【短篇】海に向かう電車

 海に向かう電車が、ドアの窓ガラスの向こうを並走している。僕は少し顔を上げて、知らない人たちのうしろ姿ごしに、くすんだ銀色の車体を見た。馴染みのある漢字二文字の行き先表示が目に入る。――湾に面したその街には大学のゼミで知り合った友人が住んでいて、友人は先月の末に、部屋の本の片付けを手伝ってくれた。四月からの就職に伴う引っ越しの最後の工程として、僕が前に住んでいた部屋から運んできた大量の本を、どの本棚のどの場所にしまうか、というなかなか大変な問題があって、その手伝い、もとい作業中の話し相手を引き受けてくれたのだった。友人も僕と同い年で、同じように四月から就職だった。あれから二週間経って本当に仕事が始まって、しばしば連絡を取り合ってはいるけれど、顔を合わせたのは片付けのときが最後だった。次に会って話をするのがいつになるのかは分からなかった。朝の満員電車で吊革を掴んで猫背になって、そんなことを考えていた。
 並走している電車は徐々にスピードを上げて、こちらの黄色い車両を少しずつ追い抜かしていく。あちらは僕の一人暮らしの街の駅には止まらず、まっすぐに都心を抜けて行く路線だけあってたくさん人が詰め込まれているし、友人の街に着くのは今から大体一時間半後ぐらいになるはずだった。あの中にそこまで行く乗客はいないとしても、運転手さんや車掌さんは最後まで行くのだろう、と思うと、すごい移動距離ですごい仕事だと安直に思った。僕は毎日朝から夕方まで座って研修を受けているだけでへとへとだというのに。でも、そう思うことは、卑下でも自己憐憫でもなくただの事実で、そこに良いも悪いもなかった。遠くに覗いている曇り空と同じくらい存在感があって、同じくらい不確かな感情だった。常に微かに肩が重くて、目は冴え渡っていた。離れて行く電車や人混みの中に、本当は見えないものが見えるようで、スーツを着て座っている友人の姿が、会社の名前も場所も知らないのにぼんやりと浮かんだり消えたりしていた。
 そうやってごった返す駅の階段や身動きの取れない車内はストレスだけれど、僕は電車が好きだった。路線や車体に取り立てて詳しい訳ではなく、乗っている時間以外に電車のことを考えるのは稀だったが、それでも電車を見ることや乗ることが僕は小さい頃から好きだった。かつて実家で母が言っていたことを信じるのだとすれば、僕の第一声は、つまり約二十年前に生まれて初めて口にした言葉は、電車、の一言だったらしい。いちばん初めのできごとで全てが決まると考えるほど僕は生真面目ではないから、その言葉が自分にとって大事な意味を持つとか、何かを規定しているのだとか思うことはなかった。ただ、そうは言っても予感や予言のようなものを後付けで見出したくなる誘惑に駆られることはあった。自分自身からあらゆる言葉を剥ぎ取っていったときに、最後に残るのはたぶん本か電車で、でもやっぱり口は、電車、と動くような気がした。あるいはいつだったか、僕は酔っ払ったときに、僕にとって人生は電車なんだ、と口にした。――窓から見える景色って流れ去ってくだけで、辿り着けないでしょ? レールが引かれて道が決まってて、だから自分で決めることなんてほとんどなくて、しかも箱の中にいて、手に触れられないものばかり外に見えている。でも本当に手に触れて、本当に自分が大事にできるものは、せいぜい近くに座ってる人とか自分の座ってる椅子ぐらいなんだよ、云々。
 僕が電車を好きになったのも、元はといえば言葉を覚えるくらいの頃に住んでいた団地がたまたま線路沿いで、母がその近くに幼い僕をよく連れて行っていたからだ。もちろん僕は電車を見て嬉しそうにしていたのだろう。でも、たとえそうだとしても僕は、自分一人の意志で自分が電車を好きになったとは思えなかった。住んでいた環境や周囲の大人の行動が、好きになるように仕向けたのだ、とまでは言わないけれど、それでも強い影響があったのは間違いない。そもそも自分の記憶にない頃のできごとなんて、当時のことを覚えている人の言葉を信じる以外に知りようがないのだった。――そういえば、僕を産んだ頃の母と、そして母と同い年の父は当時二十代の後半だったのだから、その年齢に僕は今やどんどん近づいていることになる。僕とたいして歳の違わない姿の両親が、小さくてふっくらとした僕を抱いていたのだと思うと、何だか不思議な気分になった。線路沿いの春の木漏れ日の中に立っている三人に後ろから声をかけられそうな気がした。ただ、その様子は、実家の棚にしまわれたアルバムの中の、古いカメラで撮ってプリントアウトされた写真と同じように、はっきりした色彩のせいでかえって薄暗く見えた。音も匂いもなかった。二人が、そして僕の記憶にない僕がいた風景は、きっとそんなものではなかったはずなのに。
