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10月30日、バカ騒ぎの海でいまも僕は溺れたままさ。

遅ればせながら『A子さんの恋人』を全巻読んだ。みんながA子さんに無条件に優しすぎるのが気になったものの、久しぶりに一気にページをめくり続けた。この漫画を読んだ人の多くはきっと「登場人物の誰に共感した?」っていう会話がしたくなると思うのだけれど(そこがこの漫画のすごいなところな気がする)僕のモテない人生なりにも、A太郎の孤独にはすこし覚えがあって、最終巻のあとのページでは、どうかたのしい人生を送ってほしいと思った。8年間も溺れていたのだから。溺れている自分に酔っているわけでもなく、ストイックに溺れ続けた20代を想像するだけで、胸のあたりがざらざらする。

わたしは、わたしにしかなれないなんて、わたしが嫌いなわたしの立場にしてみれば、やっぱり無慈悲じゃないかなって、そういえば思っていたことを思い出した。A太郎ではなく、僕が20代後半の頃の話である。

しかし、自分のことが好きじゃないと、他人に優しくしちゃうのって、なんでなんでろうね。それらしい理由は浮かぶけど、もう一度最初から読み直して考えたいところ。それらしいは、実際はまったくもってらしくないのである。それは最近、やっとわかった。

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さて、少し自分でも驚いているのだけれど、働くという日々から離れた僕は、ちょっと自分のことが好きになった。厳密にいうと、仕事をがんばっていない自分も悪くないと思えた。すると、最近は毎日がたのしい。そして、毎日は意外と忙しい。ジムにも行きたいし、カレーも食べたいし、勉強もしたいし、映画館にも行きたい。スピーカーの前でアルバムの一曲目から最後まで聴きたいし、移動中は聴きたいラジオが渋滞しているので、まったく苦じゃない。料理もたのしい。妻が食べてくれるので、適度な緊張感もあってよい。

生活、わるくないぞ。でも、油断は禁物である。
(どうしてこうもすぐ調子に乗ってしまうのか、それは謎であるが、33年間で獲得してしまった碌でもない習性だと位置づけている)。

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あくまで僕の場合は、とりあえず身体を動かせば、とりあえずはなんとかなるということがわかった。

マインドはこってりとした文化系だけど、娯楽のない田舎で育ったこともあり、コミュニティとしては体育会系に属していたので、運動をすると忘れていた自分の輪郭をなぞるような感覚があって、33年間の人生の連続性を再構成できている気がした。

ジムのトレーナーが「マッスルメモリーって言葉もありますから、昔運動していた人はすぐに感覚を取り戻しますよ」と言っていた。マッスルメモリーなるものが科学的な証左をもっているかは知らないけど、身体を動かして過去と未来がつながると、やっぱり活力のようなものが湧いてくる気がするから不思議だ。吉田豪も「サブカル人が鬱になるのは運動を嫌うから」と言ってたし、やっぱり運動は悪くない。まあ、あくまで僕の場合はだけれど。

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また、A太郎のことを思い出す。彼は8年間、谷根千のボロアパートで溺れていた様子だが、20代の僕も、その近くの街である白山あたりでしっかり溺れていたので、やはり重ねてしまうのである。何か自分をときめかせてくれるものに期待して、往来堂書店に行ったことも何度もあったし、意味もなく夕焼けだんだんを往復したりしていた。

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ところが、白山の1Kで、ほとんどゴミ屋敷みたいな部屋に住んでいた(いや、部屋に帰ってもいなかった)僕の3年後は、自らが毎日せっせと掃除をする小綺麗な部屋で、あたらしく買った加湿器の蒸気を眺めながら「これでこの冬も越せそうだ」なんて思っているのだから、人はかんたんに変われるというか、変わってしまうものである。新しいものが大好きだから、感化されやすいってだけかもしれないし、別にそこは子どもの頃からそうだった気がする。でも、なんでもいいんだ。元気であれば。あくまで僕の場合は、である。

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