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声が大きいことと字を濃く書くこと

小さい頃から、僕は筆圧が弱かった。

母や教師から、何度「濃く書きなさい!」と指摘されたかわからない。

でも、僕は頑なに字を濃く書くことをしなかった。

僕の字の書き方は、紙の上を鉛筆を滑らせるように書くので、薄くしか書けない。

濃く書くには、紙に鉛筆を強く押し付けるようにしなければならず、その感触がたまらなく嫌だったのだ。

なので結局大人になっても薄い文字を書いているのだが、今日こんなツイートを見た。


このツイートを見て僕は、「おぉなるほど」と思いリマインドのためにリツイートした。

なぜ?

字を濃く書くことを頑なに拒否してきた自分が、なぜ声を大きくすることに賛同したのか?

それは、そこに合理的な理由があるからだ。

声を大きくすれば何とかなるのなら、好むと好まざるは別として、そうせざるを得ない(まぁ外国人と話す機会はほとんどないんだけど笑)

対して、字を濃く書くことにどこまで合理的な理由があるのか?

僕は薄くても読むことができれば何ら問題ないと思う。

確かに濃い方が読みやすいかもしれないが、それよりも綺麗で読みやすい字を書くことの方が重要だろう。

それに、学生時代が終われば鉛筆で書くことはほぼない。ほとんどがボールペンだ。ボールペンでは筆圧の強さはあまり関係ない。

つまり、「鉛筆を使って濃く書くこと」には合理的な理由がない。

そして当時の僕は「合理的な理由がないこと」に従うことに我慢ならなかったのだ。

それに、今って手書きの文字を読んだり書いたりする機会が僕の子ども時代より圧倒的に少なくて、ほとんどのことがPCやスマホで済んでしまう時代だ。

だから僕は子どもの頃からそう思っていたけど、今の時代は尚更そうだと思う。

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子どもの時って、理由が定かでないことを強制的にさせられることが多い。

だから、僕は自分の子どもにはできる限り合理的な説明をするようにしている。

娘も自分と似たのか、きちんとした合理的な理由がないと納得しないタイプだ(笑)

理詰めで説明しすぎることで、感情的なことを無視してしまうリスクは考慮しないといけないけども、合理的な説明は大人にとっても子どもにとっても大事だ。

娘に対して、何となく「慣習だから」「みんながやっているから(←日本人は特にこれ多いよね)」という理由で納得させたくはない。

ただでさえ親のやることは、子どもにとっての押し付けになりがち。

やっぱりそういう思いは極力しないで育って欲しいなぁと思うから。

そんなことをふと考えた日でした。

お読みいただきありがとうございます。

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