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(22)そこにはいない

 私は、教師だった。
 生徒に物を言い、導き、教える立場だった。
 今とは違う生きかたをしていた。嘘じゃない。嘘じゃない私は、また何者かにならなければならない。
 丁寧な暮らしを続けて、その先に何があるだろう。心の安寧を手に入れて、いびつなまま心がくっついて、もうクリニックにも通わなくていいですよと担当医に言われて、そのころ私は何をしているのだろう。また教師に戻っているのだろうか。それとも別の何かに変わっているのだろうか。まだ丁寧な暮らしは続けているのだろうか。続ける余裕はあるだろうか。続けたいと思えているだろうか。SNSの人たちのように、好き好んでやるようになるのだろうか。それはそれでいいと思う。それも一つの在りかただ。私は何者かに戻りたい。
 犬塚さんが羨ましい。何者かであったことを盲信できている彼女が、心から羨ましい。

 犬塚さん。私、先生だったんです。今の私からは、想像もつかないだろうけれど。教壇に立って、子どもたちにものを教えていたんです。それが、何者かだった私なんです。私、今、好きでもない細やかな暮らしをしています。楽しくありません。それでも、そうするしかないんです。心を保つためには、そうするしかないんです。意味わからないですよね。私もわからないままです。でも、本当にそうなんです。そうなんだとしか言えないんです。私の部屋は綺麗で、塵なんて一つも落ちていなくて、きっといい家なんだと思います。
 何者かになれたら、普通の、平凡な家になるでしょうか。
 平凡って、普通ってなんだと思いますか。
 犬塚さんは、きっと普通じゃない何かになりたかったんでしょうね。私は普通になりたかったです。普通の、いい先生になりたかったんです。なれませんでした。今は普通の人に戻りたくて、努力をしています。正しい方向性の努力かはわかりません。それでも、頑張るしかないんです。丁寧を頑張るしか、私には思いつきません。



 薬局で薬を受け取る。リュックサックに詰める。帰り道を往く。秋の風が吹く。ショートカットを揺らす。帰ったらベランダの洗濯物を取り込んで、丁寧にたたんで、しまって、晩ごはんを作ろう。きょうはビーフシチューにしようか。ハード系のパンはきのう焼いてある。それをカットして、浸して食べよう。皿を洗って、水の冷たさに少しだけ冬の気配を感じて、そうして薄明りの下で本を読もう。カフェインレスの飲み物を含みながら、落ち着いた曲を聴こう。歯を磨いて、几帳面に整えられたベッドに入って、電気を消そう。
 目を閉じて、何を思うだろう。

 先生大好きって言われてみたかった。
 彼に捨てられたくなかった。
 心を壊したくなかった。
 深呼吸をするだろう。ベッドからリネンスプレーの柔らかい香りが肺を満たして、薬の効果で深く眠りに入るだろう。

 私の、丁寧な暮らしは続いていくだろう。
 あすも。あさっても。その次も。私の心だけを置き去りに。


(「命、在るものになりたくて」24.5.17【終】)

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