しかもなんならそれすらも枯れはじめて、若干間に合わなくなりつつありそう。
壁に縫いつけたみたいな草。
いつも壁にまとわりつく草を見ると、「ああやはり自然には誰も抗えない。誰かが生きたこの場所も終わっていくんだ」と自然に飲み込まれる人工物を憐れみつつ時間の経過を感じて過去に思いを馳せるのだが、これに関しては珍しくそのような悲壮感がない。
これは瀬底島で見つけものだが、沖縄はもう間に合わない感が少ないように感じられる。
なんとなく置き去りにされているようなものがなく見える。生と死の距離感が近いのかもしれない。寂れていても間に合う間に合わないの尺度でものを見させない雰囲気があった。
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