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(21)ゆるされたい

 私の診察が始まる。案の定話の切り出しは医師からで、
「他の患者さんとちょっと仲よくしすぎかなと、看護師から話を受けていますが、いかがですか? 大丈夫ですか?」
 とのことだった。
「外のベンチでお弁当を食べている時に、一方的に話しかけられているだけです。返事もそれほどしませんし、連絡先なども交換する気はありません。基本的にずっと無視しています」
 端的に事実だけを述べる。医師は理想通りの回答に満足したように、
「それならいいのですがね」
 と言って、そのまま話題は私自身のことに移った。
「いつもと変わりません。一つ一つを丁寧に行って、自分の安寧を保っています。なるべく変化のない、平穏な毎日を繰り返すよう努めています」
 そうですか、と医師は言い、
「いいことですね。あなたにはルーティーン化は向いていると思います。そのうちやりたいことや目標も見つかって、次のステップに進めるでしょう。それまではきのうまでの生活をあしたも続けて、穏やかに暮らしてください」
 そうして投薬の話題に移る。きょうは減薬もなく、その代わり頓服の個数が減った。
 医師に頭を下げ部屋を出る。犬塚さんはいない。まだベンチにいるのだろうか。薬局へはベンチの前を通らずとも行けるので、犬塚さんと顔を合わせることはないだろう。きょう以上に犬塚さんと話すことももうないだろう。


 私はきのうもきょうもあしたもあさっても、丁寧な暮らしを続ける。四角い部屋を四角いままに掃き、皺のない服を着て、手料理を食べ、手の込んだ菓子やパンを焼く。心に優しいものだけを見て、強い刺激となるものからは距離を取る。

 犬塚さんの言葉を思い出している。舞台女優だった。それなりに人気が出た。ストーカーにつけ回されて、女優を諦め田舎に逃げてきた。また舞台に立ちたいと思っている。
 それらはどれも嘘だと看護師は言う。医者も彼女と関わるなと言う。

 じゃあ私は、本当に教師だったのだろうか。私は、本当にあの同僚と付き合っていたのだろうか。私は本当にいじめを見過ごしてしまったのだろうか。私は考える。これでも、私の妄想だったとしたら、それを真実と思い込んでいるのは私だけではないのだろうか。私はただ彼女と同じで、自分が構築した理想の世界から弾かれた存在として、ただそれだけで狂って、壊れているだけではないのだろうか。
 勿論、教師だったころの証拠はある。もう役に立たないだろう教員免許だって、必死に勉強して取ったという過去がある。その過去には明確な証拠がある。いじめも事実だ。いじめられた子がいて、いじめた子がいて、いじめを傍観していた子がいて、彼らは皆一様にそれを私に隠し続けた。私を責め立てた親たちがいる。壊れてしまった私に仕送りを続けてくれている親がいる。私の過去は嘘ではない。

 嘘だったら、どれだけよかっただろう。
 犬塚さんのことを思う。真実から目を背けた彼女と、真実から目を背けられない私と。
 犬塚さんの目が覚めないことを祈る。彼女は、確かにスポットライトを浴びていたのだと信じてあげたい。嘘を嘘とわかっている上で、それでも信じてあげたい。目覚めさせてあげたくない。虚構の中で、女優だったことを拠り所にしてあげたい。
 あなたは、美しい人だと、断言してあげたい。
 あなたは美しい女で、人々の関心を一心に集める、演じることで生きた女なのだ。
 それでいいだろう。そう思うことで彼女が狂ったまま、それでも辛うじて生きていられるのなら。


(続)

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