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京都五山の送り火 犠牲的精神に支えられた伝統行事の危機

 京都五山の送り美をNHKの生中継で観た。3年ぶりの全点灯ということで、最初から最後まで熱心に観て・・・私は絶句した。この行事を支える保存会員にかかる負担の大きさと、それを犠牲的精神で担っている様子を観たからである。これはひどい。

 事前の準備も大変だが、点火するための大松明を背負って山に登るのが、想像を絶する大変さなのだ。昼間でも登るのが大変な山道を、雨の中、重い大松明を背負って歩くのである。その姿はまるで、十字架を背負ってゴルゴダの丘へ向かうキリストのようだった。

 大変な苦行である。これを、夏の風物詩などと言って呑気に眺めてきた自分の無知を、私は恥じた。美しい五山の送り火は、こんな苦行に支えられていたのか。高齢化そのほかによって、保存会員は減る一方。コロナ禍で2年全点灯できないでいるうち、これを一区切りとして退会する人が相次いだそうだが、無理もない。こんな大変なことを無償でやっているのである。

 伝統を継承するという美名の下、五山の送り火は保存会員の、ほとんど自己犠牲によって成り立っていたのだ。その姿は、身を削って極限まで頑張る日本人の象徴である。ちょうどNHKの戦争特集を観た後だったので、その本質が変わらないことに絶望してしまった。

 重い大松明を担ぐ華奢な若者に、周囲の保存会員たちが「頑張れ、頑張れ」と声をかける。本人は大松明の重さと任務の重みに、今でも押しつぶされそうだ。それなのに、女性アナはノー天気に声をかけた。「いかがですか」と。私は唖然とした。これはもう想像力の欠如などというものではない。目の前の現実が見えていない。

 彼ら保存会員の負担を軽減しないと、送り火の将来は暗い。高齢者は引退するし、若者はやりたがらない。アナウンサーやタレント、僧侶たちが盛んに保存会員を讃えていたが、それではもう追いつかない。口で讃えるだけでなく、実質的に負担を軽減する仕組みが必要だ。何よりもまず、大松明の運び方にも工夫が必要だろう。

 どこでも伝統行事の担い手は減っている。少なくなった担い手たちの負担は、さらに大きくなる。そして担い手たちは、伝統を継承しているという誇りだけで頑張っている。そういう犠牲的精神だけに依存してはいけない。私も含めて、みんな第三者的に眺めて楽しむだけで、担い手の大変さに想像が及ばない。

 私たちは他者の労働や苦闘に対して、もっと想像力を持たないとダメだ。電車だって自分で動いているわけではないし、コンビニにおにぎりが並ぶまでには、多くの人が介在している。そういう他者の労働と苦闘の上に、私たちの生活が成り立っている。

 花火大会も、無料で観られるのを当たり前だと思っている。打ち上げにも警備にもお金がかかるのに、少し有料にすると文句を言う。一人500円出すだけでも、ずいぶん助かるだろう。お花見だって同じだ。手入れをして桜の木を守ってくれる人がいるから、春を楽しめるのである。サービスだけ当然のように受けるのは、もう終わりにしたい。

 私は五山の送り火も祇園祭も、地域の盆踊りもずっと続けてもらいたいと思っている。しかし、盆おどりは町会や商店街が主催していて、多くの人はそれを楽しむだけ。地縁血縁共同体が壊れたあと、それに変わる仕組みができていない。

 本来なら学校で、こういう公共の問題について教える必要があるのだが、実際は早くから市場経済へ参加するように促すだけ。政府が一億総投資家という謎の目標を掲げる中、子どもに起業や投資を教えている。

 これからの時代に必要なのは、損得を超えた世界をどうやって維持していくか、その担い手をどう支えていくかという問題だ。教員や医療従事者、保育士や介護者に極限までの自己犠牲を強いる社会は破綻する。これは深刻な問題だ。
 


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