 と、こうしてとりとめもなく色々なことを思い出しているのは、今、夕方の帰りの電車で隣に立っている人たちの話が、とりとめもなく僕の耳に入ってくるからだった。


 その二人組は、僕が電車に乗る前からこの車両にいた。僕はドアが開いて乗り込むなり、入って右の席のいちばん端の空間が一人ぶんだけ空いていることに気が付いて、すぐに腰を降ろした。今日の研修は会社ではなく、会社から随分離れた街で行われていたから、いつもより少し疲れていた。普段通勤に使っている路線で帰れるとはいえ、アプリで時間を調べたら最寄り駅まで一時間半かかると表示されたので、座れるのならば座っておきたかったのだ。向かい合った薄緑のロングシートは僕が見つけた空間以外は全て埋まっていて、だから乗り込んですぐに座ることができたのは運が良かった。ほっとして黒の通勤鞄を床に置いて前を見ると、向かい側に広がる夕暮れどきの空にざわざわとした車内の様子が映り込んでいた。その中に、二人組がいた。
 最初のうち、二人は僕のすぐ横に立ちながら、しかし僕と同じ方向を向いていて、つまりこちらに背を向けて立っていたので、僕は窓の反射の中に二人の顔を見ることができた。片方は髪が長くて背が高く、もう片方は髪が短くて背が低かった。二人とも若い、と思ったけれど、僕よりいくつか年上のはずだった。前者の長い髪は明るい茶色で、ベージュのバッグを肩の出る黒いニットの肩にかけていて、寒くないのかなと思った。後者の短い髪は黒い癖っ毛で、大きな丸い眼鏡と首にぶら下げたゲーム用と思しきヘッドフォンが、もこもこしたパーカーと同じ紫に光っていて、季節相応に暖かそうに見えた。――特徴的とはいえ、とりたてて目立つ訳でもないその人たちに意識が向いたのは、背の低いビルや流れていく架空線と二重映しになった二人が、そうやって僕と鏡の中で目が合う格好になっていたからだろう。
 二人は僕が座る前から話をしていて、話題は共通の知り合いの失敗談らしく、時折周りにはばかった抑えぎみの、それなのによく響く笑い声が車内を通り抜けた。姿は遠くに浮かんでいても、本人たちは横に立っているのだから声はすぐ近くで聞こえる。背の高い方は、いでたちの割に、と言うと失礼だけれど、きらびやかな見た目とのギャップがある上品で澄んだ声で、そしてそちらとは違って、見た目通りと言うとこれまた失礼かもしれないけれど、丸っこい雰囲気に合う背の低い方のいがらっぽい猫の鳴くような声は、どちらも全然タイプが違っている。でも、そんな違いがあるとはいえ、二人はお互いのことを、お前、と呼び合っていて、とても仲が良さそうに見えた。そんな二人の関係は友人なのか仕事仲間なのか恋人なのか、はたまた親族なのかは分からなかったけれど、とにかく僕はその人たちがまるで、全く違う作者の全く違うジャンルの漫画の登場人物たちが飛び出してきて話をしているような印象さえ受けた。
 そうやって声を間近に聞いて、遠くにその姿を見ている二人に、学生時代にスーパーのレジを打ちながら常連客に心の中で勝手にあだ名を付けていたのと同じように、あだ名を付けた。――魔法使いとサイバーパンク。もちろん髪の長い方が魔法使いで、髪の短い方がサイバーパンクだった。我ながらよく似合っていると思った。そんなぴったりのあだ名に満足した僕は、いつの間に何がどうなったのか、カニカマとかまぼこの違いが分からない、と言い始めたサイバーパンクに、お前さすがにそれはないわ、冗談でしょ、と魔法使いが茶化すような、それでいて何割かは本気でびっくりしたように答えるのを聞きながら、通勤鞄のチャックを引っ張った。二人の会話は続いていた。
 は? 冗談じゃないし。
 えぇ、マジなの?
