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(11)逃走

 午後一時過ぎ、PCを開く。スマートフォンに入れてあるSNSをこちらでも覗く。たまに何かを言われたり、訊かれたりするが、絶対に返信はしない。一喜一憂したくないからだ。いいねもお気に入りもブックマークもフォローも短いコメントも怖くて仕方ない。フォローされてもフォローを返すことはない。それでも非公開にしないのは、ほんのわずかに残った自己顕示欲だろう。
【着替え。朝食。洗濯。掃除。買い物。昼食。おしまい。】
 午前中にやり終えたことを並べただけの、短い投稿にも、誰かが読んだ形跡は残る。こんなもの、何になるというのか。たまにいいねがつくこともある。馬鹿なのかと思ったり、こんなことすらできなかったころの自分を思い出して「この人にとって羨ましいことなのかな」と思ったりもする。
 他人のことはよくわからない。自分のことすらわからないから。
 皆、自分のことで手一杯だ。
 その中で、誰かと交流を持ちたがる人がいたりして、今は違うけれど、私もいつかそちら側に行くのかもしれない。いや、行くだろう。人が他人と関わらないまま生きていくのは途轍もない労力を必要とする。私は一生それを支度できないだろう。誰かと気まぐれに関わって、傷ついたり、喜んだり、そうやって昔みたいに戻っていくのだろう。
 近い将来、歪な形だったとしても心がくっつき直ったとして、また何かの機会に壊れてしまったら、私はまたこの修復作業を行い直せるだろうか――いや、やるしかないのだ。それが生きるということで、人生だ。
 壊れない人が恨めしい。この世にいるのかわからない存在に、強烈に嫉妬する。

 SNSの中では、煌びやかなものがたくさん載っている。私の行う義務としての丁寧な暮らしじゃない、本物の、意図的で打算的な丁寧な暮らしが繰り広げられている。
 あるいは、彼らも死んでしまいそうになりなりながら必死に心を保つために丁寧に暮らして、それを写真や動画に撮って、綺麗なものとして世の中に提示しているだけなのだろうか。そういう自意識の保ちかたもあるのかもしれないな。私には到底できないけれど。答えはわからない。私は彼らと関わろうと思わない。
 見栄えのいいパスタを作っても、ケーキやパンを焼いても、埃一つなく掃除しても、植物に花が咲いても、私はその写真をSNSに投稿したりなんてしない。余計なことはしない。そこで新たに心が傷つく可能性が少しでもあるのなら、私はそこから逃げる。
 私は弱虫だ。
 それの何が悪い。


(続)

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