 マジだけど? え、ダメなの? ぼくがカニカマとかまぼこの違い分からなかったら。
 いや、ダメってこたぁねぇけどさ、ねぇ。
 ねぇって言われても。
 んじゃあ今度あたしんち来たとき食べなよ。あげるからさ、好きなだけ食べ比べしろ。
 そんなこと言ったって絶対覚えてないだろお前、明日には忘れるって。
 あー、忘れるねぇ。
 と魔法使いは口角の上がった言い方で言った。僕はそのタイミングで白いイヤホンを耳にはめて、最近よく聞いているラジオ番組のアーカイブを再生し始めた。――イヤホンをしたとはいえ、大して遮音性のあるものではないので、相変わらず電車の走行音やアナウンス、そして二人の会話が耳に入ってくる。でも、そんな雑然とした音に取り囲まれるのが妙に心地よくて、僕は目を閉じた。そうすると身体の力が抜けて、僕はロングシートの端の仕切り板に頭と左肩を預けた。ラジオでミュージシャンがかけた曲のメロディをちゃんと追いかけていたのに、そしてそんなつもりは少しもなかったのに、驚くほど明確に意識が途切れて、夕暮れ時の光は少しも残らず真っ白になった。


 急に明るくなった視界の中で、魔法使いとサイバーパンクがはっきりとした姿でこちらを見ていた。口が動いて言葉が話され、腕や首が動き、そのたびに実体を持った髪が少し揺れた。窓の外に浮かんでいる黒と紫の幻でしかなかった二人が急に現れたのだから、僕は思わず声を上げそうになった。とはいえ、落ち着いて宵闇の空や車内の蛍光灯の光、そして周囲の人たちを見れば分かることなのだけれど、それはさっきまで僕の横で立っていた二人が、向かいのシートに座っているだけのことだった。でも、そうだと分かっても、しばらくは意識を取り戻してすぐの変に速い鼓動が身体の中で重たげに鳴り続けていた。ラジオのアーカイブはいつの間にか終わっていて、音の出ていないイヤホンを耳にはめたまま、僕はしばらく焦点の合わない目をさ迷わせていた。逃げたらしいよ、という魔法使いの言葉を思い出していた。逃げたらしいよ、新入社員全員で。
 目を閉じてラジオから流れる波音のような曲をきれぎれに聴きながら、それでも僕は二人の話を確かに聞いていた。カニカマとかまぼこの話からこれまたどこをどう通ったのか、魔法使いが、ゆうた今年就職で一人暮らししてるんだけどさぁ、と話し始めた。言い方からすると、ゆうたという人は魔法使いの年下のきょうだいらしく、四月から入った会社で毎日研修を受けていると魔法使いは説明した。サイバーパンクはふんふんと手練れの占い師のように神妙な相槌を打った。覚醒していないにもかかわらず二人の声がちゃんと聞こえていたのは、全く知らない人だけれど、自分と似た境遇にいるのだということが無意識のうちにも分かったからかもしれなかった。
 で、同期は六人いるらしいんだけど、と魔法使いは言う。――先週って言ってたかなぁ。電話で聞いただけだから詳しくは分かんねぇんだけど、全員で逃げたらしいんだよねぇ。やばくない?
 逃げたぁ? とサイバーパンクは答える。――逃げたっつってもお前、それは何、みんなでサボるとかそういうことか? それともその、突然会社からいなくなるとか?
 いや、聞いて驚くなよ? と魔法使いは笑う。――昼休みに、外でご飯食べてきまぁすって言ってさ、みんなで会社の外出るじゃん。それで、そのまま。しかも泊まり。
 そんなことある? とサイバーパンクは声を裏返した。――誰か会社に密告するとか、裏切るとかもなく?
 なかったらしい、と魔法使いは答える。会社サボって一泊二日。やばいよねぇ。
 それはやーばいなぁ、と言ってサイバーパンクはけけけと声を上げて笑った。すると魔法使いもつられて笑って、やーばいやーばい、とサイバーパンクの言い方を真似て繰り返した。そうして魔法使いは意気揚々と逃避行の概略を語り始めるのだった。――それは周囲の人たちからすれば予兆のない突発的なできごとだったが、ゆうたたちは三日ほど前からきちんと計画を練っていた。きっかけは、逃げたい、全員で、と一人がふと呟いたことだった。そして、それならば本当に逃げてしまえば良いのではないか、と話が膨らみ、一人で逃げたとしてもそれはただのサボりになるけれど、同期全員で、しかも泊りで逃げ出せば逆に責められないような気がする、ということになった。帰ってきてからお咎めや注意があったのかは魔法使いの知るところではなかったが、ゆうたは今も元通り毎日会社に行っているのだから、一種のなかったことのようになっているのだろう、と魔法使いは考えた。でも、とサイバーパンクは首をひねりながら言った。――携帯の位置情報とかそういうのでバレたりしなかったのか? 何なら知ってて敢えて泳がしてた、とかありそうな気がするけど。
 いや、それはなかったはず、と魔法使いは答えた。というのも、事前に計画を立てている段階で、おおごとになりすぎると面倒だし、現実的に考えて行方をくらますことができるのはせいぜい一日か二日といったところだろうから、一泊二日の小旅行で、かつそれぞれが家に帰るまで携帯はオフにし続けた方がいい、という意見が出て、そしてそれは本当に実行されたのだった。事前の話し合いもSNSは一切使わず対面で行われ、宿や電車の予約も全て電話で済ませておくという徹底ぶりだった。今どきそんな旅行は心細かったのではないか、と魔法使いは想像し、ゆうたも実際に携帯が使えないのは不便だと感じていた。何より、あとあとになって見ることになるであろう何件もの通知やメッセージが溜まった画面のことを考えると恐ろしかったが、結局誰一人携帯を開くことはなかった。というのも、全員の携帯はまとめて白い網袋に入れられて、それをゆうたが持っていたのだ。電源を切られてただの黒い塊になったたくさんの携帯が、触れ合うたびにこつこつと音を立てていた。
 とはいえ、ゆうたたちはあらゆる情報から完全に遮断されていた訳ではなかった。一晩泊まることにした宿が、逃げ出したうちの一人の祖父母が経営している宿で、その二人にはある程度のことは話してあったのだ。だから、本当の緊急事態が発生したり、万が一逃避行が露見したりするようなことがあれば、こっそり知らせてくれる手筈になっていた。ただ、祖父母たちはほとんど話に出てこなかったから、緊急事態も露見も特に起こらなかったようだ。いい人そうだった、というあやふやな言葉だけが、ゆうたの二人についての感想だった。
 宿は温泉宿で、増築に増築を重ねた不思議な作りだった。入り口はコンクリートのマンションのようなデザインだったけれど、中に入ってロビーを抜けると、突然木製の古い建物になった。しかも、建物の中のはずなのに廊下に軒がはみ出していて、白い提灯が釣られている。そしてそんな薄暗い雰囲気の中にも、突然石造りの神殿のようなトイレが現れたり、宇宙船のように丸く独立した一室が壁を突き抜けていたりした。また、一階だと思って歩いていたはずなのに窓の外を見れば三階で、崖下に連なった他の宿が見えたり、逆にいちばん上の階に行こうと思って階段を上った結果、地下の駐車場に辿り着いたりもした。経営者たちの孫にあたる一人だけが迷わないので、どこへ行くにしても団体行動を強いられることになった。とはいえ、ゆうたたちが泊まったのはごく普通の和室で、シーズンオフでも馬鹿にならない宿泊費を節約するために、全員で同じ畳の上で眠った。こんな夜ならではの打ち明け話もいくつかあったけれど、身体も心もみんな疲れていて、人の目も気にせずに熟睡するか、あるいは疲れすぎて全く眠れないかのどちらかだった。ゆうたは後者で、家に帰ってから十時間ぶっ続けで眠った、と言った。


 さて、僕はそうやってゆうたたちの話をずっと聞いていたのだけれど、彼ら彼女らが泊まっていた奇妙な宿がどこにあるのかという肝心なことが、どうもはっきりとしなかった。新潟だ、と重たい頭の中で僕の記憶は言っていた。湯沢、という音が聞こえた気がする。でも、新潟の湯沢の話をしていたのは目の前の二人ではなくて、イヤホンから聞こえてくるミュージシャンの声だったはずだ。二人の声にかぶさる音楽が終わってから、少し掠れた高い声で、長い長い思い出話が始まっていた。
 俺ね、今度のツアーで新潟行くんだけど、とミュージシャンは言った。――実はデビューして六年? ああ、今年で七年目か、なんだけど、実は俺、一回も新潟って行ったことなくて。ていうか人生で一度も行ったことないのよ、新潟。
 ただね、ニアミスっていうか、縁みたいなのはちょくちょくあって、とミュージシャンは言った。――俺、大学生の頃、廃墟サークルってのに入ってたの。何それ? ってよく言われるんだけど、なんつったらいいかな。まぁ、廃墟とか遺構とかを見に行く旅行サークル、って感じかな。どっちかというと物好きよりは普通に旅好きが多いって感じで、俺は写真撮るの好きだから、友達に誘われて入ってて。で、それの合宿でね、栃木とか群馬の方へ行ったのよ。足尾銅山ってあるでしょ? あの辺。で、まぁ色々回ってる中で、山の中のトンネルの中の駅、ってのがあったのよ。もちろんそれは全然廃墟とかじゃなくて珍しいから行ってみよう、って感じだったんだけど、今もあるのかなぁ、まぁ検索とかしてもらったら分かると思うけど、そういう駅があって。真夏だったんだけど、ホームに降りたらめちゃくちゃひんやりしてて寒いくらいで、それですごい長い薄暗い階段上がって外出るんだよね。外に出たら出たですごい森の中で何もないんだけど。で、そのことももちろんすごい印象的だったんだけど、何より覚えてるのが、そこの駅って栃木と新潟の県境ぎりぎり手前で、路線図とか見たら二駅ぐらい先がもう湯沢なのよ。湯沢ってほら、有名な小説もあるし、俺温泉好きだから行きたいなーって思って、あとサークルの先輩たちも新潟近いねぇ、行けるねぇ、みたいな話してたんだけど、時刻表的に無理だったかなんかで結局行けなかったの。そのことをすごい覚えてる。行きたいとこの手前まで来て行けないんだ、っていう。
 で、新潟に行けなかった話、それだけじゃないんだよね、とミュージシャンは言った。――まだあるの? って思うかもしれないし、行けなかった話とはちょっと違う、っていうかだいぶ違うんだけど、いやーあのねぇ、高校のとき好きな女の子が同じクラスにいて、その子がね、新潟出身の子だったのよ。それも山の方じゃなくて海の方って言ってて、ああこの子は北国の、それもずっと奥の海の方から東京へ来たんだなぁ、って思って。うん。こういうのって気持ち悪いかな? まぁ一応言い訳しとくと、その子も俺も転校生で、ほら、俺も地元は奈良だからさ、田舎じゃん。田舎ってこういう感じだよね、とか、東京すごいよね、みたいな話をしてるうちに仲良くなったっていう。で、奈良も東京の真ん中の方も海ないからさ、憧れみたいなのがすごいあったんだよね、海に対して。で、ずっと行けないままで、一時好きだった人が生まれて、その向こうに海がある見たことも行ったこともない場所のこと考えて曲作りました、っていう、まぁ要するにそういう話です。あとさっきも言ったように今回のツアーで新潟市の方は行くことになってるから、もう遠い場所じゃなくなるし、たぶん海も見るだろうから、行く前じゃなかったから作れなかった一曲かなぁと思ってます。では、新曲、初オンエアです。曲名は、最初の歌い出しがそのまま曲名なんで、はい。あのねー、自分で自分の作った曲の名前言うの、めちゃくちゃ恥ずかしいんだよね。何ならさっきの恋バナなんかよりよっぽど。前置き長くなっちゃったね。じゃあ、どうぞ。
 それからそのミュージシャンの新曲が流れて、ラジオのアーカイブは終わった。でも、こうして思い返していると、その曲がどんな曲だったのかということより、直前のとりとめもない話とその話し方が耳に残っている。別にミュージシャンの語ったことに共感したり、自分にも同じような経験があると思ったりした訳ではなかった。僕は新潟の、しかも湯沢になら一度行ったことがあるからだ。何年か前の家族旅行だった。冬で、重たげに雪が降っていたことをよく覚えている。――あのとき湯沢が行き先に選ばれたのには色々な理由があったけれど、一つは湯沢の温泉宿を舞台にしたと言われている、恐らくはミュージシャンの言うところの有名な小説を、当時僕がよく読んでいたからだった。
 僕はその本を合計で四冊持っていた。それは間違って買ったとかそういうことではなくて、他の小説も入っている作品集や解説が新しくなった版が欲しかったり、あるいは親戚に古い文庫で貰ったりが重なった結果だった。そのうち一冊は人に貸していて手元にないけれど、残りの三冊は前の部屋から持って来た本の中にも混じっていて、だから片付けを手伝ってくれた友人も見て触れて、僕に手渡してくれた瞬間があったのだろうし、目を閉じればそれぞれが今、本棚のどこに入っているかを思い浮かべることができる。ミュージシャンの話は、そして魔法使いとサイバーパンクの話は、その本に纏わる記憶を喚起したのだった。だからこそこんなにもとりとめのないことが脳裏に焼き付いているし、ゆうたちの行き先は新潟になるのだった。――未だに僕の目の前で二人の会話は続いている。どこへ行くか分からない言葉のやりとりが楽しくて仕方がないというように、二人の表情は明るい。僕にはもうどこからどこまでが二人の話なのかが分からなかった。聞こえてくる声は佳境に入ったのか、逃げ出した人たちのことを一人一人語り始めた。
 ゆうたは携帯係だったことからも察せられるように、この小旅行にかなり乗り気で、簡単なしおりまで作っていたし、話し合いのときに司会のような役回りをこなしていた。とはいえ、決行の日の午前中は緊張と焦りで足の震えが止まらず、握っていたハンカチが手汗まみれになり、気持ち悪くて思わず会社のゴミ箱に捨ててしまった。その上、せっかく全員分刷って準備していた旅のしおりは部屋に忘れて来ていたことが電車に乗ってから発覚し、残念そうな顔で、辛うじて持って来ていた自分用のしおりに目を落とした。そのしおりも汗が滲んで皺が寄っている。
 ゆうたが会社でいちばん仲良くしているというシロウくんもまた、最初から非常に乗り気だった。気の利く常識人として知られているシロウくんが、ふざけて旅についてのパワーポイントを作って休憩中にプレゼンをしたことに周囲は驚いたが、彼は話し合いのあとには必ず、同期全員に個別に励ましのメッセージ、場合によってはこんなことに付き合わせてごめん、という謝罪の言葉のやり取りをしていたし、電車に乗ってすぐ、うおー、脱出成功だ、とおどけて言って、少しでも周りの不安を少なくしようとしていた。そしてつられてみんなが堰を切って話し始めると、安心したのか座席にもたれてすぐに眠り込んでしまった。横に流した前髪のうちの一本が、くるりとねじれて違う方向を向いていた。
 そんなシロウくんを、背の高いイチカちゃんはじっと見下ろしながらえも言われぬ気分になっていた。というのも、日程をあらかた決めて予約も終えたあとに、これ本当に行くんですか? と居酒屋で全員が青白い顔をした夜があって、そしてそのままだと全て取り消しになっていたところを、ここでやらなきゃいつやるんだ、今なら何やっても許されるだろバカとお酒の勢いも借りて叫んだのがイチカちゃんだった。どうしてそんなことを、しかも初めて話を聞いた時点では給料が貰えなくなるのではないかと真っ先に恐れた自分が言ったのか自分でもよく分からなかったが、おそらく彼女がいなければ、こうしてみんなが会社を飛び出すことはなかっただろうし、シロウくんが地固めと気遣いの果てに眠り込むことにはならなかった。でも、そうは言っても一度動き出したものは止められないのだから、と思ってイチカちゃんは一度唾を飲み込み、何震えてんだよ、と隣に立つゆうたの脇腹を小突いた。
 その横で、イチカちゃんこわーい、とおっとりした声で言うのは佐原奈々子だ。佐原奈々子はみんなが泊まることになっている宿の経営者夫妻の孫で、この逃避行を、ただの妄想から計画に移した一人だった。でも、その割に行くかどうかについては、気にしていないというよりどうでも良さそうで、前日だというのに、明日の午後はグループワークだよね、と真顔でシロウくんに言って、本当に来るのかどうか心底心配されていた。とはいえちゃんと社屋を抜け出してちゃんと駅前に姿を現したし、今はスマホを見られなくて手持ち無沙汰なのか、赤髪のバーチャルユーチューバーがこちらを振り返って微笑んでいる吊り広告を、ぽかんとした表情で真剣に見つめている。
 梶は離れた場所に立って、佐原奈々子たちの方を黙って向いていた。寡黙で鋭い眼光を持つ梶は、みんなから陰でスパイと呼ばれているように、どことなく人を寄せ付けない雰囲気があった。また、あまりに優秀なため、梶は本当にライバル企業が送り込んだ刺客なのではないかと言う人もいた。だから、彼をこの旅行に誘うかどうか、ゆうたとシロウくんはかなり悩んでいたし、誘ってからもイチカちゃんや佐原奈々子が、スパイなんだから誰かに密告するんじゃないか、とたびたび口にしていた。しかし梶はそんなことをしなかったばかりか、SNSや携帯は使わない方がいい、とか、一泊二日が現実的だろう、と話し合いのたびに意見を出したし、私がやる、の一言で諸々の予約の電話をすごい速度で終わらせた。梶ってそういうところあるんだ、とみんなは思い、梶もまた、こうして旅に出ることで張り詰めていた精神が少し緩んだ気がしたのだが、そういうことをそれぞれが素直に口に出すようになるのは、まだもう少し月日が経ってからのことだった。
 さて、そんな梶ではなく、梶の前に座り、口数は少ないけれどゆうたたちの話を微笑みながら聞いている金村さんこそが、今はまだ誰も知らないけれど、今回の件を密告しかけた人物だった。自分の倫理観に反することが人一倍苦手な半面、多数派に対し手を挙げることも苦手な金村さんは、うんうんと頷いて話が進むのを見守ることしかできず、葛藤を抱えたまま、昨日の退勤後、人事課のドアの前まで行ったのだった。ここに入れば、と金村さんは思った。言いたいことは全部準備してあるからすぐに楽になれるし、どう考えてもそれが、結果的にいちばん誰も傷付けず、笑って話を終わらせられる方法だった。それなのに、五分経っても十分経っても金村さんはドアを開けることができず、しまいには踵を返して夕焼けの方へ足早に歩き出した。それは、と途切れ途切れにその日の夜、畳の上で眼鏡を外した彼女は口にする。――みんなのことを信じていいと思ったとか、そんな綺麗なことじゃ、ないから。でも、そう言う顔は少し嬉しそうだったし、今、電車の中で自分が浮かべている笑みは作り笑いではないはず、と金村さんは思った。
 そして、最後の一人が僕だった。――逃げたい、と最初に呟いたのがそもそも僕なのだ。駅の階段を下りながら、思わず口にしたのだった。でも、その言葉は今や僕を離れて、右横で目を覚ましたシロウくんと隣の金村さん、そして立っているゆうたとイチカちゃんと佐原奈々子、さらに少し遠くの梶を巻き込んで、電車ごと僕たちを遠くへ連れ去っている。外はもう真っ暗だ。全く知らないはずなのによく知っている人たちに囲まれた僕は、僕のやって来た場所とこれから行く場所を、分からないなりに分かり始めていた。ポイントが切り替わって、車両が少し揺れた。
 そのとき、何か動くものが目に入って僕は顔を上げた。連結部分の向こうの隣の車両で、魔法使いとサイバーパンクが手を振っていたのだ。魔法使いがこちらを指さして、サイバーパンクが両腕をもう一度大きく振ってから、二人は揃ってにやりと笑って背を向けた。それは確かに僕に向けられた動作で、だから僕は少し照れて、それをごまかすように首を振ると、今度は背後に、並走している黄色い電車が見えた。電車は音を立ててどんどんこちらに近付いている。振り返って目を凝らすと、闇の中に白く縁どられた車内で一人きり、シートの仕切り板にもたれて目を閉じるスーツ姿の人影があった。そういうことか、と僕は悟った。自分の寝顔なんて想像しただけで嫌だと常々思っていたけれど、その姿は不思議と美しかった。左耳のイヤホンが外れて肩に落ちていた。
 窓ガラスに反射している僕の顔と、向こう側で眠る僕の顔が重なろうとしている。周りの楽しげな声が遠のいていく。都会のいくつもの光の中で、この車両もあちらの車両も交わって離れてを繰り返し、また一つの光になって流れていく。――そうして閉じた目の裏側に浮ぶ人や声や思い出を留めようとして僕は、今少ししばらくの永遠が続くことを願ってやまなかった。

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